夜な夜な加奈のアパートに行くのが僕の日課になった。
彼女に会うためでなく、ただ外に突っ立って部屋の灯りを見守っている。
もしも生前に同じことをやっていたら、間違いなく通報されるレベルだ。
幽霊でよかった。いや、良くはない。
死後に元カノのストーカーって、ものすごく情けなくないか?
真夜中を過ぎて、ようやく加奈の部屋の灯りが消える。加奈は夜型なので、毎晩遅くまで本を読んだり勉強したりすると言っていた。
明日は朝早い講義はないのかな。夜更かしして体調を崩さないといいけど。
などと心配をしつつ、僕はまたあてもなく夜の街を彷徨う。
週末なので、街の中心部が賑やかだった。
どんなに治安が悪い場所でも、チンピラや酔っ払いに絡まれたりしないというのは、幽霊の数少ないメリットだ。
繁華街を抜けて、海に近い公園のほうへと足を向けた。
強い海風が唸り声をあげ、防風林が大きく揺れている。生身だったら、とても散歩などしていられない寒さだろう。
高台にある公園からは海が見える。
眼前には、空も海も区別がつかない真っ黒な闇が広がり、遠く漁船の灯りだけが寂しそうに瞬いていた。
まるで、この世界を流離う死者の魂のようだ。
暗闇の中で頼りなく、けれど懸命に煌めいている、それぞれの人生の残り火。僕もその中のひとつ。
誰もいない公園で、幽霊の孤独に浸っていたときだ。
いきなり耳にノイズが飛び込んでくるみたいに、よく知っている気配を感じた。そちらに目をやれば、公園脇の道を、夜の闇にまぎれるようにして歩く人影がある。
真っ黒な衣装で闇に溶け込んでいたのは、アンジェだった。
「アン……」
声を掛けようとして、僕はその名前を飲み込んだ。
なんだか様子がおかしい。
いつになく沈んだ表情が気になって、そっと気づかれないように後をつける。アンジェは、ある一軒の家の前で立ち止まった。
つい先ほどまでの、加奈のアパート前に立っていた僕のように、身じろぎもせずにその家を見つめている。
公園の隣は高級住宅地だった。アンジェが見ているのは、その中でもひときわ目を引く豪華な洋風建築だ。
空はまだ暗いが、もう朝方といってもいいような時間帯だった。
住人は寝ているらしく、家には灯りがともっていない。頼りない街灯の光だけが、ゴスロリ姿の少女をぼんやりと浮かび上がらせている。
生きてる人にあれが見えたら怖いだろうな。なんといっても僕らは“本物”なわけだし。
暗がりの中でも、アンジェがとても悲しげな表情をしているのがわかった。晩年の僕は近視だったけど、子供の頃はかなり視力が良かったのだ。なので、今はたぶん裸眼で2.0くらいはあるだろう。
声を掛けることをためらうほど悲痛な、今にも泣き出しそうにも見える表情は、いつもの陽気なアンジェらしくなかった。
僕は彼女に声を掛けることができず、立ち去ることもできない。
案外、アンジェも僕と同じで、好きだった人の家を見ているのだろうか。家に勝手に入らないのも、そんな理由なら頷ける。
それなら、今の姿は僕に見られたくないに違いない。何も見なかったことにして立ち去るべきだ。
そう判断した僕よりも先に、ふっとアンジェの姿が消えた。どこかへ移動したらしい。
もう気が済んだのか?
僕はなんとなくアンジェが立っていた場所へ移動して、問題の豪邸を見上げた。
広い庭付きで、まるで白亜の城のような雰囲気だ。頑丈そうな門扉が侵入を阻んでいるが、幽霊にとっては意味がない。
あの陽気な彼女があんな表情をするほど、いったい何を思いつめていたのか。どうしても引っかかる。
僕は門扉をすり抜けて庭へと入っていった。物音ひとつ立てずに侵入できるというのは、幽霊のモラルを低くしてしまう気がする。
アンジェが気がかりなだけだと開き直り、大きな窓に近づき中を覗いた。
庭に張り出した出窓から見えるのは、リビングらしき広い部屋だった。レースのカーテンがわずかに開いていて、街灯の光が室内を薄暗く照らし出す。
ふいに、カーテンが揺れた。焦って身構えたが、そういえば生者に出くわしても向こうからは見えないのだ。
カーテンの隙間から顔をのぞかせたのは、一匹の猫だった。猫は光る瞳で窓の外を見つめている。
ガラス越しに手を振ってみたが、瞳は一点を見つめたまま動かない。僕のことはまったく見えていないらしい。猫には霊感があるというけど、実際はそんなことはないのかな。
しばらく外を眺めていた猫は、それに飽きたのか窓辺からひらりと飛び降りた。
家の奥へ去っていく猫を目で追っていると、リビングの壁際に置かれた背の低いサイドボードが目に入った。サイドボードの上には、いくつもの写真立てが飾られている。
え、あれって……。
薄暗い部屋の中、かすかに見える写真の中の人物に、僕の目は吸い寄せられる。そこに、よく見知った人物が写っているように見えた。
どうしても確かめたくて、心の中で不法侵入を詫びながら、僕は家の中へと忍び込んだ。
外観から想像した通り、家の中も綺麗で、モデルルーム並に整頓されている。サイドボードの上には、大小さまざまな写真が、どれもきちんと写真立てに収められていた。
勘違いではなく、僕の思った通りだった。
赤ん坊の頃の写真、幼稚園、小学校、中学校、高校くらいまで。子供の成長を大切に記録しているような。
そのすべての写真に、アンジェが写っていた。
今みたいに濃い化粧をしていないけれど、間違いない。さっきの彼女の様子から考えても。
ここは、アンジェの家だった。
彼女に会うためでなく、ただ外に突っ立って部屋の灯りを見守っている。
もしも生前に同じことをやっていたら、間違いなく通報されるレベルだ。
幽霊でよかった。いや、良くはない。
死後に元カノのストーカーって、ものすごく情けなくないか?
