すべては青い春の、愛のせい

 59対58。試合時間は残り1分。タイムアウトを取った中川原が言う。

「いいか。今追い込まれているのは深間だ、それを忘れるな。今日の8時59分まで、無名の崎蘭校なんか平気で倒せると思っていた相手をここまで苦しめているんだ」

 穴という穴から汗が吹き出し、口と鼻から酸素が出ていく。それを補おうとする肺を動かすだけでも、力が消耗されていく。逆さまにした水筒の中身を喉へと送り込みながら、中川原の話に耳を傾ける。

「崎蘭はやれる、お前たちはやれる。今日が3年の最後じゃない、まだ未来はある!全国へ行ける!」

 ああ、俺もそんな未来を信じている。

「あと1分死ぬ気で頑張ってこい!絶対に点を奪われるな!」

 そうガッツを入れられたところでブザーが鳴って、俺等は再び戦場へ。キュッとわざと足元を擦ったのは、この音が俺のモチベーションを上げるから。しかし前からも似たような音が聞こえて視線を向けると。

「え」

 そこには4番佐藤の姿。

「お、俺につくんすか?」

 自身を指さしそう聞けば、佐藤は溜め息混じりに頷いた。

「うちのコーチ、甲斐田よりお前のこと怖がってんぜ」
「え、あざっす」
「ははっ。あざっすか」

 腰を落とし、守りのフォームへ入った彼は柔和に笑う。そして一転、その顔は整えられた。

「まあ、守る間もなく深間(こっち)が攻めに変わるけどな」


 コートへ投入されたボールは、甲斐田先輩の手元で跳ねる。隙あらば取ってやろうとそれを狙うは間淵。互いが互いを睨み心を探って、時間だけが過ぎていく。

「せ、先輩!あと3秒っす!」

 できることならこの1分間、ボールを抱え(うずくま)ってしまいたい。だけどそれは、24秒ルールが許さない。

「先輩!」
「わかってる!」

 シュートじゃなく、味方へのパスを選択した彼が真横にボールを送ったところで無情にも響いたブザーの音。

「よし、俺等の番っ」

 笑顔の佐藤とは裏腹に、俺の顔は強張った。
 試合時間残り30秒。ボールを持つは深間校。
「ディフェンスオールコート!!」
「おう!!」

 甲斐田先輩の掛け声に、俺等も腹の底から声を出す。シュートはさせない、入れさせない。この30秒間を守り抜く。

 ドリブルをつくのは飯田。渡辺先輩のディフェンスを避けながら、半分のコートを上がってくる。そしてセンターラインを超えた瞬間、一気に変わったそのスピード。抜かれた渡辺先輩が大きく叫ぶ。

「カバー!」

 しかし叫び終わる頃にはもう、飯田の手元にボールはなかった。残り15秒。ダムダム聞こえるのは佐藤の足元。彼の前で、甲斐田先輩が腰を落とす。
 ふたりの位置は、斜めにリングが見えるスリーポイントライン付近。じりじりと間を詰める甲斐田先輩に、佐藤がコートの隅まで追い込まれていく。
 確実な点を欲している敵は、もっとリングへ近寄りたいだろう。自分でいくか、ゴール下へのパスを送るか。予測、予測、予測。彼の得意なシュートの角度はどこだろうか。それを教えてくれたのは、佐藤本人だった。

「甲斐田」

 佐藤は甲斐田先輩に話しかけた。無論、集中力維持のため甲斐田先輩は応えない。

「試合前の俺のアップ、ちゃんと見てた?」

 その言葉で、俺は思い出したことがある。佐藤が好きな角度は、佐藤が得意なのは──

「最後の最後で、俺をここに連れて来ちゃだめじゃん」

 今彼が立っているその位置からの、シュートだってこと。

 バックステップで甲斐田先輩から1歩離れた佐藤は、アーチを描いたシュートを放った。慌てて手を伸ばした甲斐田先輩の指先をゆうに越え、リング目掛けて飛んでいく。

「リバウンド!!」

 観客、ベンチ含め崎蘭校サイドの皆がそう叫んだのは信じたかったから。このシュートは外れると、勝つのは俺等だと。今日が崎蘭高校3年生の、引退の日なんかじゃないのだと。

 間淵を背中に抑えながら、やたらとスローに映るボールを目で追った。外せ外せ外せと、何度願ったかわからない。

 シュトンッ。

 ボールが触れた。ネットに触れた。輪っかを綺麗にすり抜けて、網がさらりと揺れてしまった。
 落ちて転がるボールが意志を持ったように場外へ出て行ったから、「試合終了」だと言われた気分になった。

「よっしゃああぁあ!」

 深間校のベンチが騒ぐ中、そのボールを拾った俺はコートへ戻す。

「か、甲斐田先輩!」

 けれどキャッチした甲斐田先輩は、それをまじまじ見つめるだけ。

「先輩、まだ──!」
 ビビーーー!!

