「人間に害を及ぼすような悪霊は存在しないってことですか?」
「俺は会ったことはないけど、そういう業の深いやつも中にはいるかもな。いろいろな人間がいるように、幽霊もいろいろだよ。ただ、映画の中みたいなものすごい悪霊が存在するとしても、ほんの一部なんじゃないかな。生きている人間でも、凶悪な犯罪者はそうそういないのと同じで」
「そうですね。言われてみれば」
ほとんどの人間は取り立てて善人でも悪人でもない。その人間が亡くなっても、性質は変わらないということか。
そういった幽霊に関する情報は、経験からなんとなくわかることもあれば、他の幽霊から聞いたこともあるという。ということは、他にもたくさんのご同輩がいるのかと思ったら、幽霊にはそういうコミュニティはないのだそうだ。
「基本的に、幽霊は個人主義だから。死者が執着するのは、生前にかかわりがあった人や物ばかりで、幽霊同士は憎しみも愛情も持たないものなんだ」
と、バンさんが説明する。
なるほど。確かに、話に聞く幽霊ってそういうものだ。
僕は生前からあまり人と関わりたいと思わなかったせいか、死んだ今もあまりその違いを感じなかったけれど。
「じゃあ、幽霊同士のルールはないんですか? それだと、他の幽霊と揉めたりとか」
「そういうのもないよ。このあたりでも何人か見かけたことがあるけど、一月もするといなくなってることがほとんどだから。この三ヶ月で二回以上同じ幽霊に会ったのは、アンジェを入れて五人もいない」
「いなくなるって、他の場所に移るんですか? それとも、成仏して消えるってこと?」
「どっちだろうな。俺は昔から他人の私生活には興味ないけど、死んだ者同士は特に、あまり立ち入ったことは聞かないから」
素っ気ない口調にも聞こえるが、自分に置き換えれば、僕だってあれこれ聞かれたくはない。
これは俺の推論だけど、と前置きしてからバンは続ける。
「幽霊っていうのは、あらゆる感情が生きていたときよりも乏しいんじゃないかな。感情っていうのはもともと、生命活動を維持するために人類が獲得したものだろ? だから、死んだ俺たちには必要ないんだよ」
人間が誕生して進化していく過程で、感情は発生した。
命を脅かすものには恐怖や怒りを覚え、子供や家族を守るために愛情や喜びを覚えていった。だから、既に命を持たない幽霊には、新たな感情が必要ないというのは納得できる。
今の僕に残っているのは、生きていたときの記憶と、そこで生まれた感情だけ。
良い感情も、悪い感情も。
ここにいる僕という魂を形作っている。
「幽霊にできることっていうのは、生前の焼き直しなんだよ。これは新たな人生ではなくて、人生のおまけみたいな時間だから」
バンさんはそう言って、自らが作り出した絵筆に目を落とした。
結局、彼の話でも、幽霊にできることなどほとんどないと改めて知っただけだった。
便利な瞬間移動などを除けば、能力は生きていたときとほぼ同じ。なにものにも干渉できないことを考えれば、生きていたとき以下と言っていい。
いったいこれでどうしろと?
