バンさんは、まだ筆を動かし続けている。

 画家のこだわりなのか。この絵に対する彼の思い入れなのか。とても大切そうに色を塗り重ねていた。

 そんな彼の作業を、僕はアスファルトの上で足を伸ばして眺める。

「アンジェ、ここ数日見ないな」

 めずらしく、バンさんのほうからそんな話題を振ってきた。

「……ですね。案外、もう消えてたりして」

 そう返しつつも、本当はアンジェが消えたとは思っていない。彼女の心残りは、そう簡単には消えそうにないからだ。

 僕が彼女と最後に会ったのは三日前。

 そのときのアンジェとのやり取りや、彼女が闇堕ちしかけたことについて、バンさんには話していない。なんとなく、アンジェは他の誰にも話してほしくないだろうという気がした。

「そうだったらいいけどな」

 バンさんの声は、本当にそう思っているふうだった。

「バンさんには『黙って消えないで』って言ってた本人が、別れの挨拶もなしに先にいなくなったら、話が違うだろって思いませんか?」

「でも、幽霊ってそういうもんだから」

 素っ気なく聞こえるが、それが事実だ。ある日突然、なにも言わずにバンさんや僕もいなくなる可能性はある。

 それは寂しいような気もするし、あたりまえのような気もする。

 僕たちのあいだにあるのは友情ではなく、つかの間、同じバスや電車に乗り合わせて、少し会話したくらいのものだろう。

 だから「では、お先に」と言って去っていける。それでいい。

 いや。やはり、その考え方はあまりに他人行儀ではないか。

「タローくん」

「はい」

 物思いにふけっていたら、改まって名前を呼ばれた。

 顔を上げると、バンさんが目の前にいる。茶目っ気のある笑顔で右手を差し出され、思わずつかむとグイッと引っ張られた。

「今からフランスに行くぞ」

「え?」

 立ち上がったとき、周囲の景色はガラリと一変していた。

 瞬間移動にはもう慣れていたが、その劇的な変化にはさすがに驚いた。ごちゃごちゃとした日本の雑踏から飛んだら、目の前にガラスのピラミッドが建っているではないか。これは、テレビで見たことがある。

「まさか、ルーブル美術館?」

「よくわかったね」

 バンさんがにんまり笑う。

「それにしても、うまくいったな。ここは結構思い入れがある場所だけど、こうすんなり来られるとは思わなかった」

 バンさんは懐かしそうにあたりを見回した。

 日本とフランスの時差はだいたい八時間ほど。日本は昼過ぎだったから、パリは早朝か。

 まだ夜明け前なのか、きれいな薄紫色の空が広がっている。開館時間にはさすがに早いらしく、美術館前の広場に人影はなく、鳩が何羽かのどかに散歩しているだけだ。

「たぶん、俺からなるべく離れないほうがいいよ。でないと、君だけ元の場所に戻ると思う」

 手を離すとそう言われたので、僕は慌ててバンさんのツナギ服の背中のあたりをつかんだ。

 おそらく、今はバンさんと僕の魂が同調している。これが切れたら、僕のこの旅行は終了となるわけだ。

 死んでから初めて海を渡るとは思わなかった。しかもタダで。ルーブル美術館なんて、海外旅行初心者にはうってつけの観光地じゃないか。

 重厚な石造りの城の前にそびえる、近代的なガラスのピラミッド。ここはエントランスホールになっているらしい。チケットを買う必要もなく、僕とバンさんはガラスを擦り抜けて中へと入った。

 もともとは宮殿だったという建物は広く、複雑な造りだった。天井や柱には所狭しと絵や彫刻が施されていて、それ自体が豪華な芸術作品だ。

 そこに、世界中から集められた美術品が六十万点以上も収蔵されており、展示されているのはごく一部だという。

 当然のことながら、世界には僕の知らないもの、見たことも聞いたことすらないもので溢れている。生前に知らなかったことを悔やむ意味もないほどに、世界は広い。

 開館前の美術館には静寂が満ちていた。

 僕らは幽霊なので、足音のひとつすら響かない。

 世界一有名な美術館を貸し切りにできるなんて、幽霊ならではの贅沢だ。

 レオナルド・ダ・ヴィンチだとか、ドラクロワだとか、僕でも知っている有名どころを見て回る。本で見たことがあるなと思うだけで、それほどの感動は覚えなかった。

 生前に興味がなかったものを、死んでから好きになるはずもない。

 もしも僕がバンさんのような人生を歩んでいたらと想像するけれど、ピンとこなかった。

 人はすべてを手に入れることなどできない。

 僕の中にあるこの感情が生前をなぞっているだけだとしても、これが僕の生きてきた証だ。

 いくつもの彫刻が並ぶ広い廊下を抜けて、大理石の階段を上る。その先に、かの有名なサモトラケのニケが鎮座していた。

 これは、いつか本で見たときに、芸術にたいして興味のない僕でさえ、その美しさに目を奪われた石像だった。

 天窓から差し込む朝の光が、不完全な女神の体を照らしていた。

 背中に広がる優美な翼。風に揺れるドレスのドレープ。白い石像に落ちるその陰影のすべてが、完璧に調和している。

 腕も、頭部さえないのに、どうしてこうも美しいのか。

 光の粒が厳かな音色を奏で、ホール中に響き渡るかのようだ。

「不完全だからこそ、人は女神の全体像に思いを馳せるんだ。たぶん、彼女の欠けたパーツがすべて見つかったとしても、今ほど美しくはないよ」

 女神に恋する瞳で、バンさんが語る。

「だけど、絵画でも彫刻でも、あるいは音楽でも文学でも、芸術に完全はないんだ。死ぬまで一枚の絵画に手を加え続ける画家がいるように、そこには永遠に終わらない思いがあるから」

 バンさんのような芸術家は、いくつになっても情熱を失わない人もたくさんいる。たとえ百歳まで生きたとしても、満足することはないのかもしれない。

「バンさんは、いつ頃ここへ来たんですか?」

「十年以上前だよ。二十代の頃、フランスに短期で絵の勉強をしに来たときに何度か」

 遠い記憶を懐かしむようにバンさんが目を細めた。