立夏は学校へと続く坂道を走っていた。
太陽に振り向いて欲しい。太陽と笑っていたい。太陽の記憶の中に、微かでも自分の姿を残してもらいたい。そう思いながら、ひたすらに走っていた。
こちら側に太陽がいそうな場所は一つしか思い当たらない。
学校から少し先の場所にある海を眺められる石造りの階段。
きっとそこに太陽がいると、立夏は考えていた。
嫌なことがあると、太陽はそこに行くから。
学校を超えて、階段の前にたどり着いた。
ここから先に、街灯はない。
立夏は深く息を吸って、吐いた。ここに太陽がいると、直感が告げている。
「良し!」
小さく、しかし力強く言って、自らを鼓舞する。
階段を一歩、また一歩と、慎重に降りていった。
視界は非常に悪く、濃密な暗闇をかき分けて進んでいく。かろうじて見えるのは、打ち上がる花火の光だけだ。
「待っててね、太陽」
太陽が、私の言葉で元気を取り戻してくれたら嬉しいな――もうこれ以上の幸せはないだろうと、立夏は思う。
そのまましばらく進んで行くと、人の気配がした。
目を凝らして見てみると踊り場のような所に、その人は佇んでいた。
その姿をはっきりと見て、立花は叫び出しそうになるのを懸命に堪えた。
真っ暗で、少し離れていても分かる。
太陽だ。
いつだってその瞳でその横顔を追って来たんだ。分からないはずがない。
太陽は欄干の内側ではなく、外側に立っていた。
太陽は両手を広げて欄干に捕まり、奈落を覗き込むように俯いている。
太陽が何をしようとしているのか、立花は瞬時に悟った。ドクンと心臓が跳ね上がり、冷たい雨に打たれたように全身が冷や汗でぐっしょりと濡れた。
生暖かい風が、立夏の髪を揺らす。それを合図に立花は声を発した。
「ねえ太陽。迎えに来たよ。一緒に、帰ろう」
落ち着いた声で、立夏は言った。大きな声を出しちゃいけない。
その声に反応して、太陽が振り返る。
「ああ、立夏か。悪いけど、僕はもう帰れない」
一昔前のように、瞳を合わせてくれなかった。太陽は一瞬だけ立夏の方を向くと、すぐに視線を下へと移す。
「でもほら、約束したじゃん。みんなで祭りに行こうって、ライブに出ようって、だから、お願い。帰って来て」
「ごめんな……もう、無理なんだ。何のことか分からないと思うんだけどさ、これ以上、誰かを失うのは、耐えられないんだ……」
太陽は酷く頼りない声で呟いた。横顔も見たことがないほど歪んでいて、彼の心の辛さが、ひしひしと伝わってくる。
「ううん。分かるよ。花火ちゃんのことでしょ。さっき知ったんだ。私もさ、びっくりしちゃったよ。だから、太陽の気持ちは分かる。でもさ、そのままそこにいたって、何も変わらないでしょ。だから、ほら、帰ろうよ」
『花火』という単語に反応して、太陽の肩がピクンと動いた。
太陽の肩が震えている。壊れた歯車みたいに錆びついた声が彼の口から漏れ出した。
「分かるって……僕の気持ちが分かるって……」
簡単に分かられてたまるものかと、太陽は思う。好きだった女の子に「もう会いたくない」と言ってしまったこと。その子に永遠に会えなくなってしまったこと。新たに自分の心を開いてくれた女の子がいて、その子のために何の役にも立てなかったこと。そしてその子も、もうすぐ死んでしまうこと。大切な人を失うことが、どんなに辛いか。そんな気持ちが、簡単に分かってたまるものか。
「そんな簡単に、僕の気持ちが分かるなんて言わないでくれよ」
勢いよく立花の方を振り向いた。そして、拳を握りしめて、太陽は叫んだ。一歩間違えば、夜の闇に落ちていって吸い込まれてしまいそうだった。
「僕が……僕がどんな気持ちだったか分かるかよ。葉月が死んで。両親が死んで、今度は花火だ……もう、無理なんだよ……失うのは怖いんだよ。空っぽが……心に大きな空っぽが増えるのが嫌なんだ。怖いんだよ。辞めてくれよ。来ないでくれよ。僕に、逃げさせてくれよ!!!」