いつまでここにいられるのか、なにをすればいいのかもわからないまま。
僕はただぼんやりとこの世界を流離うのか。
「タローくん、また難しい顔してるよ」
頬になにか当たったかと思うと、アンジェが人差し指でつついていた。
「死んでからなにをすればいいかなんて悩むの、タローくんくらいだよ。幽霊の存在意義について考えるなんて不毛じゃない。あたしたちは、人間だったときの燃えかすみたいなものなんだから」
「アンジェ、燃えかすって、ちょっと酷くない? せめて、残り火と言ってくれ」
辛辣なアンジェに、バンさんが苦笑している。
幽霊にできることは生前の焼き直し。だとしても、バンさんには絵を描くという目的がある。
彼がここで描き続けることには、彼にとって大事な意味があるんだろうな。
「バンさんは、どうしてここで絵を描いてるんですか? 誰かに見てもらいたいからじゃないんですか?」
生きている人間には見えないのに。それに、幽霊の目に触れる機会だってそうはないだろう。この街に、いったい何人の幽霊がいるかはわからないけれど。
「そりゃあ、見てもらうことも張り合いにはなるけど。こんなでかい壁に絵を描くなんて、それだけで楽しいじゃないか。生きてるあいだにやったら建造物損壊で罪に問われるけど、今なら誰にも怒られない」
バンさんはにやりと笑うと、ふたたび新しい煙草を手にして、今度はライターで火をつけた。煙草もライターも彼の魂の一部。生前の彼にとっては、なくてはならないアイテムだったんだろう。
「絵を描く理由なんて、本当はいつだってそういう単純な気持ちなんだよ。そうだったはずなのに、ずっと忘れていたな」
煙とともに、独り言のように吐き出された言葉。
その言葉にどんな意味があるのか、どんな思いがこめられているのか。きっとバンさんにしかわからない。
「幽霊でいる時間って、人によって違うんですよね。それは何か理由があるんですか? たとえば、生前の未練とか後悔とか」
「さあ、なんとも言えないな。多かれ少なかれ、きっと誰でも迷いや後悔を持ってるだろ。それに、それが解消されたかどうかも、当人の気持ちしだいだから」
消える=成仏する。ということなら、幽霊になる者にはみんな何かしらの心残りがあって、それが消えるまでこの世界に留まるということなのか。
だとしたら、僕の心残りというのは――
「消えるときって、自分でなんとなくわかるものらしいよ。この前、ここを通りかかった高齢の男性が、この絵を丁寧に見てくれて、『いい冥途の土産になった。じゃあ、お先に』って言って、目の前で消えた」
「成仏するのって、そんなに軽いものなんですか?」
「重いよりはいいだろ。それに、これは幽霊の性分みたいなものなのかね。いずれは自分もここから消えるってこと、それがあるべき形だって、たぶん心の底ではみんな理解してるんだよ」
そういうものなのか。確かに、いつまでもこのままここに留まりたいかというと、それは違う気がする。かといって、自分がどうなりたいのかはまるでわからないのだけれど。
ある意味、僕は幽霊として生まれたばかりだ。右も左もわからないのは仕方がない。
アンジェが突然、バンさんの腕に甘えるようにしがみついた。
「バンさん、勝手にいなくならないでね。消えるとき絶対に教えてよ。知らないうちにバンさんがいなくなったら寂しいから」
「約束はできないけど、そう心がけておく。それにたぶん、俺はこの壁画が完成するまでは消えないよ。まあ、どこが完成なのか自分でもよくわからないけど」
そう言って、バンさんはアンジェの頭をやさしく撫でた。
やっぱり、この壁画が完成したら、バンさんは消えてしまうのだろうか。
まだ少し空白があるものの、僕にはいつ完成してもおかしくはないように見える。
