加奈がバイトしている書店の近くに、雰囲気のいい喫茶店があった。

 何十年もそこにある老舗の喫茶店で、コーヒーが美味しいことで有名だ。

 だけど、加奈はコーヒーが飲めない。

 彼女がその店で頼むのはいつもロイヤルミルクティーだった。それも、砂糖を入れた甘めのやつ。加奈はかなりの甘党なのだ。

 その日も、ロイヤルミルクティーを前にした加奈は、世間話のように話しはじめた。

「この前、自分でも小説を書いてみたの」

 本当に、彼女は僕の予想を常に上回る。『ちょっとクッキー焼いてみたの』みたいにこんなことを言う人を、僕は他に知らない。

 読書好きな加奈なので、小説を書くという行為はそれほど彼女からかけ離れてはいない。ただ、自分の意見はいつでもはっきり口にできる彼女が、そういう形で発信したいと考えるとは思わなかった。

「前から自分でも書いてみたいと思っていたんだけど、完成させたのは初めてで、せっかくだからネットの小説サイトに上げてみたの」

 さすがは加奈。行動的である。

「すごいじゃないか。どんな話なの?」

「異世界転生もの」

「流行り路線だね」

 それは、彼女が最近好んでいるライトノベルで、よくあるテーマのひとつだった。

 その手の話ではたいていの場合、若くして不遇の死をとげた主人公が、ファンタジックな異世界に転生して、神から特別に与えられた能力や、前世の知識を駆使して活躍する。ざっくりいうとこんな感じか。

 だいたいは、むくわれなかった前世の埋め合わせ的に、特に苦労することなく大活躍したり、複数の異性から言い寄られるなど、気楽でハッピーな状態でストーリーが進んでいく。

 そういった作品は、大概ネットの小説投稿サイトで人気に火がつき、書籍化されるなどの傾向にあった。

 子供の頃から僕の娯楽といえばほぼ読書だったので、昔からライトノベルも読んではいた。加奈に言わせると、僕がその手の作品を読むのは意外だったらしい。

 だいたいいつも、太宰治や梶井基次郎なんかを持ち歩いていたせいだろうか。

 わかりやすいハッピーエンドも嫌いではないが、基本的にハッピーでなかった僕は、ネガティブな文豪の作品に親近感を覚えていたのだと思う。

 ちなみに、僕が加奈にそういった本をすすめたところ、「小難しくて暗いのは好きじゃない」と、にべもなく突っぱねられた。

 加奈が好きなのは、漫画でも小説でも映画でも、痛快でキャラクターが魅力的でハッピーエンドが約束されているような作品だ。

 そんなわかりやすいエンタメを好む彼女と、小難しくて暗い文学作品を好む僕は、相性がいいとは言えなかったのに。人の縁というのは、謎に満ちている。

「加奈の小説、読んでみたいな。タイトルとペンネーム教えてよ。探すから」

 僕が頼むと、加奈は弾かれたように首を横に振った。

「嫌だよ。小説を書いたってことも、話したのは今が初めてなんだから」

「そこまで嫌がるってことは、18禁とか?」

「違うけど」

「じゃあ、BL?」

「違う」

「女性主人公がイケメンに言い寄られる逆ハーレム?」

「違います」

 加奈はどれもきっぱりと否定する。

「題材が問題なわけじゃなくて。なんていうか、作品ていうのは私の気持ちを表現するものでしょ? それを人に見せるっていうのは、ある意味全裸を見せるより恥ずかしいものがある」

「全裸って……。でも、ネットで不特定多数の人には見せてるんだよね?」

「まったく見ず知らずの人のほうが平気。逆に、知り合いにはあまり見せたくない気がする」

「わからないな。見ず知らずの人なら全裸を見られてもいいってこと?」

「そういう意味じゃなくて! それはあくまでも“例え”だから」

「ごめん」

 加奈がムキになるのがおかしくて、ついからかってしまう。半ば本気で怒った彼女の機嫌を取るために、僕は追加でケーキを注文した。

 運ばれてきた季節のフルーツタルトで、加奈の機嫌は簡単に元に戻った。彼女は本当に甘いものには目がない。

 けれど、加奈はどこか物悲しい瞳で、宝石のような色とりどりの果物をそっとフォークの先で突く。

「書いていると、どうしても自分が出てしまうものだよね。『私ってこんなこと考えてたのか』って、新たな発見があるというか。それはいい経験になったと思う」

 なんか偉そうだけど。そう言って笑いながら、加奈はマスカットを口に運んだ。

 別に小説でなくとも、素の自分をさらけ出すことは勇気がいる。

 その気持ちが、僕にはとてもよくわかった。僕の人生の大半は、元気である自分を取り繕うことで作られていたから。

 僕の事情を話したところで相手を困らせるだけだし、同情の言葉も聞きたくはない。だから、深刻な病気など抱えていないふりをして、笑顔をつくる。

 加奈の前でもそうだった。

 彼女がそんな話をしたとき、僕の心を見透かされているような気がしたのは、そのせいだろう。