好きになった人が自分のことを好きになる。
それって、この世界中の何パーセントの人が起こすことのできる奇跡なんだろう……。
◆
かれこれ三十分以上、放課後の化学準備室で黙秘を貫いているわたしを、葛城先生が途方に暮れた顔で見つめる。
厄介なことを引き受けた。
絶対にそう思っているはずなのに、無言でそっぽ向く私に根気よく三十分も付き合ってくれるなんて。葛城先生も、なかなかのお人好しだ。
「どうしてちゃんと話さなかったんだ? そうすれば、余計な誤解を受けなくて済んだのに」
だけど、最終的に真面目な顔付で諭してきた葛城先生に、わたしは少し幻滅した。
今年の春からうちの学校に非常勤としてやってきた葛城那央先生。彼は、女子生徒たちから「那央くん」なんて呼ばれて、裏でやたらとモテている。
まだ二十代であるということや、高校の化学教師にしてはムダに整いすぎているように思われる顔面のせいもあるけれど、彼に好意を寄せる女子たちは、「那央くんは優しくて話しやすい」とか、「生徒目線で話を聞いてくれる」とか、熱っぽい目をしてそんな噂をしている。
たしかに、非常勤勤務で何の責任もない彼は、他の先生よりも親しみやすい。だけど、仮にも「先生」の立場にある以上、この人だって、完全に生徒の味方というわけではない。
「いいんです。誤解されてるほうが都合がいいから」
つっけんどんに言葉を返すと、葛城先生が困ったように視線を泳がせた。
「でも、な……」
首の後ろを撫でながら言葉を詰まらせる葛城先生のことを、ジッと見る。
男性だけど、綺麗な顔をした人だ。二重で切れ長の大きな目が顔全体のなかで特に印象的だし、鼻筋が高く通っていて顔立ちがはっきりしている。パーツの整った顔には、ややつり気味の眉がのっていて。それが、彼の綺麗な顔を引き締めて、男性らしい端正さを見せるのに一役買っている。
鑑賞するには最適。だけど、正直言ってそれだけ。
放課後、生徒指導の三上先生に腕を取られて指導室に連行されそうになるわたしを見て慌てた唯葉が、助けを求めてくれたのが、たまたまそばを通りかかった葛城先生。だけど、残念ながら人選ミスだ。
「おれに任せてもらってもいいですか?」なんて、かっこいいことを言って三上先生から攫ってくれたところまではよかったけれど。いざ正面から向き合うと、十六歳の女の子から本音を引き出すこともできない。
「そろそろ帰っていいですか? あまり遅くなると心配するので。義父、が」
最後の一言をわざとらしく協調して、余所行きの顔でにこりと笑う。
「だから、どうしてそれを生徒指導の三上先生にもちゃんと話さなかったんだ? 桜田先生が別の学校に移ったのだって、岩瀬のためだろ?」
「さぁ? 知りません。頼んだ覚えもないですし」
完璧に作った笑顔で拒絶の意志を示すと、葛城先生が何か言いたげに唇を震わせた。
「それじゃぁ、これで失礼します」
椅子から立ち上がると、葛城先生に向かって表面上だけは丁寧にお辞儀する。
「とりあえず、岩瀬が桜田先生の義理の娘だってことは俺から三上先生に説明しとくから」
乱暴に化学準備室のドアを開けて出て行こうとしたとき、葛城先生が背中から声をかけてきた。
だから、「誤解されているほうが都合がいい」って言ったのに。ありがた迷惑な申し出に心の中で舌打ちしたい気持ちになる。
だけど、実際にはそうせずに立ち止まって、葛城先生のことを振り返った。
「それはどうも。お気遣いありがとうございます」
耳に届いた自分の声が、やけに嫌味っぽかった。
葛城先生が悪いわけではないけれど、彼の親切はわたしからしてみれば完全に的外れだ。
わたしは誰に何と噂されようと気にならない。学校中の生徒たちから後ろ指を指されたとしても、跳ね返してみせる。
もしも彼が、わたしに振り向いてくれるなら──……。
◆
化学準備室を出ると、廊下で待ってくれていた唯葉が、心配そうに駆け寄ってきた。
「那央くんの話、随分長かったね。あのこと、何か注意された……?」
「うーん、特には。だけど、葛城先生って桜田先生の大学時代の後輩だったんだって。だから、うちの事情も少し知ってたっぽい」
「そっか。じゃあ、那央くんに助けを求めたのは正解だったね」
「それはどうかわかんないけど……。三上先生には一応事情を話しといてくれるって」
「それならよかった」
わたしの言葉に、唯葉がほっとしたように息を吐いた。
南 唯葉は、最近わたしに関して流れたウワサを知っても、変わらずにそばにいてくれる唯一の友達だ。普段はふわふわしてて優しいのに、いざと言うとき頼りになる。
今日だって、唯葉のおかげで生徒指導室まで連行されずに済んで助かった。
