駅前に立つ時計塔は、午後三時半を指していた。
そのあたりには会社のビルも多く、平日の昼間でも人通りが絶えない。
多くの会社員や買い物客が歩いている中で、その人は、とあるビルの壁をキャンバスにして、一心になにかを描いていた。
高い脚立のてっぺんに座り、右手には青い絵筆、左手にはペンキ缶。脚立の周りにも、色とりどりのペンキ缶がいくつも置いてある。
もともとはただのベージュだったのだろうペンキまみれのツナギ服で、長い髪を無造作に束ねた後ろ姿からは、男性なのか女性なのか判別できない。
「バンさーん!」
謎の人物に向かってアンジェが声を張り上げた。
振り返って怠そうに片手を上げたのは、三十代半ばといった感じの男性だ。
バンさんと呼ばれた彼もまた、幽霊であるらしい。
アンジェの声が聞こえている、ということはそうなのだ。だけど、彼の様子はとても幽霊には見えなかった。
ビルの壁にペンキで絵を描いているって、どういうことだ?
あのペンキや絵筆はどうなっているんだ?
それに、幽霊が描いているこの絵は、生者にはどう見えているのか。突然、ビルの壁に絵が浮かび上がって見えたりするんだろうか。
戸惑っている僕に手招きしながら、アンジェが脚立のほうへ近づいていった。
「バンさん、この人は新人幽霊のヤマダタローくん。幽霊についていろいろ教えてほしいんだって。早くこっちに来て、タローくん」
〈新人幽霊〉って。どこまでもアンジェは先輩風を吹かせている。釈然としないまま、僕はふたりに歩み寄った。
脚立から降りてきたバンさんは、痩せ型でずいぶん背が高い。180センチ以上はありそうだ。
顎にうっすらと生えた無精ひげに、くわえ煙草。スタイルが良くて、顔立ちも悪くないのに、僕を見る目にはなんとも言えない迫力があり、イケメンと呼ぶには独特な雰囲気だった。
生前、こんなタイプの人と会ったことはなく、僕はちょっと尻込みする。
アンジェといい、バンさんといい、幽霊はみんなこんなに存在感があるのだろうか。だとしたら、平凡すぎる僕はいったいどうしたら……。
「こちら、霊界のバンクシーことバンさん」
アンジェが得意げに紹介したので、僕はコケそうになった。
バンさんて名前はそこから来てるのかよ。
間違いなく本名じゃないだろうな。そのヒネリのない名付けセンスは『ヤマダタロー(仮)』に通じるものを感じるぞ。
「どうも。俺は、『霊界のバンクシー』らしいです」
バンさん(と呼んでいいのか?)は煙草を左手に持って苦笑いしながら、僕に右手を差し出す。
思いがけず気さくなその笑顔に、僕の警戒心はすぐに解けた。
「初めまして。僕は『ヤマダタロー(仮)』らしいです」
ついに自分でそう名乗りながら、差し出されたバンさんの手を握る。
アンジェと同様、バンさんの手にも触れている感触があった。それにしても、お互いに間の抜けた自己紹介だな。
「よろしく」と言った彼からは、最初に感じた怖そうな印象は消えていた。
その浮世離れした雰囲気(幽霊にそういう表現は変だけど)に、僕はなんとなく宗教画に描かれた『救世主(メシア)』を連想する。
「よろしくお願いします……バンさん、って呼んでもいいんですか?」
「呼び方なんてなんでもいいよ。お互いにもう、本名とか関係ない身の上なんだし。それに、正体不明の画家の名前なんて、幽霊っぽくて実はちょっと気に入ってる」
本名は関係ない。アンジェが言っていたのと同じことだ。
心が広いバンさんはともかく、僕は『ヤマダタロー(仮)』に対しては異を唱えたいが。
「バンさん、って名付けたのはあたしなの」
「うん。聞かなくてもわかったよ」
口を挟んできたアンジェに、わざとらしい笑顔を向けてみた。