「とりあえず、タローくんもあまり考えすぎずに好きにしたらいいさ。心残りなんて、自覚できているものもあれば、そうでないものもある。どちらにしても、たいていはそのうち消えるものだから」
バンさんの物言いはどこまでも軽く、僕の性格的に心配になってくる。
「タローくん、もっと気楽にやりなよ。せっかく幽霊になったんだから」
アンジェの意見はそれ以前の問題だが。
「俺はまだ当分はここにいるから、気が向いたらいつでもおいで」
「はい、ありがとうございます。アンジェも、ありがとう」
僕はふたりに向かって頭を下げる。
アンジェが「またね」と言って手を振った。そう言う彼女だって、明日には消えているかもしれないのに。
心の中には、まだもやもやとしたものが残っていた。
僕の悪い癖だ。
考えてもどうしようもないことで悩むのは、もうやめよう。
僕は死んだのだ。
今は、ただの平凡な幽霊なのだから。
「俺は会ったことはないけど、そういう業の深いやつも中にはいるかもな。いろいろな人間がいるように、幽霊もいろいろだよ。ただ、映画の中みたいなものすごい悪霊が存在するとしても、ほんの一部なんじゃないかな。生きている人間でも、凶悪な犯罪者はそうそういないのと同じで」
「そうですね。言われてみれば」
ほとんどの人間は取り立てて善人でも悪人でもない。その人間が亡くなっても、性質は変わらないということか。
そういった幽霊に関する情報は、経験からなんとなくわかることもあれば、他の幽霊から聞いたこともあるという。ということは、他にもたくさんのご同輩がいるのかと思ったら、幽霊にはそういうコミュニティはないのだそうだ。
「基本的に、幽霊は個人主義だから。死者が執着するのは、生前にかかわりがあった人や物ばかりで、幽霊同士は憎しみも愛情も持たないものなんだ」
と、バンさんが説明する。
なるほど。確かに、話に聞く幽霊ってそういうものだ。
僕は生前からあまり人と関わりたいと思わなかったせいか、死んだ今もあまりその違いを感じなかったけれど。
「じゃあ、幽霊同士のルールはないんですか? それだと、他の幽霊と揉めたりとか」
「そういうのもないよ。このあたりでも何人か見かけたことがあるけど、一月もするといなくなってることがほとんどだから。この三ヶ月で二回以上同じ幽霊に会ったのは、アンジェを入れて五人もいない」
「いなくなるって、他の場所に移るんですか? それとも、成仏して消えるってこと?」
「どっちだろうな。俺は昔から他人の私生活には興味ないけど、死んだ者同士は特に、あまり立ち入ったことは聞かないから」
素っ気ない口調にも聞こえるが、自分に置き換えれば、僕だってあれこれ聞かれたくはない。
これは俺の推論だけど、と前置きしてからバンは続ける。
「幽霊っていうのは、あらゆる感情が生きていたときよりも乏しいんじゃないかな。感情っていうのはもともと、生命活動を維持するために人類が獲得したものだろ? だから、死んだ俺たちには必要ないんだよ」
人間が誕生して進化していく過程で、感情は発生した。
命を脅かすものには恐怖や怒りを覚え、子供や家族を守るために愛情や喜びを覚えていった。だから、既に命を持たない幽霊には、新たな感情が必要ないというのは納得できる。
今の僕に残っているのは、生きていたときの記憶と、そこで生まれた感情だけ。
良い感情も、悪い感情も。
ここにいる僕という魂を形作っている。
「幽霊にできることっていうのは、生前の焼き直しなんだよ。これは新たな人生ではなくて、人生のおまけみたいな時間だから」
バンさんはそう言って、自らが作り出した絵筆に目を落とした。
結局、彼の話でも、幽霊にできることなどほとんどないと改めて知っただけだった。
便利な瞬間移動などを除けば、能力は生きていたときとほぼ同じ。なにものにも干渉できないことを考えれば、生きていたとき以下と言っていい。
いったいこれでどうしろと?