 まだイケると言いたかったけれど、その言葉は試合終了ブザーが掻き消した。なんという酷い音なのだろう。優しさの欠片もない、最低な音。
 コートの中、立ち尽くすのは俺ひとり。抱きあい狂喜乱舞するのが深間校の連中で、崎蘭の皆は膝から崩れ落ちていた。

「お、終わり……?」

 にわかには信じ難くて、俺は自分へ問いかけた。

「まじで、終わりなの……?」

 瞳に映る光景は異様。何故なら俺等崎蘭校メンバーは1分前まで、ついさっきまでは勝つことしか考えていなかったのだから。
 千葉県高等学校バスケットボール夏季大会3回戦敗退。それが甲斐田先輩たちの、最後の記録だった。

 崎蘭校に着いたメンバーは皆、葬式の参列者のよう。目を赤くさせた全員が、無言のままにピロティーへ。

「……今日(きょう)は」

 試合に勝とうが負けようが、決して賛称はしない中川原。苦言を(てい)するいつもの定位置に立ち、話を始める。

「今日のお前たちは……」

 そこで声が詰まった彼は、双眸を手で覆う。うう、と咽び泣くそのさまに、鼻を啜る音が四方八方から聞こえてきた。
 暫くして、ようやくその声が絞り出される。

「今日のお前たちは、今までで1番最高だった」

 滲む視界で確かに捉えた、彼のぐしゃぐしゃなその笑顔。

「あと数秒、あとワンゴールあればお前たちは勝てた。深間より弱いから負けたんじゃない、勝つのに時間が足りなかっただけだ」

 中川原がこんなことを言うなんて、先輩たちの代の終わりを感じてしまう。着々と実感がわいてくれば頬を伝う涙。周りを見れば、皆の頬にも同じもの。
 中川原はそんな俺等をゆっくり見渡してから、こう続けた。

「幸せをありがとう。お前たちのコーチができて、最後にこんなにもいいゲームを見せてくれて、感謝している。悔いがないかと聞かれればあると答えるが、これは残るような悔いじゃない。だから是非、コーチ最後の台詞として言わせてくれ」

 息を吸って、微笑んで。

「お前たちは強かった」

 そう言った。
「今日うちへ来れるか?修斗に話したいことがある」

 そんな甲斐田先輩からのメールを受け取ったのは9月の土曜、練習終わり。タオルで顔を拭いながら読み進めれば、ゾクッと身体が毛羽立った。
 彼の家には1度だけ行ったことがある。その時は複数人で訪れたから緊張はしなかったけれど、この文面から察するに今日招かれているのは俺ひとり。ドキドキ加速していく鼓動をすぐそこに感じながら、俺は「今から行きます」と返信をした。


「お疲れ修斗。いきなりごめんな」

 玄関の扉が(ひら)かれると、そこにはボーダー姿の甲斐田先輩。

「今日の中川原も、たくさん怒鳴ってた?」

 ははっと爽やかに笑う彼は現役の時と変わらない。緊張がゆるりと(ほど)けていくさまがわかった。

 俺を部屋へと通した彼は、「茶でもいい?」と言って1度その場を後にした。その(かん)俺は、目に映る色々を眺めいる。
 有名バスケットプレーヤーのサイン入りポスターに、千葉県を拠点におくチームのユニフォーム。壁際にはボールがひとつ転がっていて、出窓に置かれているのはバスケ関連雑誌。
 俺の心が躍ったのは、甲斐田先輩が本気でバスケを愛していると感じたから。

