「アンジェは若いせいなのか、幽霊にしては人懐っこいところがあるよな。最初、俺が絵を描いているところに近寄ってきて、すごく綺麗だって褒めてくれたんだ。いつの間にかおかしな呼び名をつけられたりして、面白い子だなと思ったよ」
今では、僕の中でもすっかり『バンさん』という名前が定着して、他の呼び方が考えられない。三人それぞれ偽名で呼び合いながら、不思議としっくりきている。
バンさんに会わせてくれたのもアンジェだった。彼らとの出会いがなければ、僕の幽霊生活はとてもつまらないものだっただろう。
「タローくんは落ち着いてるよな。アンジェともそんなに年が違わないのに、ずいぶん達観して見える」
「僕の場合は、子供の頃からの病気だったんで、それなりに覚悟は出来ていたんですよね」
「突然死ぬのも悲劇だけど、自分が死ぬかもしれないと思いながら生きるのもキツいよ。それをずっと抱えてきたなんて、君はすごいな」
「すごくはないです」
覚悟など、本当にできていたのだろうか。そんなものがあってもなくても、死は訪れる。
家族がいても、恋人がいても、死と向き合うのは自分ひとり。
その不安と戦わなくていい今、生きていたときよりも気持ちが落ち着いていることは確かだった。
僕はもう、死の恐怖に脅かされることはない。
だけど、それでも迷いはある。
「僕は未だに、自分がどうなりたいのかわからない。迷うことなく絵を描いていられるバンさんのほうが、僕はすごいと思います」
「俺はやりたくてやってるだけだよ。この壁画が俺にとって意味があるのかどうかもわからない。案外、描き終えた後も、ここにしつこく残っていたりしてな」
「それはそれで大歓迎ですけど」
そう言いつつも、バンさんには自分の消え時がわかっているように思える。
置いてけぼりを食らうのは寂しいな。幽霊は互いに愛も憎しみも抱かないと聞いたけど、こういう親しみはまた別なのだろうか。
「僕はときどき、空しくなるんです。自分にはなにもできないってことが。いっそ幽霊の超能力で、悪人をつかまえたり、誰かの危機を救えたらいいのに。僕はただ、この世界を見ていることしかできません」
僕には世界を壊す力も、救う力もない。
実体を持たない僕の手は、道に落ちているゴミのひとつさえ拾えやしない。
生前の想いを引きずりながら、ただ地上を彷徨っている。空を漂う雲だって、雨を降らせることができるというのに。
「幽霊にその力がないのは、やらなくていいからだよ。生きている人間のことは、生きている人間が救えばいい」
バンさんがめずらしく僕の位置まで下がってきて、壁画全体を見回した。
「君の事情はよく知らないけど、若いのにいろいろ考えてるんだな。俺が君くらいの頃なんて、絵を描くか、酒を飲んでバカ騒ぎするかのどちらかだった」
バンさんのそんな姿も、なんだか容易に想像できてしまう。絵に関してはストイックなんだけど、実生活はかなりずぼらみたいな。
彼は長身を屈めて僕の肩をぽんと叩いた。
「心配しなくても、タローくんは大丈夫だよ。君は十分に頑張ったから、もう頑張らなくていい」
大丈夫って、なにが大丈夫なんだ? いいかげんなアドバイスだな。そんなことを思いながらも、僕は少しだけ泣きそうになる。
案外、誰かに慰めてほしかっただけなのかな。
気持ちが少し軽くなって、もうこのまま消えてしまってもいいような気がしたけれど、そういう予感はない。僕が消えるのはまだ先のことらしい。
「けど、アンジェに関しては、少し危うい感じがするんだよ。明るく振る舞っているけど、内心はかなり心細いように見える。俺に話しかけてきたのもそんな理由だろうし」
もしかすると、僕に話しかけてきたことも、そうだったのだろうか。
僕が戸惑っているのを見かねたせいもあるのだろうが、アンジェ自身も年の近い話し相手がほしかったのかもしれない。
「ここで何日も黙って絵を眺めていたかと思うと、ときどきどこかへふらっと消えて、でも気がつくとまた戻って来ていたりして。幽霊なんてみんなそれぞれ事情があるし、アンジェがなにを考えてるのか、尋ねたことはないけどね」
幽霊は、それぞれの人生を抱えている。
この世でもあの世でもない、不安定な世界の狭間で。
幽霊の存在に意味なんてないとアンジェは言ったけれど、本当は彼女も何かしらの、彼女なりの答えを求めている。この世界に留まっているのが、その証拠じゃないか。
「アンジェが“危うい”って、どういう意味ですか?」
「前に、悪霊の話をしただろ?」
質問に質問で返されて、僕はバンさんとの会話を思い返す。
「フィクションに出てくるような凶悪な幽霊は、滅多にいないだろう、って話ですよね」
「そうなんだけどさ。魂が壊れて自分を見失ってしまうのは、他者への恨みや憎しみだけではないかもしれないだろ? 場合によっては、大きすぎる悲しみも危険なんじゃないかなって」
悲しみも、憎しみと同じ負の感情だ。
生きている人間だって、それで心を病むこともある。ときには、誰かを傷つけたり、自分を傷つけたりしてしまうほどに。
もしも、大きな悲しみを引きずったまま幽霊になったとしたら?
