すべては青い春の、愛のせい

 千葉県高等学校バスケットボール夏季大会3回戦敗退。それが甲斐田先輩たちの、最後の記録だった。

 崎蘭校に着いたメンバーは皆、葬式の参列者のよう。目を赤くさせた全員が、無言のままにピロティーへ。

「……今日(きょう)は」

 試合に勝とうが負けようが、決して賛称はしない中川原。苦言を(てい)するいつもの定位置に立ち、話を始める。

「今日のお前たちは……」

 そこで声が詰まった彼は、双眸を手で覆う。うう、と咽び泣くそのさまに、鼻を啜る音が四方八方から聞こえてきた。
 暫くして、ようやくその声が絞り出される。

「今日のお前たちは、今までで1番最高だった」

 滲む視界で確かに捉えた、彼のぐしゃぐしゃなその笑顔。

「あと数秒、あとワンゴールあればお前たちは勝てた。深間より弱いから負けたんじゃない、勝つのに時間が足りなかっただけだ」

 中川原がこんなことを言うなんて、先輩たちの代の終わりを感じてしまう。着々と実感がわいてくれば頬を伝う涙。周りを見れば、皆の頬にも同じもの。
 中川原はそんな俺等をゆっくり見渡してから、こう続けた。

「幸せをありがとう。お前たちのコーチができて、最後にこんなにもいいゲームを見せてくれて、感謝している。悔いがないかと聞かれればあると答えるが、これは残るような悔いじゃない。だから是非、コーチ最後の台詞として言わせてくれ」

 息を吸って、微笑んで。

「お前たちは強かった」

 そう言った。
「今日うちへ来れるか?修斗に話したいことがある」

 そんな甲斐田先輩からのメールを受け取ったのは9月の土曜、練習終わり。タオルで顔を拭いながら読み進めれば、ゾクッと身体が毛羽立った。
 彼の家には1度だけ行ったことがある。その時は複数人で訪れたから緊張はしなかったけれど、この文面から察するに今日招かれているのは俺ひとり。ドキドキ加速していく鼓動をすぐそこに感じながら、俺は「今から行きます」と返信をした。


「お疲れ修斗。いきなりごめんな」

 玄関の扉が(ひら)かれると、そこにはボーダー姿の甲斐田先輩。

「今日の中川原も、たくさん怒鳴ってた?」

 ははっと爽やかに笑う彼は現役の時と変わらない。緊張がゆるりと(ほど)けていくさまがわかった。

 俺を部屋へと通した彼は、「茶でもいい?」と言って1度その場を後にした。その(かん)俺は、目に映る色々を眺めいる。
 有名バスケットプレーヤーのサイン入りポスターに、千葉県を拠点におくチームのユニフォーム。壁際にはボールがひとつ転がっていて、出窓に置かれているのはバスケ関連雑誌。
 俺の心が躍ったのは、甲斐田先輩が本気でバスケを愛していると感じたから。

「お待たせ」

 コップをふたつ携え戻ってきた彼は、そのひとつを俺に手渡すと目の前で胡座をかいた。くるっと指でまわす中の氷。カランと小さな音が鳴る。

「俺ね、修斗には感謝してんのよ」

 思いもよらぬその発言に「え」と上擦った声で聞き返せば、彼は自嘲(じちょう)気味に笑っていた。

「お前がいなかったら、もっと早くに引退してたと思う」
「そんなことっ」
「あるよ」

 氷に落とされていた視線が俺へと移って、真剣な眼差しに息を飲む。彼は続けた。

「修斗がうちのバスケ部に入ってきた時、ぶっちゃけ焦った……やべえ、俺よりうまいじゃんって。でもそれが着火剤になったつーか、奮い立たされたっつーか。修斗と出逢えたから、俺も必死になれた」

 それは俺の台詞だと思った。甲斐田先輩がいたから、闘魂に火がついた。

「中川原は実力順でユニフォーム渡す奴だから、油断してっとすぐ背番号変わるんだよ。俺も1回だけ桜井に4番捕られて、超悔しい思いした。番号なんてなんでもいいって思うけど、それでもやっぱ4がいいんだよな、俺。でもそれは、修斗も一緒なんじゃないかなって思った」

