「あの頃は、絵で成功することしか頭になかったんだ。毎日どん欲に描きまくって、自画自賛したり、他人の絵を見て嫉妬したりの繰り返し。プライドとコンプレックスのせめぎあい。今思えば、ただの身の程知らずの若造だ」
若い頃のやんちゃを語るみたいなバンさんの声は、けれどどこか誇らしげでもあった。
二十代といえば、今の僕と同世代か。老成して見える彼にも、当然ながらそんな時代があったのだ。
「結果が出ないことに焦って、しまいにはなにを描きたいのかもわからなくなって。結局、俺は挫折して、絵とはまったく関係ない仕事に就いた。でもそれも長続きしなくて、仕事を転々としたり、諦めきれずにまた絵を描きながらバイトしたり。死ぬまで、そんな試行錯誤の繰り返しだったよ」
「なんか、意外です」
「そうか?」
「バンさんてもっと、仙人みたいな人かと思ってました」
「仙人て……俺、これでもまだ三十代なんだけど」
タローくんから見たらオッサンかもだけど、とバンさんが笑う。
「俺みたいな人間は、たとえいくつまで生きても、死ぬまでジタバタあがくんだろうな。悩んで迷って、なにかつかめた気がしても、次の日にはまた同じことで悩んで。自分でもバカだと思うけど、それが俺にとって生きるってことだった。たぶん、何度人生をやり直せたとしても、俺はそんな生き方しかできないんだよ」
バンさんが自分からこんなに話すのは初めてだった。
彼の核ともいえる絵画への思い。彼の人生そのもの。
バンさんみたいな人でも、誰かに聞いてほしい心境になることがあるんだ。
「俺ね、最後のコンクールに賭けてたんだよね。自信もあった。ただの思い込みだったかもしれないけど、思い込みがないと絵描きなんてやってられない部分もあって。だから、自分が突然死んだってことを、しばらくは受け入れられなかった。けど、どれだけ後悔しても生き返るわけでもなく。どうしようもない未練を引きずりながら、街を彷徨っていた。今もあのままだったら、俺も悪霊になっていたのかもしれないな」
突然命を失ったことに気づけば、誰だってショックでどうしていいかわからなくなる。ましてや、彼には夢も希望もあったのだから。
「でも、バンさんはそうならなかった。どうしてですか?」
バンさんは両手を広げ、そこにじっと目を落とした。
「しばらくして、気づいたら絵筆を握っていたんだよ。自分でも笑えるくらい、俺にはそれしかなかったってことだ。なにも考えずに壁に向かって絵を描いているうちに、子供の頃、初めて絵を描いたときの気持ちを思い出していた。ただ純粋に、自分の中にある色と形を表現したい。その思いだけで、俺は壁画を描いていたんだ」
彼は、汚れたツナギ服の胸に右手を当てた。かつてはあったはずの鼓動を確かめるみたいに。けれど、バンさんの情熱は今もそこで息づいている。
「生前、絵は俺にとって生きる理由であり、戦いでもあった。他人の評価や、自分の葛藤との戦い。でも、今はそれがないんだ。もうなにとも戦わなくていい、ただ好きなように描いていいんだと思ったとき、俺はすごく幸せだった」
彼を縛っていた様々なものがはがれ落ちて、最後に残ったもの。
彼の魂は、自分がなにを欲しているかを最初から知っていた。壁画を描くことで、バンさんはそれに気づいたのだ。
バンさんはふたたび顔を上げてニケを見上げた。
「久しぶりにここに来たけど、昔見たときとは少し違って見える。昔はこの迫力に鳥肌が立つほど圧倒されたのに……なんでかな、今はただ、泣きたいくらい美しいと感じる。俺は、人の手が創り出したものが、たまらなく好きなだけなんだよな」
神々しい女神像を崇めるように、慈しむように見つめる。バンさんのその姿は、ニケと同じ光に包まれていた。
死者は、少しずつなにかから解き放たれていく。
不安や葛藤という錘を捨て去って、自由になって。
そしてやがて、この女神のように世界から飛び立つ。