バンさんが言うように、それは危ういことに思える。
「アンジェがそうだと思うんですか? あんなに明るいのに、大きな悲しみを背負ってるって」
「アンジェの明るさは、どこか空元気っぽく感じるよ。俺の思い過ごしならいいけど。それに、彼女がなにを抱えているにしても、他人が踏み込むことはできない。冷たいかもしれないけど、できることはないんだ」
悲しいことに、バンさんの言うとおりだった。
たとえアンジェの未練について知ったところで、僕たちにはなにもできない。
幽霊が抱えるのはすべて心の中のことだ。
自分の人生に片をつけられるのは自分だけ。それは、アンジェに限らず僕やバンさんもそうだ。
普段のアンジェからは、バンさんが言うようなことは結びつかない。
けれど、自分の家を見つめていたときの表情や、死期について嘘をついていたことで、僕のアンジェに対する印象は少し変わった。
彼女はひとりでなにを抱えているのだろう。
あの人形のようなメイクが、アンジェの心を隠す仮面のように僕には思えてきた。
今では、僕の中でもすっかり『バンさん』という名前が定着して、他の呼び方が考えられない。三人それぞれ偽名で呼び合いながら、不思議としっくりきている。
バンさんに会わせてくれたのもアンジェだった。彼らとの出会いがなければ、僕の幽霊生活はとてもつまらないものだっただろう。
「タローくんは落ち着いてるよな。アンジェともそんなに年が違わないのに、ずいぶん達観して見える」
「僕の場合は、子供の頃からの病気だったんで、それなりに覚悟は出来ていたんですよね」
「突然死ぬのも悲劇だけど、自分が死ぬかもしれないと思いながら生きるのもキツいよ。それをずっと抱えてきたなんて、君はすごいな」
「すごくはないです」
覚悟など、本当にできていたのだろうか。そんなものがあってもなくても、死は訪れる。
家族がいても、恋人がいても、死と向き合うのは自分ひとり。
その不安と戦わなくていい今、生きていたときよりも気持ちが落ち着いていることは確かだった。
僕はもう、死の恐怖に脅かされることはない。
だけど、それでも迷いはある。
「僕は未だに、自分がどうなりたいのかわからない。迷うことなく絵を描いていられるバンさんのほうが、僕はすごいと思います」
「俺はやりたくてやってるだけだよ。この壁画が俺にとって意味があるのかどうかもわからない。案外、描き終えた後も、ここにしつこく残っていたりしてな」
「それはそれで大歓迎ですけど」
そう言いつつも、バンさんには自分の消え時がわかっているように思える。
置いてけぼりを食らうのは寂しいな。幽霊は互いに愛も憎しみも抱かないと聞いたけど、こういう親しみはまた別なのだろうか。
「僕はときどき、空しくなるんです。自分にはなにもできないってことが。いっそ幽霊の超能力で、悪人をつかまえたり、誰かの危機を救えたらいいのに。僕はただ、この世界を見ていることしかできません」
僕には世界を壊す力も、救う力もない。
実体を持たない僕の手は、道に落ちているゴミのひとつさえ拾えやしない。
生前の想いを引きずりながら、ただ地上を彷徨っている。空を漂う雲だって、雨を降らせることができるというのに。
「幽霊にその力がないのは、やらなくていいからだよ。生きている人間のことは、生きている人間が救えばいい」
バンさんがめずらしく僕の位置まで下がってきて、壁画全体を見回した。
