家庭の事情は人それぞれだ。
死者だからこそ、簡単に人には言えない思いを抱えていることもあるはず。昨夜のアンジェの様子から、彼女が生前、家族との折り合いが悪かった可能性もある。
でも、あの写真からはとてもそうは思えなかった。
たくさんの写真には、アンジェに対する家族の愛情がつまっていた。たぶん彼女はずっと家族に愛されて、大切にされていたはずだ。
それなのに、アンジェは自分の家に入ることなく、ただ外から眺めていた。
彼女らしくない、とても思いつめた表情で。
その理由についていくら考えても、僕には見当もつかなかった。
当然だ。
知り合ってから、まだ数日。それも、互いに死んだ後で。
僕はアンジェについて、なにひとつ知らない。彼女らしくないなんて、ただの思い込みでしかない。
翌日は朝から雨が降っていた。
厚い雲に覆われた空から、しとしとと秋の雨が降り続く。
けれど、幽霊に天気は関係ない。ぬれることはなく、肌寒さも感じない。
幽霊が描く壁画にもまったく影響はないらしく、バンさんはいつもと同じように壁にペンキを塗っている。
壁画はあらかた出来上がっているように見えた。絵が完成すればバンさんは消える。もうしばらくは完成しないでほしいと、勝手なことを考えながら僕は絵を眺めた。
今日は、朝からアンジェの姿を見ていない。
「バンさん、アンジェについてなにか知ってたりしますか?」
壁画制作にいそしむバンさんに、タイミングを見計らって聞いてみた。
立って筆を動かしていたバンさんは、怪訝な顔で僕を見る。口には火のついた煙草をくわえていた。
「なにかって?」
煙草をくわえたまま、器用に口を動かす。
「どうして死んだのか、とか。どんな心残りがあるのか、とか」
バンさんは煙草を手に取ると、煙を吐き出しながら空を仰いだ。
「さあねぇ。死んだ者同士、そういうことはあまり立ち入らないほうがいいと思うから。本人が話さない限り、俺は聞かないよ」
「そうですよね」
「なに。アンジェに恋でもしたの?」
たいして興味がなさそうにバンさんが尋ねた。彼が本気でないことは僕にもわかる。
「違いますよ。幽霊同士は憎しみも愛情も抱かないって、教えてくれたのはバンさんでしょ?」
「いや、若い幽霊ならそういうこともあるのかなと思って」
そう言う彼だって幽霊にしては若いくせに。もっとも、未成年のアンジェが相手となると、バンさんも僕も犯罪だが(生きていればの話)。
「でも、それもいいんじゃないの? 恋愛なんて、もともと刹那的なもんだし。その点、幽霊でも、生きてる人間でもそんなに変わらない気がする」
「バンさんの恋愛観て、ちょっと歪んでませんか?」
「そうかもしれない。付き合っても、もって三ヶ月だったからな。俺が浮気したり暴力を振るうわけでもないのに、なぜか振られる」
「それは、なんとなく想像できます」
つきあった彼女たちにしてみれば、もっとバンさんに構ってほしかったに違いない。
たぶん、彼にとっては絵が恋人なのだ。なんて、ありがちな言い回しだけど、バンさんを見ているとそんな言葉がしっくりくる。だとすると、今はある意味、彼にとっては蜜月じゃないか。
僕のアンジェに対する気持ちは本当に、恋愛感情ではなかった。
もしも生前に出会っていたとしても、悪いけれどそういう意味で彼女を好きになるとは考えられない。僕にとっての恋人は、以前も今も加奈以外にはいないのだ。
アンジェには、幽霊になりたてで戸惑っていたとき、最初に声を掛けてもらった恩がある。だから、彼女がなにかで困っているなら、僕も力になりたいと思う。
彼女に直接尋ねてもいいものなのか。尋ねたところで、ちゃんと答えてくれるだろうか。いつもみたいに、からかい口調で煙に巻かれるだけではないのか。
アンジェが深刻そうに自分の家を見つめていたことを、バンさんに話していいものか迷う。僕自身、見てはいけないものを見てしまったような気がしているからだ。
「バンさんがアンジェと知り合ったのって、いつ頃ですか?」
「三ヶ月くらい前。俺が死んで間もなくの頃かな」
「三ヶ月前? でも、アンジェが亡くなったのは、一ヶ月くらい前ですよね?」
「違うよ。彼女のほうが俺より早い。俺が死んでから、初めて言葉を交わしたのがアンジェだった。幽霊のことにも詳しくて、いろいろ教えてくれたよ。彼女がいつ亡くなったのかは聞いたことがないけど。俺と会ったときにはもう、結構慣れているふうだったな」
どういうことだ? バンさんの話が本当なら、どうしてアンジェは僕に嘘を言ったのだろう。
普段から、彼女の話はどこまでが本当なのか判断がつきにくい。だけど、いつ亡くなったのか隠す必要なんてあるのか?
アンジェは、いったいつから幽霊をやっているんだろう。
バンさんより長いとしたら、四ヶ月? 半年? それ以上なのか?