「俺は死んだけど、俺の作品は今もこの世界に残ってる。たぶん、友達や家族が俺を偲んでくれているあいだはね。それから、俺も忘れてるような作品が今も大学に残ってたり、本当にごく稀に個展で売れたりした絵が、どこかで眠ってたりするかもな。いつかそれを見た人が、その絵を気に入ってくれたら嬉しいけど、気に入らなくてもまあそれはしょうがない。それで、見てくれた人が、描いたやつはどんなやつなのか想像したり、自分も絵を描いてみたいと思ったりする。……たぶん、芸術っていうのは、そういう人間の思いの連なりなんだ。有名でもなく、絵が高値で売れたわけでもない俺でも、確かにそんな流れの中にいた。それが、俺の誇りなんだ」
バンさんはやわらかく微笑んだ。
僕が最初に感じた、世界をあまねくその手に抱く救世主(メシア)のように。
太古の時代から、絵も音楽も、人々の喜びであり、神への祈りでもあった。
芸術の価値も、技術の上手い下手も僕にはわからない。
だけど、遙か昔に創られた作者不明の彫刻も、バンさんの壁画も、同じ祈りなのだと思う。
彼にとって、コンクールの結果はもう意味がない。今は彼の絵そのものが、彼の魂なのだから。
彼が描いたもの、これから描きたいと思っていたもの。そのすべてが、彼自身なのだ。
バンさんの人生は、彼にしか描けない未完の芸術作品だった。
自分の情熱をそこまでなにかに向けられた彼の人生を、やっぱり少し羨ましくも感じる。
そして、たとえ死後でも、そんなバンさんに出会えたことは僕にとって幸せだった。
「じゃあ、次に行こうか」
バンさんは急にハイテンション気味になり、僕が顔を上げると、
「これから、オルセー美術館とプラド美術館に行くからつきあって。あと、ナショナル・ギャラリーとメトロポリタン美術館とエルミタージュと……」
聞き覚えのある有名美術館の名前をいくつもあげる。
「それ全部、回る気ですか?」
「当然。どうせなら、今しかできないことやろうぜ」
そして、僕たちは本当に、一日で世界中の美術館をハシゴするという、生身の人間には絶対に不可能な超ハードスケジュール弾丸ツアーを敢行した。
せっかくなので普通の観光地も回りたかったが、残念ながらバンさんはそういう場所にはほとんど縁がなかったとのことだった。
そして、翌日。
幽霊にだけ見える超大作の壁画を残して、バンさんはこの世界から消えた。
若い頃のやんちゃを語るみたいなバンさんの声は、けれどどこか誇らしげでもあった。
二十代といえば、今の僕と同世代か。老成して見える彼にも、当然ながらそんな時代があったのだ。
「結果が出ないことに焦って、しまいにはなにを描きたいのかもわからなくなって。結局、俺は挫折して、絵とはまったく関係ない仕事に就いた。でもそれも長続きしなくて、仕事を転々としたり、諦めきれずにまた絵を描きながらバイトしたり。死ぬまで、そんな試行錯誤の繰り返しだったよ」
「なんか、意外です」
「そうか?」
「バンさんてもっと、仙人みたいな人かと思ってました」
「仙人て……俺、これでもまだ三十代なんだけど」
タローくんから見たらオッサンかもだけど、とバンさんが笑う。
「俺みたいな人間は、たとえいくつまで生きても、死ぬまでジタバタあがくんだろうな。悩んで迷って、なにかつかめた気がしても、次の日にはまた同じことで悩んで。自分でもバカだと思うけど、それが俺にとって生きるってことだった。たぶん、何度人生をやり直せたとしても、俺はそんな生き方しかできないんだよ」
バンさんが自分からこんなに話すのは初めてだった。
彼の核ともいえる絵画への思い。彼の人生そのもの。
バンさんみたいな人でも、誰かに聞いてほしい心境になることがあるんだ。
「俺ね、最後のコンクールに賭けてたんだよね。自信もあった。ただの思い込みだったかもしれないけど、思い込みがないと絵描きなんてやってられない部分もあって。だから、自分が突然死んだってことを、しばらくは受け入れられなかった。けど、どれだけ後悔しても生き返るわけでもなく。どうしようもない未練を引きずりながら、街を彷徨っていた。今もあのままだったら、俺も悪霊になっていたのかもしれないな」
突然命を失ったことに気づけば、誰だってショックでどうしていいかわからなくなる。ましてや、彼には夢も希望もあったのだから。