「お待たせ」

 コップをふたつ携え戻ってきた彼は、そのひとつを俺に手渡すと目の前で胡座をかいた。くるっと指でまわす中の氷。カランと小さな音が鳴る。

「俺ね、修斗には感謝してんのよ」

 思いもよらぬその発言に「え」と上擦った声で聞き返せば、彼は自嘲(じちょう)気味に笑っていた。

「お前がいなかったら、もっと早くに引退してたと思う」
「そんなことっ」
「あるよ」

 氷に落とされていた視線が俺へと移って、真剣な眼差しに息を飲む。彼は続けた。

「修斗がうちのバスケ部に入ってきた時、ぶっちゃけ焦った……やべえ、俺よりうまいじゃんって。でもそれが着火剤になったつーか、奮い立たされたっつーか。修斗と出逢えたから、俺も必死になれた」

 それは俺の台詞だと思った。甲斐田先輩がいたから、闘魂に火がついた。

「中川原は実力順でユニフォーム渡す奴だから、油断してっとすぐ背番号変わるんだよ。俺も1回だけ桜井に4番捕られて、超悔しい思いした。番号なんてなんでもいいって思うけど、それでもやっぱ4がいいんだよな、俺。でもそれは、修斗も一緒なんじゃないかなって思った」

 片頬だけで微笑まれて、俺もビターな笑みを返す。

「俺、崎蘭の4番を背負えますかね……」

 そう聞けば、ピコンと額へ放たれるデコピン。

「お前しかいねえよ、背負えんの」
「まじっすか?」
「俺がコーチだったら、間違いなくお前に4を渡す」

 その言葉が心底嬉しくてはにかむと、彼は俺の頭をがしゃがしゃ撫でた。

「期待してるぞ、修斗。俺等が行けなかった全国へ行ってくれ」

 その後は日が暮れるまで延々と、バスケの話だけをした。
 季節は進み、冷暖房器具が備えられていない体育館は、毎日外気と同じ気温。大きな箱の中で吐く白い息は、風が拐うでもなくそこに(とど)まる。でもそれはストレッチの時だけで、練習中は一切見えなくなるから不思議だ。

 俺等の代がまず目指すは、来月1月の新人戦。県内で2位以内に入れば、関東新人大会への切符を受け取れる。

「息上がりすぎだ花奏ぇ!スタミナつけろ!」
「はい!」

 涙なんか見せていい奴だなと思えたのは深間校に負けたあの日のみ。やはり中川原は厳しい鬼で、笑顔はないし眉間にはいつも皺が寄っている。

「そんなんじゃベンチにも入れんぞ!」

 そして、脅しも得意。

 俺等2年生は計16人。この数字は1番厄介だと思っている。何故なら試合に出られるのは15人だけだと決まりがあるから。24秒ルールも好かないが、この1年間だけはこのルールの方が嫌いだ。いつも同い年の誰かがユニフォームを貰えないなんて酷すぎる。

「ねえねえ修斗、ちょっといいか?ゴール下の動きで教えて欲しいことがあるんだけど……」

 そしてそれが、今のところだとたぶん彼。森田勘助(もりたかんすけ)という男。俺ほどの背丈で風貌も俺と似ているからか、校内では「じゃない(ほう)」と言われ後ろ指をさされている。無論、俺がそこに出くわせばその指の主を思い切り睨む。

「ああ、いいよ。俺でよければ」
「ありがとうっ。中川原の説明だといまいちわかんなくってさ」
「ははっ。あいつは怒鳴るばっかで語彙力がねえんだよ」
「俺もそう思う。けど言えねえよな」
「言ったら殺される」

 人一倍やる気はある、バスケ大好き野郎の勘助が俺は好きだ。
「哲也!この問題教えてくれ!」

 12月初旬、期末テスト期間。この1週間はどこの部活も全て休み。普段の俺は茶色いボールしか追いかけていないのだから、こんな休みをいきなり与えられたところで何をすればいいのかわからない。
 哲也の自室。椅子をくるりと回して振り向く彼は呆れ顔。

「おい修斗。毎回テスト前になると放課後俺んち来るのやめろよ。こっちの勉強が進まん」
「じゃあ俺が留年してもいいのかよ!」
「そしたらバスケもう1年できんじゃん」
「あ、そっか」

 あほか、と投げられむすっと膨れる。うなじをぽりぽり掻きながら、哲也は気怠そうに言う。

「なにがわかんねーんだよ」
「全部」
「あほか」
「てかなんで哲也は余裕なんだよ。お前も毎日バスケバスケしてんのに」
「へへ、修斗と違って朝型だからじゃね?」
「あ、そういえば知ってるか?担任の(はる)ちゃん先生、赤ん坊できたらしいぜ」
「え、まじ?」
「まじまじ」
「絶対可愛いの産まれんじゃん」