 片頬だけで微笑まれて、俺もビターな笑みを返す。

「俺、崎蘭の4番を背負えますかね……」

 そう聞けば、ピコンと額へ放たれるデコピン。

「お前しかいねえよ、背負えんの」
「まじっすか?」
「俺がコーチだったら、間違いなくお前に4を渡す」

 その言葉が心底嬉しくてはにかむと、彼は俺の頭をがしゃがしゃ撫でた。

「期待してるぞ、修斗。俺等が行けなかった全国へ行ってくれ」

 その後は日が暮れるまで延々と、バスケの話だけをした。
 季節は進み、冷暖房器具が備えられていない体育館は、毎日外気と同じ気温。大きな箱の中で吐く白い息は、風が拐うでもなくそこに(とど)まる。でもそれはストレッチの時だけで、練習中は一切見えなくなるから不思議だ。

 俺等の代がまず目指すは、来月1月の新人戦。県内で2位以内に入れば、関東新人大会への切符を受け取れる。

「息上がりすぎだ花奏ぇ!スタミナつけろ!」
「はい!」

 涙なんか見せていい奴だなと思えたのは深間校に負けたあの日のみ。やはり中川原は厳しい鬼で、笑顔はないし眉間にはいつも皺が寄っている。

「そんなんじゃベンチにも入れんぞ!」

 そして、脅しも得意。

 俺等2年生は計16人。この数字は1番厄介だと思っている。何故なら試合に出られるのは15人だけだと決まりがあるから。24秒ルールも好かないが、この1年間だけはこのルールの方が嫌いだ。いつも同い年の誰かがユニフォームを貰えないなんて酷すぎる。

「ねえねえ修斗、ちょっといいか?ゴール下の動きで教えて欲しいことがあるんだけど……」

 そしてそれが、今のところだとたぶん彼。森田勘助(もりたかんすけ)という男。俺ほどの背丈で風貌も俺と似ているからか、校内では「じゃない(ほう)」と言われ後ろ指をさされている。無論、俺がそこに出くわせばその指の主を思い切り睨む。

「ああ、いいよ。俺でよければ」
「ありがとうっ。中川原の説明だといまいちわかんなくってさ」
「ははっ。あいつは怒鳴るばっかで語彙力がねえんだよ」
「俺もそう思う。けど言えねえよな」
「言ったら殺される」

 人一倍やる気はある、バスケ大好き野郎の勘助が俺は好きだ。
「哲也!この問題教えてくれ!」

 12月初旬、期末テスト期間。この1週間はどこの部活も全て休み。普段の俺は茶色いボールしか追いかけていないのだから、こんな休みをいきなり与えられたところで何をすればいいのかわからない。
 哲也の自室。椅子をくるりと回して振り向く彼は呆れ顔。

「おい修斗。毎回テスト前になると放課後俺んち来るのやめろよ。こっちの勉強が進まん」
「じゃあ俺が留年してもいいのかよ!」
「そしたらバスケもう1年できんじゃん」
「あ、そっか」

 あほか、と投げられむすっと膨れる。うなじをぽりぽり掻きながら、哲也は気怠そうに言う。

「なにがわかんねーんだよ」
「全部」
「あほか」
「てかなんで哲也は余裕なんだよ。お前も毎日バスケバスケしてんのに」
「へへ、修斗と違って朝型だからじゃね?」
「あ、そういえば知ってるか?担任の(はる)ちゃん先生、赤ん坊できたらしいぜ」
「え、まじ?」
「まじまじ」
「絶対可愛いの産まれんじゃん」

 バッシュを履けないこの1週間も、哲也といればあっという間に過ぎていく。
 テスト期間も残すところ1日までくると、緊張も必勝のハチマキも解かれリラックスモードに切り替わる。だから俺は、聞こうと思った。