きっと、彼女はこの調子で誰に対しても、臆することなくマイペースを貫くのだろう。
「バンさんはいつもここで絵を描いてるの。画家さんなんだって。すごいよね。あたし、そういう人に会ったのは初めて」
「俺は、画家なんてたいそうなものじゃないよ」
バンさんの口調は、謙遜というよりは本当に恐縮しているようだった。黙っていると近寄りがたいのに、実際はかなり腰が低い人らしい。
僕には、そういう仕事や才能のことはわからない。きっと画家という仕事だけで生活するのは大変なのだとは思う。
だけど、バンさんが描いている絵には圧倒された。
それは、縦は五メートルほど、横は十メートル以上ありそうな大作だった。
下絵はなく、好きなところに好きな色を塗り重ねているような自由な画風だ。ところどころが空白で、まだ完成しているようには見えない。
描かれているのは、様々な動物、植物、人間。空と海。
地球がまるごと凝縮されたような、美しい混沌。
無機質なコンクリートの街の中で、そこだけが鮮やかな色彩の洪水だ。
「すごいですね。絵のことはよくわからないけど、飛び出してきそうな迫力があるっていうか。それに、色が綺麗です」
「ありがとう」
照れたように笑って、バンさんは壁画を見上げた。
「特に構図も考えずに、描きたいように描いてるだけなんだけどね」
「あの……この絵って、生きている人たちにはどう見えてるんですか? あの人たちには、僕らの姿は見えてないんですよね?」
「彼らには、この絵も見えてないよ」
バンさんは雑踏を見回した。
「この絵が描かれてるのは俺たちがいる世界であって、彼らがいる世界とは微妙に違う。死者と生者の世界は重なり合ってるけど、同じ次元じゃないんだよ」
バンさんは煙草を一口吸うと、空へと向かって煙を吐き出した。
生者には、この壁画が見えていない?
どうりで、誰ひとりこちらに目を向けないわけだ。通行人たちは足を止めることなく、それどころか脚立やペンキ缶もすり抜けて歩いていく。
この大作が見えていないなんて、もったいない。こんなに手間をかけて描いているバンさんにとっても、張り合いがないだろう。
「そのペンキや脚立って、どうやって調達したんですか?」
「俺が作り出したものだよ」
「そんなことができるんですか?」
「この脚立もペンキも、煙草もそうだ。幽霊は現世の品物を使ったり動かしたりすることはできないけど、生前に慣れ親しんだ物は、こうして作り出すことができる」
そう語るバンさんの手は、もう煙草を持っていなかった。そこに、今度は何本かの絵筆が出現する。手品のようだが、それよりすごい。タネも仕掛けもない幽霊の特殊能力だ。
そのあたりには会社のビルも多く、平日の昼間でも人通りが絶えない。
多くの会社員や買い物客が歩いている中で、その人は、とあるビルの壁をキャンバスにして、一心になにかを描いていた。
高い脚立のてっぺんに座り、右手には青い絵筆、左手にはペンキ缶。脚立の周りにも、色とりどりのペンキ缶がいくつも置いてある。
もともとはただのベージュだったのだろうペンキまみれのツナギ服で、長い髪を無造作に束ねた後ろ姿からは、男性なのか女性なのか判別できない。
「バンさーん!」
謎の人物に向かってアンジェが声を張り上げた。
振り返って怠そうに片手を上げたのは、三十代半ばといった感じの男性だ。
バンさんと呼ばれた彼もまた、幽霊であるらしい。
アンジェの声が聞こえている、ということはそうなのだ。だけど、彼の様子はとても幽霊には見えなかった。
ビルの壁にペンキで絵を描いているって、どういうことだ?
あのペンキや絵筆はどうなっているんだ?