「君の事情はよく知らないけど、若いのにいろいろ考えてるんだな。俺が君くらいの頃なんて、絵を描くか、酒を飲んでバカ騒ぎするかのどちらかだった」
バンさんのそんな姿も、なんだか容易に想像できてしまう。絵に関してはストイックなんだけど、実生活はかなりずぼらみたいな。
彼は長身を屈めて僕の肩をぽんと叩いた。
「心配しなくても、タローくんは大丈夫だよ。君は十分に頑張ったから、もう頑張らなくていい」
大丈夫って、なにが大丈夫なんだ? いいかげんなアドバイスだな。そんなことを思いながらも、僕は少しだけ泣きそうになる。
案外、誰かに慰めてほしかっただけなのかな。
気持ちが少し軽くなって、もうこのまま消えてしまってもいいような気がしたけれど、そういう予感はない。僕が消えるのはまだ先のことらしい。
「けど、アンジェに関しては、少し危うい感じがするんだよ。明るく振る舞っているけど、内心はかなり心細いように見える。俺に話しかけてきたのもそんな理由だろうし」
もしかすると、僕に話しかけてきたことも、そうだったのだろうか。
僕が戸惑っているのを見かねたせいもあるのだろうが、アンジェ自身も年の近い話し相手がほしかったのかもしれない。
「ここで何日も黙って絵を眺めていたかと思うと、ときどきどこかへふらっと消えて、でも気がつくとまた戻って来ていたりして。幽霊なんてみんなそれぞれ事情があるし、アンジェがなにを考えてるのか、尋ねたことはないけどね」
幽霊は、それぞれの人生を抱えている。
この世でもあの世でもない、不安定な世界の狭間で。
幽霊の存在に意味なんてないとアンジェは言ったけれど、本当は彼女も何かしらの、彼女なりの答えを求めている。この世界に留まっているのが、その証拠じゃないか。
「アンジェが“危うい”って、どういう意味ですか?」
「前に、悪霊の話をしただろ?」
質問に質問で返されて、僕はバンさんとの会話を思い返す。
「フィクションに出てくるような凶悪な幽霊は、滅多にいないだろう、って話ですよね」
「そうなんだけどさ。魂が壊れて自分を見失ってしまうのは、他者への恨みや憎しみだけではないかもしれないだろ? 場合によっては、大きすぎる悲しみも危険なんじゃないかなって」
悲しみも、憎しみと同じ負の感情だ。
生きている人間だって、それで心を病むこともある。ときには、誰かを傷つけたり、自分を傷つけたりしてしまうほどに。
もしも、大きな悲しみを引きずったまま幽霊になったとしたら?
バンさんが言うように、それは危ういことに思える。
「アンジェがそうだと思うんですか? あんなに明るいのに、大きな悲しみを背負ってるって」
「アンジェの明るさは、どこか空元気っぽく感じるよ。俺の思い過ごしならいいけど。それに、彼女がなにを抱えているにしても、他人が踏み込むことはできない。冷たいかもしれないけど、できることはないんだ」
悲しいことに、バンさんの言うとおりだった。
たとえアンジェの未練について知ったところで、僕たちにはなにもできない。
幽霊が抱えるのはすべて心の中のことだ。
自分の人生に片をつけられるのは自分だけ。それは、アンジェに限らず僕やバンさんもそうだ。
普段のアンジェからは、バンさんが言うようなことは結びつかない。
けれど、自分の家を見つめていたときの表情や、死期について嘘をついていたことで、僕のアンジェに対する印象は少し変わった。
彼女はひとりでなにを抱えているのだろう。
あの人形のようなメイクが、アンジェの心を隠す仮面のように僕には思えてきた。