「なあ哲也。最近どうよ」

 大雑把なその問いに、哲也は首を傾げていた。

「はあ?なんだよいきなり。どゆ意味」
「この数ヶ月で、なんか変わったこととかねえの?」
「変わったこと?」

 中学1年生の時から3年以上も付き合っていた恋人と別れたこと。それをどうして俺に知らせない。

「……べつに、ないなあ」

 何食わぬ顔でしらを切る哲也に、俺は真那花の「ま」の字を吐き出した。

「ま、真那花とは?上手くいってる?」

 その時哲也の白目が広がって、かと思えば(せば)まった。

「別れたけど」
「え、なんで?」
「フラれた」
「そ、そっか」
「なんか俺以外に好きな奴ができたんだってさ」

 あっさりとした言い方だった。けれど悲しそうな顔だった。

「もういいだろこんな話。つまんねえよ」

 哲也の心は未だに真那花へあると、痛いほどに伝わった。
 俺は真那花に恋をしている。彼女が初めて試合を観に来てくれた、あの日からずっと。

✴︎✴︎✴︎

「修斗、応援席にいるあの子誰?可愛くね?」

 中学1年生の6月、南山校で行われた練習試合。君はそこに現れた。鼻の下を伸ばした哲也が、誰だ誰だと騒いでいた。

「俺のクラスの子」
「え、まじで!?誰!?」
「平原真那花」
「真那花ちゃんか」

 その時の君とは話したこともなかったし、ときめきのひとつも俺は持っていなかったから、淡々と答えることができた。

「真那花ちゃん、なんで応援きてるんだろ?」
「さぁ。部に誰か、仲の良い奴でもいるんじゃん?」
「えーっ。彼氏?」
「知らねえよ」

 そわそわする哲也を見れば、彼が恋に落ちたことが容易くわかった。それなのに。

「修斗くーん!頑張ってー!」

 試合中、君が叫んだのは俺の名前。

「修斗くんファイトー!」

 話したこともないただのクラスメイトを、君は懸命に応援してくれた。だから気になってしまった。
 シュートを決めては君の反応をうかがって、ハーフタイムは顧問の肩越しに君を見つめて。終始笑顔の君が愛おしいと思った。


「俺頑張ってみようかな、真那花ちゃんのこと」

 その日の帰り道。茜色の空を見上げながら、哲也が言った。

「応援してよ、修斗」

 大切な友人の恋を応援する。その選択をするのに時間を要さなかったのは、俺の今日抱いた感情など一時的なものだと勘違いしていたから。

「おう、頑張れ哲也」

 それが誤算だと気付いたのは、哲也と真那花が付き合ってすぐだった。
✴︎✴︎✴︎

 もういいだろこんな話。つまんねえよ。

 哲也がそう言った瞬間、空気が淀んだ。こんな話をするんじゃなかったと後悔した俺は、逃げるようにしてその場を去った。

 家路で浮かぶ満月が、真那花の顔を映し出す。哲也が想いを寄せていて、俺も彼女のことが好きで。けれど彼女の気持ちはもう、他の誰かに向いている。

「ああ、さっみ……」

 頬を掠めた凍てつく風が、つららのように痛かった。


「おかえり修斗。夕ご飯、もうちょっと待っててね」

 家へ帰る頃、時計の針は夜7時。エプロン姿でキッチンを駆け回る母に、俺は聞いた。

「どっか行ってたの?ママ友会?」
「違うわよ。今日からお母さん働き出したの」
「え」
「不慣れで早速遅くなっちゃった」

 専業主婦ではない母を、俺は産まれて初めて見た。どうして働き出したのかと予想をすれば、ちりりと疼き出す鳩尾(みぞおち)付近。
 ソファーに目を移す。そこには日本酒片手に顔を赤らめる父の姿。

「母さん、父さんって何時から家にいるの?」

 母の耳元、ウィスパーボイスで質問すると、彼女も声のボリュームを落とす。

「わからない。私が仕事から帰ってきた時にはもうお酒飲んでたから、だいぶ早くにお店閉めたんじゃないかしら」

 借金の2文字が、心にどかんと居座った。
「ちょっと走ってこようかな」

 前々から思ってはいたが、俺って走ることを気分転換に利用している。夕飯を食してすぐの行動に、母が戸惑う。

「えぇ!テスト勉強は!?」
「哲也んちでしたから大丈夫」
「寒いわよ、気をつけて」
「うん。なにか買ってくる?」
「じゃあ牛乳」
「いつも牛乳じゃん」
「背伸びたいとか言って、あんたが全部飲んじゃうんでしょっ」