それに、幽霊が描いているこの絵は、生者にはどう見えているのか。突然、ビルの壁に絵が浮かび上がって見えたりするんだろうか。
戸惑っている僕に手招きしながら、アンジェが脚立のほうへ近づいていった。
「バンさん、この人は新人幽霊のヤマダタローくん。幽霊についていろいろ教えてほしいんだって。早くこっちに来て、タローくん」
〈新人幽霊〉って。どこまでもアンジェは先輩風を吹かせている。釈然としないまま、僕はふたりに歩み寄った。
脚立から降りてきたバンさんは、痩せ型でずいぶん背が高い。180センチ以上はありそうだ。
顎にうっすらと生えた無精ひげに、くわえ煙草。スタイルが良くて、顔立ちも悪くないのに、僕を見る目にはなんとも言えない迫力があり、イケメンと呼ぶには独特な雰囲気だった。
生前、こんなタイプの人と会ったことはなく、僕はちょっと尻込みする。
アンジェといい、バンさんといい、幽霊はみんなこんなに存在感があるのだろうか。だとしたら、平凡すぎる僕はいったいどうしたら……。
「こちら、霊界のバンクシーことバンさん」
アンジェが得意げに紹介したので、僕はコケそうになった。
バンさんて名前はそこから来てるのかよ。
間違いなく本名じゃないだろうな。そのヒネリのない名付けセンスは『ヤマダタロー(仮)』に通じるものを感じるぞ。
「どうも。俺は、『霊界のバンクシー』らしいです」
バンさん(と呼んでいいのか?)は煙草を左手に持って苦笑いしながら、僕に右手を差し出す。
思いがけず気さくなその笑顔に、僕の警戒心はすぐに解けた。
「初めまして。僕は『ヤマダタロー(仮)』らしいです」
ついに自分でそう名乗りながら、差し出されたバンさんの手を握る。
アンジェと同様、バンさんの手にも触れている感触があった。それにしても、お互いに間の抜けた自己紹介だな。
「よろしく」と言った彼からは、最初に感じた怖そうな印象は消えていた。
その浮世離れした雰囲気(幽霊にそういう表現は変だけど)に、僕はなんとなく宗教画に描かれた『救世主(メシア)』を連想する。
「よろしくお願いします……バンさん、って呼んでもいいんですか?」
「呼び方なんてなんでもいいよ。お互いにもう、本名とか関係ない身の上なんだし。それに、正体不明の画家の名前なんて、幽霊っぽくて実はちょっと気に入ってる」
本名は関係ない。アンジェが言っていたのと同じことだ。
心が広いバンさんはともかく、僕は『ヤマダタロー(仮)』に対しては異を唱えたいが。
「バンさん、って名付けたのはあたしなの」
「うん。聞かなくてもわかったよ」
口を挟んできたアンジェに、わざとらしい笑顔を向けてみた。
きっと、彼女はこの調子で誰に対しても、臆することなくマイペースを貫くのだろう。
「バンさんはいつもここで絵を描いてるの。画家さんなんだって。すごいよね。あたし、そういう人に会ったのは初めて」
「俺は、画家なんてたいそうなものじゃないよ」
バンさんの口調は、謙遜というよりは本当に恐縮しているようだった。黙っていると近寄りがたいのに、実際はかなり腰が低い人らしい。
僕には、そういう仕事や才能のことはわからない。きっと画家という仕事だけで生活するのは大変なのだとは思う。
だけど、バンさんが描いている絵には圧倒された。
それは、縦は五メートルほど、横は十メートル以上ありそうな大作だった。
下絵はなく、好きなところに好きな色を塗り重ねているような自由な画風だ。ところどころが空白で、まだ完成しているようには見えない。
描かれているのは、様々な動物、植物、人間。空と海。
地球がまるごと凝縮されたような、美しい混沌。
無機質なコンクリートの街の中で、そこだけが鮮やかな色彩の洪水だ。
「すごいですね。絵のことはよくわからないけど、飛び出してきそうな迫力があるっていうか。それに、色が綺麗です」
「ありがとう」
照れたように笑って、バンさんは壁画を見上げた。
「特に構図も考えずに、描きたいように描いてるだけなんだけどね」
「あの……この絵って、生きている人たちにはどう見えてるんですか? あの人たちには、僕らの姿は見えてないんですよね?」
「彼らには、この絵も見えてないよ」
バンさんは雑踏を見回した。
「この絵が描かれてるのは俺たちがいる世界であって、彼らがいる世界とは微妙に違う。死者と生者の世界は重なり合ってるけど、同じ次元じゃないんだよ」
バンさんは煙草を一口吸うと、空へと向かって煙を吐き出した。
生者には、この壁画が見えていない?
どうりで、誰ひとりこちらに目を向けないわけだ。通行人たちは足を止めることなく、それどころか脚立やペンキ缶もすり抜けて歩いていく。
この大作が見えていないなんて、もったいない。こんなに手間をかけて描いているバンさんにとっても、張り合いがないだろう。
「そのペンキや脚立って、どうやって調達したんですか?」
「俺が作り出したものだよ」
「そんなことができるんですか?」
「この脚立もペンキも、煙草もそうだ。幽霊は現世の品物を使ったり動かしたりすることはできないけど、生前に慣れ親しんだ物は、こうして作り出すことができる」
そう語るバンさんの手は、もう煙草を持っていなかった。そこに、今度は何本かの絵筆が出現する。手品のようだが、それよりすごい。タネも仕掛けもない幽霊の特殊能力だ。