いつまでここにいられるのか、なにをすればいいのかもわからないまま。
僕はただぼんやりとこの世界を流離うのか。
「タローくん、また難しい顔してるよ」
頬になにか当たったかと思うと、アンジェが人差し指でつついていた。
「死んでからなにをすればいいかなんて悩むの、タローくんくらいだよ。幽霊の存在意義について考えるなんて不毛じゃない。あたしたちは、人間だったときの燃えかすみたいなものなんだから」
「アンジェ、燃えかすって、ちょっと酷くない? せめて、残り火と言ってくれ」
辛辣なアンジェに、バンさんが苦笑している。
幽霊にできることは生前の焼き直し。だとしても、バンさんには絵を描くという目的がある。
彼がここで描き続けることには、彼にとって大事な意味があるんだろうな。
「バンさんは、どうしてここで絵を描いてるんですか? 誰かに見てもらいたいからじゃないんですか?」
生きている人間には見えないのに。それに、幽霊の目に触れる機会だってそうはないだろう。この街に、いったい何人の幽霊がいるかはわからないけれど。
「そりゃあ、見てもらうことも張り合いにはなるけど。こんなでかい壁に絵を描くなんて、それだけで楽しいじゃないか。生きてるあいだにやったら建造物損壊で罪に問われるけど、今なら誰にも怒られない」
バンさんはにやりと笑うと、ふたたび新しい煙草を手にして、今度はライターで火をつけた。煙草もライターも彼の魂の一部。生前の彼にとっては、なくてはならないアイテムだったんだろう。
「絵を描く理由なんて、本当はいつだってそういう単純な気持ちなんだよ。そうだったはずなのに、ずっと忘れていたな」
煙とともに、独り言のように吐き出された言葉。
その言葉にどんな意味があるのか、どんな思いがこめられているのか。きっとバンさんにしかわからない。
「幽霊でいる時間って、人によって違うんですよね。それは何か理由があるんですか? たとえば、生前の未練とか後悔とか」
「さあ、なんとも言えないな。多かれ少なかれ、きっと誰でも迷いや後悔を持ってるだろ。それに、それが解消されたかどうかも、当人の気持ちしだいだから」
消える=成仏する。ということなら、幽霊になる者にはみんな何かしらの心残りがあって、それが消えるまでこの世界に留まるということなのか。
だとしたら、僕の心残りというのは――
「消えるときって、自分でなんとなくわかるものらしいよ。この前、ここを通りかかった高齢の男性が、この絵を丁寧に見てくれて、『いい冥途の土産になった。じゃあ、お先に』って言って、目の前で消えた」
「成仏するのって、そんなに軽いものなんですか?」
「重いよりはいいだろ。それに、これは幽霊の性分みたいなものなのかね。いずれは自分もここから消えるってこと、それがあるべき形だって、たぶん心の底ではみんな理解してるんだよ」
そういうものなのか。確かに、いつまでもこのままここに留まりたいかというと、それは違う気がする。かといって、自分がどうなりたいのかはまるでわからないのだけれど。
ある意味、僕は幽霊として生まれたばかりだ。右も左もわからないのは仕方がない。
アンジェが突然、バンさんの腕に甘えるようにしがみついた。
「バンさん、勝手にいなくならないでね。消えるとき絶対に教えてよ。知らないうちにバンさんがいなくなったら寂しいから」
「約束はできないけど、そう心がけておく。それにたぶん、俺はこの壁画が完成するまでは消えないよ。まあ、どこが完成なのか自分でもよくわからないけど」
そう言って、バンさんはアンジェの頭をやさしく撫でた。
やっぱり、この壁画が完成したら、バンさんは消えてしまうのだろうか。
まだ少し空白があるものの、僕にはいつ完成してもおかしくはないように見える。
「とりあえず、タローくんもあまり考えすぎずに好きにしたらいいさ。心残りなんて、自覚できているものもあれば、そうでないものもある。どちらにしても、たいていはそのうち消えるものだから」
バンさんの物言いはどこまでも軽く、僕の性格的に心配になってくる。
「タローくん、もっと気楽にやりなよ。せっかく幽霊になったんだから」
アンジェの意見はそれ以前の問題だが。
「俺はまだ当分はここにいるから、気が向いたらいつでもおいで」
「はい、ありがとうございます。アンジェも、ありがとう」
僕はふたりに向かって頭を下げる。
アンジェが「またね」と言って手を振った。そう言う彼女だって、明日には消えているかもしれないのに。
心の中には、まだもやもやとしたものが残っていた。
僕の悪い癖だ。
考えてもどうしようもないことで悩むのは、もうやめよう。
僕は死んだのだ。
今は、ただの平凡な幽霊なのだから。