「でも、バンさんはそうならなかった。どうしてですか?」
バンさんは両手を広げ、そこにじっと目を落とした。
「しばらくして、気づいたら絵筆を握っていたんだよ。自分でも笑えるくらい、俺にはそれしかなかったってことだ。なにも考えずに壁に向かって絵を描いているうちに、子供の頃、初めて絵を描いたときの気持ちを思い出していた。ただ純粋に、自分の中にある色と形を表現したい。その思いだけで、俺は壁画を描いていたんだ」
彼は、汚れたツナギ服の胸に右手を当てた。かつてはあったはずの鼓動を確かめるみたいに。けれど、バンさんの情熱は今もそこで息づいている。
「生前、絵は俺にとって生きる理由であり、戦いでもあった。他人の評価や、自分の葛藤との戦い。でも、今はそれがないんだ。もうなにとも戦わなくていい、ただ好きなように描いていいんだと思ったとき、俺はすごく幸せだった」
彼を縛っていた様々なものがはがれ落ちて、最後に残ったもの。
彼の魂は、自分がなにを欲しているかを最初から知っていた。壁画を描くことで、バンさんはそれに気づいたのだ。
バンさんはふたたび顔を上げてニケを見上げた。
「久しぶりにここに来たけど、昔見たときとは少し違って見える。昔はこの迫力に鳥肌が立つほど圧倒されたのに……なんでかな、今はただ、泣きたいくらい美しいと感じる。俺は、人の手が創り出したものが、たまらなく好きなだけなんだよな」
神々しい女神像を崇めるように、慈しむように見つめる。バンさんのその姿は、ニケと同じ光に包まれていた。
死者は、少しずつなにかから解き放たれていく。
不安や葛藤という錘を捨て去って、自由になって。
そしてやがて、この女神のように世界から飛び立つ。
「俺は死んだけど、俺の作品は今もこの世界に残ってる。たぶん、友達や家族が俺を偲んでくれているあいだはね。それから、俺も忘れてるような作品が今も大学に残ってたり、本当にごく稀に個展で売れたりした絵が、どこかで眠ってたりするかもな。いつかそれを見た人が、その絵を気に入ってくれたら嬉しいけど、気に入らなくてもまあそれはしょうがない。それで、見てくれた人が、描いたやつはどんなやつなのか想像したり、自分も絵を描いてみたいと思ったりする。……たぶん、芸術っていうのは、そういう人間の思いの連なりなんだ。有名でもなく、絵が高値で売れたわけでもない俺でも、確かにそんな流れの中にいた。それが、俺の誇りなんだ」
バンさんはやわらかく微笑んだ。
僕が最初に感じた、世界をあまねくその手に抱く救世主(メシア)のように。
太古の時代から、絵も音楽も、人々の喜びであり、神への祈りでもあった。
芸術の価値も、技術の上手い下手も僕にはわからない。
だけど、遙か昔に創られた作者不明の彫刻も、バンさんの壁画も、同じ祈りなのだと思う。
彼にとって、コンクールの結果はもう意味がない。今は彼の絵そのものが、彼の魂なのだから。
彼が描いたもの、これから描きたいと思っていたもの。そのすべてが、彼自身なのだ。
バンさんの人生は、彼にしか描けない未完の芸術作品だった。
自分の情熱をそこまでなにかに向けられた彼の人生を、やっぱり少し羨ましくも感じる。
そして、たとえ死後でも、そんなバンさんに出会えたことは僕にとって幸せだった。
「じゃあ、次に行こうか」
バンさんは急にハイテンション気味になり、僕が顔を上げると、
「これから、オルセー美術館とプラド美術館に行くからつきあって。あと、ナショナル・ギャラリーとメトロポリタン美術館とエルミタージュと……」
聞き覚えのある有名美術館の名前をいくつもあげる。
「それ全部、回る気ですか?」
「当然。どうせなら、今しかできないことやろうぜ」
そして、僕たちは本当に、一日で世界中の美術館をハシゴするという、生身の人間には絶対に不可能な超ハードスケジュール弾丸ツアーを敢行した。
せっかくなので普通の観光地も回りたかったが、残念ながらバンさんはそういう場所にはほとんど縁がなかったとのことだった。
そして、翌日。
幽霊にだけ見える超大作の壁画を残して、バンさんはこの世界から消えた。