 ははっと笑い、家を出る。今日はいつもよりもスピードを落として、何時間だって走っていたかった。

「あ。修斗」

 夜10時。牛乳を購入するため訪れたコンビニで、目に飛び込んできたお団子ヘア。

「真那花……お前なんでいつもここにいるんだよ」
「いつもじゃないよ。修斗こそまた走ってたの?」
「うん」
「好きだねー」

 真那花が抱えていたペットボトル。俺はそれを奪うと「送る」と言った。

 並んで歩く夜の街。普段よりも落ち着かないのは、哲也とあんな話をしてしまったから。

「明日でテストも終わりだね。修斗はまたバスケ漬けの日々?」
「おう。新人戦近いし」
「そっか。いつ?」
「1月9日から。勝てばとりあえず3日間連続」
「また応援行こっかなあっ」

 真那花の浮かれたその声に些か苛立ちを覚えたのは、哲也の悲しそうな顔が頭に過ぎったからだろうか。まだ真那花を好きな彼を身勝手な理由でフっておいて、よくも平気でそんなことを言えるものだと。
 信号機の手前で立ち止まった俺は言う。

「真那花は一体誰を見にくんの?」
「え?」
「今回はもう先輩いないんだよ。哲也も絶対試合に出んだよ。一体なにしにくんの?」
「なにって、崎蘭を応援しに……」
「だったら女子バスケでもいいじゃねえか、会場ちげえよ」

 がらりと変わった俺の態度に、真那花は困惑していた。

「て、哲ちゃんが気まずいってこと?だってもう、別れて7ヶ月も経ったよ?この前観に行った試合の後だって、来てくれてありがとうって言ってくれたし」

 フッた側の「もう」はフラれた側の「まだ」かもしれないと、少しでも考えて欲しいと思った。ふいに出た舌打ちが、ふたりをヒートアップさせてしまう。

「じゃあべつにいいよ。応援くれば?」
「はぁ?なにその言い方」
「俺に断る権限ないし」
「だからなにその言い方!来るなってこと!?」
「知らね」
「修斗は私に来て欲しくないの!?」
「はぁ?俺?」
「私の応援、迷惑なの!?」

 そんなわけねぇじゃん、と言いかけたけれど、それは飲み込んだ。もしそんなことを言ってしまえば、真那花への想いも口にしてしまいそうだから。
 無言になった俺の手からペットボトルを取ると、真那花は言った。

「もうひとりで帰る!じゃあね!」
「え、ちょっと待っ」
「じゃあね!」

 背を向けスタスタと足早に歩む真那花。俺はそんな彼女の後ろ姿を、暫く見つめていた。
 クリスマスと正月を終えれば間近に迫る新人戦。今日は試合前最後の部活動。部員を円く集めた中川原が言う。

「今日の練習はここまで!今夜中に疲れをとって、明日は万全で挑むぞ!」

 今日も今日とて競走馬よりも走らせておいてよく言えるな、と哲也と目配せだけで笑い合った。

「3年がいなくなってから初めての公式戦だ。今年の崎蘭は去年よりも強いって、そう思わせてやろうじゃないか!」

 ユニフォームはすでに頂戴した。俺は4番、哲也は5番で、勘助はベンチ入りしなかった。
 皆を見渡し、言葉を続ける中川原。

「初戦はいきなりだが、去年の大会で関東まで駒を進めたチーム、十神(とおがみ)高校だ。キーパーソンは4番5番の双子、峰山(みねやま)兄弟。花奏と斉藤にマークさせようと思っている」

 名を呼ばれた俺等ふたりは「はい」と忠実な返事をする。中川原は不敵な笑みを浮かべていた。

「双子は生まれた時から一緒だ。阿吽(あうん)の呼吸なんてもんじゃない。だがお前たちなら抑えられるな?」

 顔を見合わせる哲也と俺。うんと頷けば揃う声。

「「余裕っす」」