抑えきれない感情が爆発して、心の穴を押し広げていく。太陽の胸に空いた空白がどんどん広がっていくのが、手に取るように分かる。
「今、ようやく決心したところなんだから。もっと早く気付けば良かったんだ。もう、死ぬのも悪くない気がしてるんだ」
「なんでそんなこと言うの」
「簡単な話だよ。先にあの世に行って、花火を待つんだ。そうすれば、仲間がいるから花火だって死ぬのが怖くなくなるかもしれない。それにもう誰かを失うこともない。葉月にも、お父さんにもお母さんにも会える。最高だろ? やっと気付いたんだから、邪魔しないでよ。僕が花火とずっと一緒にいるにはもう、あっちの世界で暮らすしかないんだよ! それを叶えるには死ぬしかないんだよ!」
太陽が頭を抱えて叫ぶ。
花火とずっと一緒にいたいと、目の前で宣言された。でも、今はそれどころじゃない。心の傷を感じでいる余裕なんてない。
「太陽……」
例え太陽に選ばれなくとも、自分は太陽を選んだ。その気持ちだけは、何がなんでも尊重しないといけない。
頭を抱えてうなだれる太陽を見つめながら、立夏は小さく呟いた。
そして、一段一段階段を降りて行く。
「私がいるじゃんって言っても、それは意味がないんだろうね」
太陽はその言葉に一瞬だけピクンと反応したが、振り向いてくれなかった。
「太陽の気持ちが、確かに、全部分かるとは言えないよ。言っちゃいけなかった。ごめんね。でも、ほんの少しなら、分かるかな」
太陽の背後に立ち、欄干越しに彼の手にそっと触れる。闇の底に堕ちていかないよう、力を込めた。
「な、何がだよ……」
「私だって、葉月を失ってるから。それに、太陽のことが好きだから……好きな人がいなくなるって感覚とは少し違うけど、好きな人が振り向いてくれなくて、心が空っぽになることは、あるから。少しは分かるかな」
照れたように笑い。立夏ははっきりと言った。太陽の前で「太陽が好き」だと。
はっきりと口に出して、立夏は心の中に溜まっていた膿のようなわだかまりが、スーッと消えていくのを感じていた。気分が楽になる。
「そ、そんなの。知らなかった」
「はははっ。そりゃそうだよ。だって、隠してたもん」
「で、でも」
「うん。分かってる。花火ちゃんが好きなんでしょ。見てて気づくよ。ほら、私、ずっと太陽のことを瞳で追ってたから」
「じゃあ、なんで」
なんで告白したのか、ということだろう。
「振られるって分かってても。言いたかったんだよ。困らせたなら、ごめんね。でもほら、やっぱり、花火ちゃんが好きなんでしょ。じゃあ、帰らなきゃ」
立夏がそう言うと、太陽は俯いてしまった。
「死ぬとか、あの世で待ってるとか、馬鹿なこと言わないで。本当は分かってるんでしょ? 死後の世界とかじゃない。今なんだって。今しかないんだよ。今懸命に生きて苦しんでる花火ちゃんを助けられるのは、今ここにいる太陽しかいないんだよ」
失うのが怖いから。これ以上、一緒にいれば失った時の悲しみは更に膨れ上がる。なら、もういっそ会いたくない。そう考えてしまう。
「帰らないといけないってのは、分かってるんだ。それでも、やっぱり帰りたくない。一緒にいる時間が長くなればなるほど別れた時が苦しくなる」
「太陽……夏乃さんから聞いたんだけどね。初めて花火ちゃんと会った時、倒れてた花火ちゃんを助けたんだってね。それって、心よりも先に身体が動いていたってことだよ。思うよりも先に動いていた。助けるって思う前に助けていたんだ。それなら、もう答えは出会った時から出てるようなものだよ。ねえ、戻ろうよ。戻って、みんなで打ち上げ花火を見よう。そして、ライブも成功させよう。花火ちゃんもきっと、待ってるよ」
「でも……でも、花火は、もうじき身体の半分が透明化して……手遅れになっちまう!!」
