真那花が来る前にはこの涙を()き止めようと奮闘したけれど、思いのほか早く駆けつけてくれた彼女には、兎のような双眸を見せることとなってしまった。

「修斗っ」

 息を切らせた真那花と目が合えば、伸びた両手。

「真那花っ」

 俺は彼女を抱きしめた。彼女の匂いに安らぎ、彼女の温もりに安堵して。真那花が俺を癒やしてくれた。


「はいこれ。コーヒー」

 俺が幾らか落ち着くと、コートのポケットから缶を取り出した真那花は隣に座った。

「ありがと」
「買ったばっかだから熱いよ」

 カコッと開ければ立った湯気。不規則に揺蕩(たゆた)い消えるそれを見て、会えずに終わった弟妹(きょうだい)を想う。

「どうしたの修斗。なにか嫌なことでもあった?」

 一点だけを見つめ続ける俺に、真那花は聞いた。

「もし話したくないならいいけど」

 彼女を見やる。夜の中、潤んだ瞳が水面(みなも)に見えた。

 家庭のことは、今まで誰ひとりにだって相談したことがない。どちらかと言えば隠してきた。だから今日も、真那花に会ったところで話す気なんてさらさらなかった。

「俺の父さんが、なんの仕事してるか知ってたっけ」

 なのにどうしてだか今この瞬間、聞いて欲しいと思った。

「えっとー、たしか骨董品屋さんじゃなかったっけ?商店街の」
「そう」
「それがどうしたの?」
「父さんの店さ、やばいっぽいんだよね。昔ほど骨董品が売れる時代じゃなくなったとは前に聞いてたんだけど、そこへ追い討ちをかけるように、店の近くにでっかいショッピングセンターができちゃってさ、もっと売れなくなっちゃったみたい。毎日俺より帰宅早いんだよ。今日も売れなかったーとか言って、早々にシャッター下ろして」
「そうなんだ……」
「最近は母さんもパートに出て家計を助けてるみたいなんだけど、さっきも夫婦で喧嘩してた。昔みたいにお金で苦しみたくないって」
「昔?」

 ふたり目の子には会えてない。

 母の言葉が頭で反芻(はんすう)されれば、また泣きそうになってしまう。

「俺ってね、治療してできた子なんだって……」

 そう呟くと、真那花は「え」と小さく言った。

「不妊治療がいくらするのかわからないけど、けっこうな額を使ったんだと思う。親は第2子も望んでいたけど、俺にたくさん金を費やしちゃったから、途中で諦めてた」

 (のち)に産まれる子の命まで俺が吸い取ってしまったのかなぁと思ったのは小学1年生の頃。それは間違いではなかった。

「母さんがさ、俺以外の子も抱きしめたかったって言ってるの聞いちゃったんだ。なんか俺、まじで申し訳なくなっちゃって。こんな俺の命に金がかかったせいで次の子を諦めさせちゃったこと、どう償えばいいかわかんなくて……」

 ごめんじゃ足りない、救えない。母の愛は空のあの子に注がれている。
 俯けば、堪えていた涙が1粒出ていった。ぽたんと手の甲にかかったそれは寒空の(もと)ですぐ冷やされたけれど、そこへ重ねられた真那花のふたつの手の平が、温かった。

「修斗の命はこんな命じゃない、修斗のお母さんたちが願って願って授かった、大事な命だよ」

 顔を上げると、どうしてだか彼女も泣いていた。
 
「なんで修斗が申し訳なく思うの?なんで償おうとするの?修斗はなにも悪くないじゃんっ。産まれるのにたくさんお金がかかったからってなに。それでお母さんたちは修斗に逢えたんだから万々歳だよっ。それに」

 そこで1度口を結んだ真那花の頬、真っ直ぐ綺麗に流れるものを、俺の親指が(すく)い取る。俺のために涙する彼女が、愛おしくてたまらない。
 真那花の頬に手をあてがったままでいると、彼女はそれを自身の手で包み込み言った。

「それに私も、大好きな人に逢えたから万々歳っ」

 きゅっと瞑った目からまた涙が流れて、俺の手に彼女の愛が入ってくる。
 
「私、修斗が好き。ずっとずっと、大好きだったの」

 突然の彼女の告白に動揺したが、大好きな人に大好きだと言われ嬉しくないはずがない。勝手に動いた身体を止められず、気付けば彼女にキスをしていた。

「ん、修っ……」

 切なかったから、やるせなかったから、そんなのは都合の良い弁解でしかなくて本心はこれ。

 ずっと真那花が欲しかった。

 マシュマロみたいな真那花の唇。願いが叶うなら一生だってこうしていたいけれど、哲也の笑顔が突然浮かんで、俺は慌てて口を離した。