アンジェと再会したのは、バンさんがいなくなってから数日後のことだった。

 待ち合わせしているわけでもないのに、僕は習慣で壁画があったビルの前に毎日通っていた。

 ある日の午後、いつの間にかアンジェが隣に立っていた。

 向こうから話しかけてくる気配はなかったが、アンジェの様子はいつも通りに見えた。でも、そこに見慣れた笑顔はない。哀愁を感じさせる、美しいアンティーク人形のような顔だ。

「バンさん、行っちゃったよ」

 とりあえずそう話しかけると、アンジェはこくりと頷いた。

「うん、知ってる」

 消えた壁画を懐かしむように、アンジェは壁に手を当てる。

「お別れの挨拶ができなかったのは残念だけど、バンさんは満足して消えたんだと思う。あんなふうに、はっきり目的を持ってる人はカッコイイよね。できることなら、あたしもそうなりたかったな」

「僕もだよ。だけど、自分がなにをしたいかなんて、わからない人のほうがたぶん多いんだ。生き甲斐って思えるものを見つけられたら、それだけですごいことだよな」

「そうだね」

「バンさんが消える直前に、『世界一周有名美術館めぐり弾丸ツアー』を敢行したんだ。君も参加すれば良かったのに」

「べつにいい。海外くらい何度も行ったことあるし」

「……ああそう」

 高校生のくせに生意気な。あの家からして、アンジェはいかにもお金持ちのお嬢様だもんな。

 でも、なに不自由なく育ったであろう彼女にも、誰にも言えない悲しみや苦しみがあった。だから、彼女はこんなにも若くして、幽霊となったのだ。

 やっぱり、このあいだのことを気にしているのか、アンジェはいつになくおとなしい。

 どうすれば元気づけられるかな。そう考えていると、

「このまえはごめんね。あたし、うっかりタローくんに取り憑いちゃうところだった」

 突然、そんな恐ろし気なことを言う。『うっかり』って、そんな軽い感じではなかったと思うが。

 僕はなにも言えずに、まだなにか言いたげなアンジェの言葉を待つ。

「なんか、いろいろ考えすぎて行きづまってたみたい。自分でもびっくりしたけど、幽霊って同じ幽霊に対してもああいうことできるんだね。悪霊になるのって、実は結構簡単なのかも。サダコ先輩の特殊能力が少しわかる気がしたよ」

「アンジェ、もうその話はやめよう! サダコ先輩の能力はわからなくていいから、そこは追及しないでくれ」

 ストップをかける意味で手を上げた。

 幽霊になってもその手の話はあまり聞きたくない。実際、同類なのに取り憑かれそうになったのだから洒落にならない。

「それで、今はもう落ち着いてるの?」

「今はね」

 それはつまり、この先のことはわからないということか。アンジェ自身、自分の気持ちを持て余しているのだろう。

 でも、僕だってアンジェの心配ばかりしていられる余裕はない。

 幽霊が存在するのは、自分の人生を自分なりに肯定するためなのだと思う。あらゆる悩みも後悔も認めて、自分で自分にケリをつけるということだ。

 今の僕にそんな覚悟があるのか?

 アンジェの力になりたいなんて、偉そうなことは言えないんだ。

「アンジェ、もし君が嫌でなければだけど、僕の身の上話を聞いてくれないか?」

 唐突にそう切り出すと、アンジェが怪訝な顔を上げた。

「いいけど。どうしたの、急に」

「誰かに聞いてもらわないと、僕も悪霊になりそうだから」

 そんなパワーはないけど。後悔を誰にも話さないまま自分の中で腐らせるより、いいと思えた。

「前に君は、僕の彼女のことを聞いただろ。僕が死んで、彼女が泣いてるよねって」

「うん」

「彼女は、僕が死んだことを知らないんだ」

「どうして?」

「自分がもう長くは生きられないとわかったとき、彼女とは別れたから。僕から切り出したんだ。病気のことは言わずに、『他に好きな人ができた』って嘘をついて」

 別れ話の理由にはありがちな、くだらない、陳腐な嘘だ。

 それでも、さんざん考えた末の、僕の一世一代の芝居だった。

 その頃、僕は自分の病気のことで手一杯だったこともあり、加奈に会うことも電話やメールの回数も激減していた。それも、僕の嘘に説得力を持たせたのだろう。

 加奈はいつも、人の目を見て話す。一見、普通の可愛い女の子なのに、その瞳には強い意志が宿っている。

 あのとき、気持ちを見透かされそうで、僕は目をそらした。

 だから、彼女の表情はちゃんと見ていない。加奈はなにも聞かずに、ただ小さな声で『わかった』とだけ言った。

「彼女に本当のことを言わなかったのは、僕の死という重荷を背負わせたくなかったから。それも本心だけど、それ以上に、だんだん弱っていく僕を見せたくなかった。僕は、ただかっこつけたかっただけなんだ」

 やせ細った体や、自力で動けなくなった姿を加奈に見られたくなかった。

 あの嘘は、僕の最後の、精一杯の虚勢だ。加奈には、元気だった僕の姿だけを覚えていてほしかった。

「あれ以来、彼女には会ってない。死んでからも会いに行ってない。僕たちには共通の友人もいなかったから、たぶん彼女はこの先も僕の死を知ることはないよ。まあ、友人そのものが僕にはほとんどいなかったんだけどね」

 小、中学校時代にはあまり通えず、高校、大学の友人も片手で数えるほどだった。それも大学を辞めてからは疎遠になった。残念ながら、僕はその程度の友情しか育めなかったということだ。

 加奈からも、一度も連絡が来ることはなかった。

 身勝手な僕は、そのことを少しだけ寂しいと感じていた。僕が思う以上に、加奈は僕との別れを引きずらなかったのだと。もちろん、それは僕の願いでもあったけれど。