嶋本加奈は、今時の女子にしては少し風変わりな子だった。
とは言っても、僕はあまり同年代の女子に知り合いはいなかったから、彼女がどのくらい変わっていたかは不明だけれど。
加奈は趣味が読書というわりに、おとなしい文学少女というわけではなく、どちらかというと流行りのエンタメが好きで、ややオタクで、にこやかに接客もこなす社交性も持ち合わせている。
そして、若いのに堅実な価値観を持ってもいた。
店の外でも会うようになって、もっといろいろ話すようになってから、加奈は自分についてこう語ったことがある。
「私は、毎日が充実していればそれでいいの。特に大きな夢も得意なこともないけど、べつになくてもかまわないんだ。大学に行って、バイトして、好きな本を読んで、ときどき自分へのご褒美にちょっと贅沢なスイーツを食べたりして。私にとっての幸せって、そういうものだから」
そして、本当に幸せそうに笑うのだ。
性格が良さそうなことは最初から感じていたけれど、加奈は本当に真っ正直な人間だった。
たとえば、バスや電車に乗っているときには、必ず高齢者や妊婦に席をゆずる。公園で泣いている迷子にも話しかけ、一緒に母親を捜してやっていた。
小さな親切でも、率先してやることは難しい。少なくとも僕は、余計なお世話かもしれないなどと考えて躊躇してしまうタイプだ。
加奈がそういったことを自然にやれていたのは、彼女の祖母の教えが大きかったらしい。
今は亡き加奈の母方の祖母は、女手ひとつで農家を営み、五人の子供を育て上げたという女傑だった。
僕が拾った万年筆は、その祖母からの高校の入学祝いだったという。彼女にとっては大切な品物だったのだ。
子供の頃からお祖母ちゃん子だった加奈は、祖母から三つの教えを受けて育っていた。
ひとつ、人の悪口を言わない。たとえ本人がいない場所でも、言った言葉は必ず自分に返ってくるものだから。
ふたつ、やらずに後悔するより、やって後悔するほうがいい。やらないままだと、迷いも悩みも永遠に吹っ切れることはない。
みっつ、納豆は50回以上かき混ぜる。そのほうが味も栄養も格段に良くなる。
みっつめはともかく、ひとつめとふたつめの教えは、加奈の性格によく反映されていたと思う。
付き合っているあいだ、彼女の口から他人の悪口を聞いたことがなかったし、僕を映画に誘ってくれたことしかり、その行動力にはいつも感心させられたから。
だけど、加奈のその行動力はときに予測不能で、ヒヤヒヤさせられることもあった。
去年の初夏の頃だ。
僕がいつものように、加奈のバイト時間を見計らって書店へ行ったときのこと。彼女は、いつになく強張った顔つきでレジの中に立っていた。
「どうかしたの?」
「べつに、なんでもないよ」
明らかになにかありそうな様子で答える。声にも異常が感じられたので、具合でも悪いのかと心配になった。
すると、加奈がいきなりカウンターの中から飛び出してきた。
すれ違いざま、
「ごめん、向こうにいるスタッフに知らせて。『万引きを目撃したので追いかけます』って」
「え……加奈っ!?」
僕に小声で耳打ちすると、加奈は足早に店の外へ出て行ってしまった。
動揺しながらも、僕は加奈に言われたとおり、店のスタッフを探して伝言を伝える。それから、急いで加奈の後を追いかけた。
店を出ると十メートルほど先に、加奈と見知らぬ男の姿があった。
男は三十歳前後くらいで、普通のサラリーマンという印象だった。ふたりの姿は人込みにまぎれているが、明らかに異様な空気が漂っている。
「……とにかく、一緒に来てください」
近づくと、緊張気味の加奈の声が聞こえた。男が苦々しい表情で加奈を睨んでいる。
「俺が盗った証拠でもあるの?」
「私、ちゃんと見てましたから。防犯カメラにも写っていると思います」
防犯カメラという言葉で言い逃れできないと思ったのか、男が動揺の色を見せる。逃げだそうとしたその腕を、加奈がつかんだ。
「待ってください!」
男が加奈を突き飛ばし、僕は咄嗟に彼女を支えようと駆け寄る。
けれど、かっこよく抱き留めることはできず、僕は加奈とぶつかった衝撃で、ふたり一緒にその場に転んだ。幸いにして、僕が加奈の下敷きになったため、彼女にはそれほどの衝撃はなかったと思う。
「あっ、待って!」
駆けだした男に向かって加奈が叫んだ。
そこへ、駆け込んできた第三者が男に追いつき、鞄をひったくるようにしてつかまえる。見た目に反して足が速いその小太りの中年男性は、加奈のバイト先の店長だった。
万引き犯は観念したらしく、店長とともに店のほうへと歩いていく。
店長は道に座り込んだままの加奈を見て、
「嶋本さん、大丈夫? 怪我はない?」
と、心配そうに尋ねた。
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、君も一緒に来てくれる?」
「はい、わかりました」
店長に向かってこくんと頷いてから、加奈はようやく思い出したように僕を見た。
「ごめんね! 怪我してない?」
「してない。君も、本当に大丈夫?」
「大丈夫……」
そう言った加奈の手は小さく震えていた。気丈に振る舞っていても、やはり怖かったのだ。僕だってそうだ。万引きの現場に居合わせるなんて経験、したことはない。
僕は立ち上がると、さりげなく加奈の手を取って引き上げた。そのまま、震える手をしばらく握る。
「あんまり無茶しないで。相手が武器でも持ってたら、尻餅つくくらいじゃ済まないよ」
「そうだよね……ごめん」
小さな声で謝ると、加奈は気持ちを奮い立たせるようにふっと息を吐いた。
「でも、見て見ぬふりはできなかったの。うちの店もだけど、本屋の万引きって本当に多くて、損害額も大きいから」
その話はニュースで見たことがある。ましてや、加奈はバイト先の店や他のスタッフたちに親しみを持っている。彼女の気持ちは理解できた。
「君はまったく間違っていないし、その勇気は尊敬する。だけど。世の中には正論が通じない相手もいるんだよ。本当に気をつけて」
「はい……今後は気をつけます」
加奈は神妙に頭を下げた。
本人もわかっていないわけではないのだろうが、それでも動いてしまうのが加奈なのだ。天国のお祖母ちゃんだって、可愛い孫を危険にさらすことなんて望んではいないだろうに。
「さっきは、かばってくれてありがとう。……あ、店長に呼ばれているから先に行くね」
手早くエプロンを直すと、加奈は店へ駆けていった。
ありがとうと言われた僕は、恥ずかしくなる。かばったというわりにはずいぶん無様だったからだ。
加奈が追いかけた万引き犯の鞄からは、確かに店の商品が見つかった。その上、その男にはいくつも余罪があり、過去の防犯カメラにも犯行現場が写っていたそうだ。
加奈は、危険なのでひとりで追いかけるのはやめてくれと、店長からも泣きつかれたらしい。
彼女自身、その一件は堪えたようで、その後しばらくは少し元気がなく見えた。
けれど、いつもの彼女に戻ってから、
「もしものときのために、格闘技でも習おうかな」
などと言い出したとき、僕が強硬に反対したことは言うまでもない。
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