代わりに、化学準備室に三十分拘束されるハメになったけど……。それでも、家に連絡されたり、反省文を書かされずに済んだだけマシだろう。
「ありがとね、唯葉。そういえば、今日、先輩と約束してるって言ってなかったっけ?」
お礼を言いながら、わたしはふと、昼休みに交わした会話を思い出した。
唯葉は、ひとつ上の先輩と付き合っているのだが、今日の放課後はその先輩と一緒に買い物に行く約束をしていると言っていたのだ。デートの誘いはいつも唯葉のほうからなのに、今日は珍しく先輩のほうから誘ってくれたと嬉しそうに惚気ていた。
「約束、間に合う?」
慌てて訊ねると、唯葉がふわっと笑って首を横に振った。
「約束の時間には遅刻してるけど、大丈夫。電話して事情を話したら、駅で待っててくれるって」
「え、わたしのせいで、先輩のこと待たせてるの?」
「だって、沙里のことが心配だったから……」
唯葉が困ったように眉尻を下げる。
わたしのことを心配してくれる唯葉は優しい。だけど、そのせいでデートを邪魔してしまったと思うと申し訳なかった。
「ありがとう。わたしはもう大丈夫だから、唯葉は今すぐ先輩のところに行きなよ」
「うん、でも、先輩はゆっくりでいいって言ってくれてるから、駅までは沙里と帰るよ」
「いいの? きっと先輩のことだから、待たせてるあいだに何人かの女の子に声かけられてるよ?」
「その可能性は高いけど……。でも先輩は、ちゃんと断ってくれてると思う」
わたしが冗談半分、本気半分でそう言うと、唯葉がほんの少し頬をひきつらせた。
唯葉の彼氏は、なんとなく中性的な雰囲気があるかっこいい人で。カフェやファーストフード店の椅子にひとりで座っているだけで女の子が引き寄せられるように近付いてくる。
デートのとき、唯葉が彼氏との待ち合わせ場所に数分でも遅刻していくと、大抵の場合、知らない女の子に逆ナンされているらしい。
唯葉の彼氏はクールで口数の少ないタイプだから、知らない女の子に絡まれても冷たい態度で断っているみたいだけど。それでも、彼氏が他の女の子に声をかけられるのは心配だろう。
「とりあえず、駅まで急ごうか」
「うん、ありがとう」
助けてもらった分の埋め合わせにもならないけれど、唯葉の腕を引っ張って帰路を急ぐ。
「また明日。デート、楽しんできてね」
「うん、明日ね」
駅前で唯葉と別れてから時間を確かめると、既に夕方の四時半を過ぎていた。
化学準備室に三十分も拘束されたせいで帰宅時間が大幅に遅れてしまったけれど、今から地元の駅に戻ってそのままスーパーに寄れば、特売の時間にギリギリ間に合う。
今日の夕飯は何を作ろうかな。
スマホでレシピ検索をしていると、画面の上にSNSのDM受信の通知が届いた。
深く考えずにそれを確認したわたしの眉間に、僅かにシワが寄る。捨てアカで送られてきたらしいDMには、わたしの悪口が書かれてあった。
『学校来んな、ブス。お前がやめろ』
わたしは、届いたメッセージを冷めた目で数秒眺めてから削除した。
SNSは知り合いにはバレないようなニックネームでやっているのに。それがわたしのものだという情報が、どこから漏れたのだろう。
流出原因は不明だが、ここ数日、くだらない嫌がらせDMが増えている。
送ってきているのは、おそらく同じ高校の生徒。わざわざ捨てアカを取ってまでこんな嫌がらせしてくるなんて、暇すぎる。
嫌がらせのDMが送られてくるようにきっかけは、誰かがメッセージアプリで学校中に広めた一枚の写真だった。
わたしが今日の放課後、生徒指導の三上先生に呼び止められて指導室に連行されそうになったのも、おせっかいな葛城先生に三十分以上も化学準備室でやんわりとしたお説教をされたのも、全てはその写真のせいだ。
どこの誰の嫌がらせかはわからないが、昨年度までうちの高校で数学教師をしていた桜田 健吾と一緒に歩いていたところを隠し撮りされたのだ。その写真には、桜田先生に腕を絡めて満面の笑みを浮かべる制服姿のわたしがはっきりと写っていた。
それだけならまだふざけていただけだと言い訳もできたのだが、撮影された時間帯は夜で、しかもいかがわしいホテルもあるような街中だったものだから、その写真とともに、わたしと桜田先生のウワサが、あることないこと広まってしまった。
わたしが桜田先生にしつこく迫っている、とか。お金をもらって抱かれてる、とか。桜田先生がわたしに手を出したことがバレて、うちの学校を辞職させられた、とか。
どれも、過大妄想が生み出したクソみたいな作り話ばかりだ。そんなクソみたいな噂を信じる生徒たちもバカだし、まともに取り合おうとする先生たちだってバカだと思う。