加奈が書く小説というものが、僕はとても気になった。

 それからまた一月くらい、会うたびにそれとなくせがんでいたところ、彼女はようやく渋々といった様子で作品名とペンネームを教えてくれた。

 ペンネームは特にこだわりがないらしく、普通に『kana』と表記されていた。珍しくもなんともないので、これだけで加奈だと知人にバレることはまずない。

 そして、問題の作品はというと。タイトルは『異世界に転生した僕のありふれた日常について』。この、半分ネタバレしているみたいな長いタイトルは昨今の流行だ。

 しかしどうやら、加奈の小説はあまり、というかまったく人気がないようだった。閲覧数は多い日でも二桁だし、評価も感想もゼロ。

 ネットという広大な海原に漂う小舟、というよりも発見されるのが難しい沈没船といっても過言ではない。

 あらすじは……主人公(不慮の事故で死んだ現代日本の男子高校生)が、中世ヨーロッパみたいな異世界に転生する。けれど、彼は特別な力を持ってはおらず、勇者にも魔王にもならず、複数の女子から好意を向けられることもなく、地道に異世界で生活する。

 普通に働いて、結婚して、子供が生まれる。そして年老いて、己の人生を顧みる。早死にした前世と、人並みに幸せだった異世界での人生に思いを馳せながら、彼は天寿をまっとうするのだ。

 主人公がチート能力を駆使してほぼ無双状態で大活躍し、わかりやすいハッピーエンドを迎えるのが、読者が求める王道の異世界転生ものだ。それにくらべて、加奈の作品はあまりに地味だった。

 ただ前世の記憶を持っているだけの、平凡な男の、平凡な人生。

 何か大きな事件や謎があるわけでもなく、普通のファンタジー作品としても面白みに欠けている。

 加奈自身、自分の作品にまったく人気がないということを認めて、いつになく落ち込んでもいた。

「異世界に転生して成功する、っていうモチーフには、独特なカタルシスがあると思う。現代社会のストレスを反映しているというか。みんな、ここではないどこかに、楽園があると思いたいのね。そこへ行くだけで救われるという、手軽なおとぎ話を求めているのかな」

 加奈の分析は的を射ていた。けれど、それがわかっているのなら、もう少し読者に喜ばれる作品を書けると思うのだが。

「だったら、そういう需要がある話を書けばいいのに」

「私もできればもっと受ける話を書きたいんだけど、なぜかそうはならないんだよね。私って、意外と頭が固いのかな。成功するにしても誰かに好かれるにしても、なにかしら納得がいく理由や、本人の努力が必要なはず、とか思っちゃって。そこを突き詰めて書くとこうなるの」

「ラノベは突き詰めるものじゃないからね。みんな、フィクションに手軽なハッピーエンドを求めてるんだよ」

「うん、私もそういう話が好き」

「好きなのに書けないの?」

「自分で書くと、どうしてかこうなるの」

 自分でも不思議。と、首をひねる加奈が面白くて、失礼ながら笑ってしまった。

 ゆるふわ系に見えて、加奈はとてもしっかりしている。

 根が真面目で意志が強くて、意外と頑固なところもあって。そういう性格が、意図せずに彼女の作品に反映していたのかもしれない。

 やっぱり、加奈の作品は加奈らしい。

「でも、僕は好きだよ、加奈の小説」

 詳しい感想や意見を言わずに、僕はただそれだけを告げた。

 加奈は信じていないのか、じっとりとした目で僕を見た。

「慰めてくれなくてもいいよ。自分でもこんなものかと納得してるし、とりあえず書けたことに満足したからもういいの」

「嘘じゃないよ。僕は本気で感動したし……」

 実は少し泣いた。いうのは、さすがに恥ずかしいので黙っておいた。

 加奈の作品は、彼女らしく健全で、小市民的な喜びとやさしさに満ちていた。そしてそこには、前世で報われないまま死んでしまった主人公への慈愛があった。

 大活躍や大モテ期がなくても、転生した彼は普通に幸せに生きた。生きられなかった前世の分まで。それだけで、その物語は誰がなんと言おうとハッピーエンドだった。

 若くして死んだ主人公に、僕は自分を重ねていたのだと思う。

 加奈の綴る丁寧な文章は、僕を不思議な安らぎで包んでくれた。

「それに、文章力と構成力はかなりあると思う。ちゃんと小説になってるのがすごいよ」

「そうかな。じゃあ、そのうち書籍化されたりして」

「なるといいね」

 ぶっちゃけて言うと、それはさすがに甘いかなと思うけれど。

 だけど、この先も加奈が書き続けたとして、そうならないとは誰にも言い切れない。加奈には無限の未来があるのだ。

 そして、そうならなかったとしても、加奈は気にしないのだろう。誰かの評価を期待してではなく、彼女が書きたいと思うから、彼女が信じる物語を紡ぐのだ。

 僕はたぶん、加奈の小説の最初のファンだ。最後のファンでもあるかもしれない。

 あの物語は、今も僕の中で、宝物のように大切な記憶となっている。

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