太陽は目元を両手で覆った。声も震えている。溢れ出す涙を、必死にこらえているのだ。
「ううん。もうじきじゃない。もう、身体の半分が透明化してるんだよ」
「え? だったら……」
太陽が真顔で振り返った。そして、その後、絶望感が一気に襲って来たのだろう、顔をくしゃくしゃに歪めて、再び顔を覆う。
「でも、まだ諦める必要はないでしょ。それじゃあ。葉月の時と一緒だよ。ここで諦めたら、また一生後悔するよ。諦めたらダメ。最後まで足掻こうよ。花火ちゃんは足掻いてるんだよ」
そう言われて、太陽は顔を覆っていた手を離した。これ以上ないくらいに腑抜けていた彼でも、花火が足掻いているという事実に、立夏が来てくれたという事実に、心を動かされた。
「なあ立夏。僕は、自分勝手なクソ野郎だ。いつも、自分のことしか考えてない」
黙って立夏は、太陽の言葉を聞く。
「花火に心を開いて貰っておいて、結局、何も恩返しできてない」
黙って、聞く。
「それに、いつだって逃げてばかりだ。今だって、花火もみんなも捨てて一人で人生から逃げようとした」
太陽は一度だけ言葉を詰まらせてから、言った。
「それでも……それでも帰っていいと思うか?」
「もちろん。私も花火ちゃんも清涼も、それを望んでるよ」
立夏は彼の手を掴んだまま、欄干の内側へ彼を連れ戻した。
「そっか……ありがとう。でも、やっぱり、空っぽは怖い。それでも少し、戦ってみるよ」
太陽は少し俯きながら、そう呟いてくれた。でもまだ、その瞳には生気がない。太陽はまだ、恐怖を克服しきれていなかった。どうせやるなら、完璧に太陽を救いたい。立夏はそう思ってる。何か、あと一言。あと一言で、太陽を救える気がするんだ。
そこでふと、立夏は思い出した。昔よく葉月が歌っていた歌を。
「太陽。怖いなら、私からプレゼントがあるの。ちょっとだけ、聞いて」
そして立夏は大きく息を吸った。そして、歌う。太陽の心に届けと、願いを込めて。
「終わらせる勇気があるなら続きを選ぶ恐怖にも勝てる
無くした後に残された愛しい空っぽを抱きしめて
借り物の力で構わないそこに確かな鼓動があるなら
どうせいつか終わる旅を僕と一緒に歌おう」
昔よく葉月が歌っていたBUMP OF CHICKENのHAPPY という曲だ。
無くした後に残された愛しい空っぽを抱きしめて。
この言葉は、葉月からの贈り物だ。
「どう? 昔よく、葉月が歌ってた曲だよ。覚えてるでしょ? これは、葉月からのメッセージだよ。まだ終わらせちゃダメだって、そう言ってるの。自分の力じゃなくていい。誰かに背中を押して貰ってもいい。頑張って、花火ちゃんのところへ、行ってあげて」
太陽は立夏の歌を、立夏の言葉を、葉月からの贈り物を、黙って聞いていた。
気がつくと先ほどまでとは違う種類の涙が一筋、頬を伝っていた。
頬を伝った暖かさに戸惑った。
心が満たされていくのを感じる。
確かにな、と太陽は思った。
愛しい空っぽを抱きしめて――太陽は今まで一度だって、胸の中にできた空っぽを愛しいと感じたことがなかった。抱きしめるどころか、考えないように遠くへ押しやってさえいた。
この胸の中にある空っぽには、元々は愛しい人がつまっていたはずなんだ。だから、居なくなってもその空っぽは愛しいと。そう思ってくれと、葉月が言っている。
太陽は立夏の手を持って、笑った。今までにないくらい、暖かく、そして優しい笑みだった。
「ありがとう立夏。お陰で、頑張れる気がするよ。まだ、諦めない。花火に、生きていて欲しい。ただ、単純にそう思って行動すれば良かったんだ。気づかせてくれて、ありがとう」
花火は違う世界に行ってしまうかもしれない。でも、それでも彼女がどこかで生きて、そして笑ってくれるなら、それでいい。僕の前からいなくなっても、失ったわけではない。どこか遠い世界で、彼女が笑っているなら。そう、太陽は思った。