幽霊でいる時間が長ければ長いほど、彼女の未練や迷いが大きいということではないのか。
『ここに長居をするのは、あまりいいことではないわ』
という、マダムの言葉を僕は思い出していた。
死者だからこそ、簡単に人には言えない思いを抱えていることもあるはず。昨夜のアンジェの様子から、彼女が生前、家族との折り合いが悪かった可能性もある。
でも、あの写真からはとてもそうは思えなかった。
たくさんの写真には、アンジェに対する家族の愛情がつまっていた。たぶん彼女はずっと家族に愛されて、大切にされていたはずだ。
それなのに、アンジェは自分の家に入ることなく、ただ外から眺めていた。
彼女らしくない、とても思いつめた表情で。
その理由についていくら考えても、僕には見当もつかなかった。
当然だ。
知り合ってから、まだ数日。それも、互いに死んだ後で。
僕はアンジェについて、なにひとつ知らない。彼女らしくないなんて、ただの思い込みでしかない。
翌日は朝から雨が降っていた。
厚い雲に覆われた空から、しとしとと秋の雨が降り続く。
けれど、幽霊に天気は関係ない。ぬれることはなく、肌寒さも感じない。
幽霊が描く壁画にもまったく影響はないらしく、バンさんはいつもと同じように壁にペンキを塗っている。
壁画はあらかた出来上がっているように見えた。絵が完成すればバンさんは消える。もうしばらくは完成しないでほしいと、勝手なことを考えながら僕は絵を眺めた。
今日は、朝からアンジェの姿を見ていない。
「バンさん、アンジェについてなにか知ってたりしますか?」
壁画制作にいそしむバンさんに、タイミングを見計らって聞いてみた。
立って筆を動かしていたバンさんは、怪訝な顔で僕を見る。口には火のついた煙草をくわえていた。
「なにかって?」
煙草をくわえたまま、器用に口を動かす。
「どうして死んだのか、とか。どんな心残りがあるのか、とか」
バンさんは煙草を手に取ると、煙を吐き出しながら空を仰いだ。
「さあねぇ。死んだ者同士、そういうことはあまり立ち入らないほうがいいと思うから。本人が話さない限り、俺は聞かないよ」
「そうですよね」
「なに。アンジェに恋でもしたの?」
たいして興味がなさそうにバンさんが尋ねた。彼が本気でないことは僕にもわかる。
「違いますよ。幽霊同士は憎しみも愛情も抱かないって、教えてくれたのはバンさんでしょ?」
「いや、若い幽霊ならそういうこともあるのかなと思って」
そう言う彼だって幽霊にしては若いくせに。もっとも、未成年のアンジェが相手となると、バンさんも僕も犯罪だが(生きていればの話)。
「でも、それもいいんじゃないの? 恋愛なんて、もともと刹那的なもんだし。その点、幽霊でも、生きてる人間でもそんなに変わらない気がする」
「バンさんの恋愛観て、ちょっと歪んでませんか?」
「そうかもしれない。付き合っても、もって三ヶ月だったからな。俺が浮気したり暴力を振るうわけでもないのに、なぜか振られる」
「それは、なんとなく想像できます」
つきあった彼女たちにしてみれば、もっとバンさんに構ってほしかったに違いない。
たぶん、彼にとっては絵が恋人なのだ。なんて、ありがちな言い回しだけど、バンさんを見ているとそんな言葉がしっくりくる。だとすると、今はある意味、彼にとっては蜜月じゃないか。
僕のアンジェに対する気持ちは本当に、恋愛感情ではなかった。
もしも生前に出会っていたとしても、悪いけれどそういう意味で彼女を好きになるとは考えられない。僕にとっての恋人は、以前も今も加奈以外にはいないのだ。
アンジェには、幽霊になりたてで戸惑っていたとき、最初に声を掛けてもらった恩がある。だから、彼女がなにかで困っているなら、僕も力になりたいと思う。
彼女に直接尋ねてもいいものなのか。尋ねたところで、ちゃんと答えてくれるだろうか。いつもみたいに、からかい口調で煙に巻かれるだけではないのか。
アンジェが深刻そうに自分の家を見つめていたことを、バンさんに話していいものか迷う。僕自身、見てはいけないものを見てしまったような気がしているからだ。
「バンさんがアンジェと知り合ったのって、いつ頃ですか?」
「三ヶ月くらい前。俺が死んで間もなくの頃かな」
「三ヶ月前? でも、アンジェが亡くなったのは、一ヶ月くらい前ですよね?」
「違うよ。彼女のほうが俺より早い。俺が死んでから、初めて言葉を交わしたのがアンジェだった。幽霊のことにも詳しくて、いろいろ教えてくれたよ。彼女がいつ亡くなったのかは聞いたことがないけど。俺と会ったときにはもう、結構慣れているふうだったな」
どういうことだ? バンさんの話が本当なら、どうしてアンジェは僕に嘘を言ったのだろう。
普段から、彼女の話はどこまでが本当なのか判断がつきにくい。だけど、いつ亡くなったのか隠す必要なんてあるのか?
アンジェは、いったいつから幽霊をやっているんだろう。
バンさんより長いとしたら、四ヶ月? 半年? それ以上なのか?
幽霊でいる時間が長ければ長いほど、彼女の未練や迷いが大きいということではないのか。
『ここに長居をするのは、あまりいいことではないわ』
という、マダムの言葉を僕は思い出していた。