「お前」
思い返すのはいつも昔のことばかりだった。
幸せだった時間、過去、栄光、輝いていた、そんな思い出を美化して若さや鮮やかでみずみずしい記憶ばかりを猛追し、自分は人らしく生きたと誰かに思い知らせたかった。自分に、どうだここまで生きたぞと、晴れやかに死に急ぎたかったのだ。その命を繋がれた。もう長くはないだろう。もう、永遠にはなれないだろう。飛べないだろう。走れないだろう。過去には戻れないだろう。それでもだ。
「お前」
齢65にして、思い出したように奮起して逸るまま走らせた脚をもつれさせ、転び、靴が脱げ、冬の道、遠い春の、その砂利を裸足で蹴りながら家内の姿の元へ走った。私を目にとめ、涙ぐみ、そして大手を広げて抱き締めてくれる彼女と生きようとした。この命を捧げた。過去ではない。今も続いている。強がりも見栄も意地もかなぐり捨てた先にある、ここにある。事実として。
「来てくれるって、信じていました」
「花苗」
「あなた、強くて、とても弱くいらっしゃるから」
過去にしがみついて思い返すばかりだった冬の日に、泣き崩れる家内を引き寄せる。私も情けなく泣いてしまい、そんな中で、遠く、誰もいない道の真ん中に、彼女が立っている。泣き笑いを浮かべながら、もう何度と聞いた彼女のやさしい声がした。
『なんとかなるっす。命さえあれば』