真夜中を過ぎて、ようやく加奈の部屋の灯りが消える。加奈は夜型なので、毎晩遅くまで本を読んだり勉強したりすると言っていた。
明日は朝早い講義はないのかな。夜更かしして体調を崩さないといいけど。
などと心配をしつつ、僕はまたあてもなく夜の街を彷徨う。
週末なので、街の中心部が賑やかだった。
どんなに治安が悪い場所でも、チンピラや酔っ払いに絡まれたりしないというのは、幽霊の数少ないメリットだ。
繁華街を抜けて、海に近い公園のほうへと足を向けた。
強い海風が唸り声をあげ、防風林が大きく揺れている。生身だったら、とても散歩などしていられない寒さだろう。
高台にある公園からは海が見える。
眼前には、空も海も区別がつかない真っ黒な闇が広がり、遠く漁船の灯りだけが寂しそうに瞬いていた。
まるで、この世界を流離う死者の魂のようだ。
暗闇の中で頼りなく、けれど懸命に煌めいている、それぞれの人生の残り火。僕もその中のひとつ。
誰もいない公園で、幽霊の孤独に浸っていたときだ。
いきなり耳にノイズが飛び込んでくるみたいに、よく知っている気配を感じた。そちらに目をやれば、公園脇の道を、夜の闇にまぎれるようにして歩く人影がある。
真っ黒な衣装で闇に溶け込んでいたのは、アンジェだった。
「アン……」
声を掛けようとして、僕はその名前を飲み込んだ。
なんだか様子がおかしい。
いつになく沈んだ表情が気になって、そっと気づかれないように後をつける。アンジェは、ある一軒の家の前で立ち止まった。
つい先ほどまでの、加奈のアパート前に立っていた僕のように、身じろぎもせずにその家を見つめている。
公園の隣は高級住宅地だった。アンジェが見ているのは、その中でもひときわ目を引く豪華な洋風建築だ。
空はまだ暗いが、もう朝方といってもいいような時間帯だった。
住人は寝ているらしく、家には灯りがともっていない。頼りない街灯の光だけが、ゴスロリ姿の少女をぼんやりと浮かび上がらせている。
生きてる人にあれが見えたら怖いだろうな。なんといっても僕らは“本物”なわけだし。
暗がりの中でも、アンジェがとても悲しげな表情をしているのがわかった。晩年の僕は近視だったけど、子供の頃はかなり視力が良かったのだ。なので、今はたぶん裸眼で2.0くらいはあるだろう。
声を掛けることをためらうほど悲痛な、今にも泣き出しそうにも見える表情は、いつもの陽気なアンジェらしくなかった。
僕は彼女に声を掛けることができず、立ち去ることもできない。
案外、アンジェも僕と同じで、好きだった人の家を見ているのだろうか。家に勝手に入らないのも、そんな理由なら頷ける。
それなら、今の姿は僕に見られたくないに違いない。何も見なかったことにして立ち去るべきだ。
そう判断した僕よりも先に、ふっとアンジェの姿が消えた。どこかへ移動したらしい。
もう気が済んだのか?
僕はなんとなくアンジェが立っていた場所へ移動して、問題の豪邸を見上げた。
広い庭付きで、まるで白亜の城のような雰囲気だ。頑丈そうな門扉が侵入を阻んでいるが、幽霊にとっては意味がない。
あの陽気な彼女があんな表情をするほど、いったい何を思いつめていたのか。どうしても引っかかる。
僕は門扉をすり抜けて庭へと入っていった。物音ひとつ立てずに侵入できるというのは、幽霊のモラルを低くしてしまう気がする。
アンジェが気がかりなだけだと開き直り、大きな窓に近づき中を覗いた。
庭に張り出した出窓から見えるのは、リビングらしき広い部屋だった。レースのカーテンがわずかに開いていて、街灯の光が室内を薄暗く照らし出す。
ふいに、カーテンが揺れた。焦って身構えたが、そういえば生者に出くわしても向こうからは見えないのだ。
カーテンの隙間から顔をのぞかせたのは、一匹の猫だった。猫は光る瞳で窓の外を見つめている。
ガラス越しに手を振ってみたが、瞳は一点を見つめたまま動かない。僕のことはまったく見えていないらしい。猫には霊感があるというけど、実際はそんなことはないのかな。
しばらく外を眺めていた猫は、それに飽きたのか窓辺からひらりと飛び降りた。
家の奥へ去っていく猫を目で追っていると、リビングの壁際に置かれた背の低いサイドボードが目に入った。サイドボードの上には、いくつもの写真立てが飾られている。
え、あれって……。
薄暗い部屋の中、かすかに見える写真の中の人物に、僕の目は吸い寄せられる。そこに、よく見知った人物が写っているように見えた。
どうしても確かめたくて、心の中で不法侵入を詫びながら、僕は家の中へと忍び込んだ。
外観から想像した通り、家の中も綺麗で、モデルルーム並に整頓されている。サイドボードの上には、大小さまざまな写真が、どれもきちんと写真立てに収められていた。
勘違いではなく、僕の思った通りだった。
赤ん坊の頃の写真、幼稚園、小学校、中学校、高校くらいまで。子供の成長を大切に記録しているような。
そのすべての写真に、アンジェが写っていた。
今みたいに濃い化粧をしていないけれど、間違いない。さっきの彼女の様子から考えても。
ここは、アンジェの家だった。