 バッシュを履けないこの1週間も、哲也といればあっという間に過ぎていく。
 テスト期間も残すところ1日までくると、緊張も必勝のハチマキも解かれリラックスモードに切り替わる。だから俺は、聞こうと思った。

「なあ哲也。最近どうよ」

 大雑把なその問いに、哲也は首を傾げていた。

「はあ?なんだよいきなり。どゆ意味」
「この数ヶ月で、なんか変わったこととかねえの?」
「変わったこと?」

 中学1年生の時から3年以上も付き合っていた恋人と別れたこと。それをどうして俺に知らせない。

「……べつに、ないなあ」

 何食わぬ顔でしらを切る哲也に、俺は真那花の「ま」の字を吐き出した。

「ま、真那花とは?上手くいってる?」

 その時哲也の白目が広がって、かと思えば(せば)まった。

「別れたけど」
「え、なんで?」
「フラれた」
「そ、そっか」
「なんか俺以外に好きな奴ができたんだってさ」

 あっさりとした言い方だった。けれど悲しそうな顔だった。

「もういいだろこんな話。つまんねえよ」

 哲也の心は未だに真那花へあると、痛いほどに伝わった。
 俺は真那花に恋をしている。彼女が初めて試合を観に来てくれた、あの日からずっと。

✴︎✴︎✴︎

「修斗、応援席にいるあの子誰?可愛くね?」

 中学1年生の6月、南山校で行われた練習試合。君はそこに現れた。鼻の下を伸ばした哲也が、誰だ誰だと騒いでいた。

「俺のクラスの子」
「え、まじで!?誰!?」
「平原真那花」
「真那花ちゃんか」

 その時の君とは話したこともなかったし、ときめきのひとつも俺は持っていなかったから、淡々と答えることができた。

「真那花ちゃん、なんで応援きてるんだろ?」
「さぁ。部に誰か、仲の良い奴でもいるんじゃん?」
「えーっ。彼氏?」
「知らねえよ」

 そわそわする哲也を見れば、彼が恋に落ちたことが容易くわかった。それなのに。

「修斗くーん!頑張ってー!」

 試合中、君が叫んだのは俺の名前。

「修斗くんファイトー!」

 話したこともないただのクラスメイトを、君は懸命に応援してくれた。だから気になってしまった。
 シュートを決めては君の反応をうかがって、ハーフタイムは顧問の肩越しに君を見つめて。終始笑顔の君が愛おしいと思った。


「俺頑張ってみようかな、真那花ちゃんのこと」

 その日の帰り道。茜色の空を見上げながら、哲也が言った。

「応援してよ、修斗」

 大切な友人の恋を応援する。その選択をするのに時間を要さなかったのは、俺の今日抱いた感情など一時的なものだと勘違いしていたから。

「おう、頑張れ哲也」

 それが誤算だと気付いたのは、哲也と真那花が付き合ってすぐだった。
✴︎✴︎✴︎

 もういいだろこんな話。つまんねえよ。

 哲也がそう言った瞬間、空気が淀んだ。こんな話をするんじゃなかったと後悔した俺は、逃げるようにしてその場を去った。

 家路で浮かぶ満月が、真那花の顔を映し出す。哲也が想いを寄せていて、俺も彼女のことが好きで。けれど彼女の気持ちはもう、他の誰かに向いている。

「ああ、さっみ……」

 頬を掠めた凍てつく風が、つららのように痛かった。


「おかえり修斗。夕ご飯、もうちょっと待っててね」

 家へ帰る頃、時計の針は夜7時。エプロン姿でキッチンを駆け回る母に、俺は聞いた。

「どっか行ってたの?ママ友会?」
「違うわよ。今日からお母さん働き出したの」
「え」
「不慣れで早速遅くなっちゃった」

 専業主婦ではない母を、俺は産まれて初めて見た。どうして働き出したのかと予想をすれば、ちりりと疼き出す鳩尾(みぞおち)付近。
 ソファーに目を移す。そこには日本酒片手に顔を赤らめる父の姿。

「母さん、父さんって何時から家にいるの?」

 母の耳元、ウィスパーボイスで質問すると、彼女も声のボリュームを落とす。

「わからない。私が仕事から帰ってきた時にはもうお酒飲んでたから、だいぶ早くにお店閉めたんじゃないかしら」

 借金の2文字が、心にどかんと居座った。