「ううん。全然大丈夫だよ。私は、太陽がそう言ってくれて嬉しい。花火ちゃんを、絶対に救おうね」
太陽に向かってそう言うと、嬉しいはずなのに、喉がきゅっと詰まる。
太陽を救えたはずなのに、これからみんなで打ち上げ花火を見るのに、明日のライブもあるのに、熱いものが迫り上がってくる。
「ほら、二人の時間が必要だろうから、太陽は先に帰りなよ。私はゆっくり帰るからさ。気を利かせてやってるんだぜ? ほら、行きなって」
震える喉でわざとらしく笑って、立夏は太陽の腹をこづいた。
「ごめんな、立夏。ありがとう。そうだな。僕、花火のところに行かないといけない。花火にも、みんなにも、迷惑かけて来たから、これからは、全力でやっていくよ。本当にありがとう。立夏。じゃあ、先に行くよ」
「うん! 行ってらっしゃい!」
そう言ってから、太陽は階段を駆け下りて行った。その背中を、立夏はじっと見つめている。
だんだんと視界が歪んでいく。次第に耐えきれなくなって、立夏は崩れ落ちた。
そして、大声で泣いた。泣き喚いた。
「やっぱり……やっぱり……好きだから、悲しいよお……」
止めどなく溢れる涙を拭いながら、立夏は叫んだ。
そして、涙を流したまま、ゆっくりと、階段を登っていく。一段一段踏みしめるように、しっかりと登っていく。
階段を登り終えて、道路に出た時だ。
道路の端に人影があった。
そちらの方を向いて見ると、そこには清涼が立っていた。
彼は「よっ」と右手を上げると、立夏に近づいて行く。
「その様子だと、やっぱり振られたようなもんか」
立夏の腫れぼったい瞳を見て、清涼は全てを悟った。
「でも、太陽は救えたんだろ?」
清涼が聞くと、立夏は「うん」と頷く。
「でも、やっぱり、ちょっと寂しいよ」
そう言ってから立夏は清涼の胸で泣いた。
立夏の震えた声を聞いて、清涼の胸はチクチクと痛む。自分は本当に彼女を救えたのかと、考える。
多少なりとも、立夏を傷つけてしまった。その代償はしっかりと償わなくてはならない。
「そうかあ。寂しいよな。その気持ち、痛いほど分かるぜ」
清涼は泣きじゃくる立夏の頭を抱いた。
「なんでよ。清涼には私の気持ちなんて分からないよ」
軽々しく分かるって言われた時の太陽の気持ちはきっとこうだったのかな、なんて考えながら、立夏は返した。
「いや、分かる。俺はお前が好きだからな」
清涼は力強く言った。胸の中で泣く立夏を抱きしめながら、力強く、宣言した。
立夏の傷は、立夏のものだ。だから、自分も傷付いて、同じ痛みを知りたいと思った。
「え? それ、本当?」
呆気に取られた立夏は清涼を見上げた。
「ああ、本当だ」
清涼は頬を赤らめて、視線を泳がせている。
「まあ、俺も振られてるようなもんだ。お互いに、傷の舐め合いでもしようぜ」
「清涼もバカだね……私と一緒だ」
「あはははっ、俺もそう思う」
二人並んで歩きながら、立夏と清涼はゆっくりと、太陽の家を目指して歩く。
「ありがとね清涼。私に太陽を救わせてくれて。なんだか私、スッキリしたよ。太陽を救えて良かった」
泣き笑いのまま、立夏が言った。
「そうか。そう言ってもらえると、俺も救われるよ」
その言葉に、清涼は救われた。自分の選択は、間違ってはいなかったのだと。
太陽に振り向いて欲しい。太陽と笑っていたい。太陽の記憶の中に、微かでも自分の姿を残してもらいたい。そう思いながら、ひたすらに走っていた。
こちら側に太陽がいそうな場所は一つしか思い当たらない。
学校から少し先の場所にある海を眺められる石造りの階段。
きっとそこに太陽がいると、立夏は考えていた。
嫌なことがあると、太陽はそこに行くから。
学校を超えて、階段の前にたどり着いた。
ここから先に、街灯はない。
立夏は深く息を吸って、吐いた。ここに太陽がいると、直感が告げている。
「良し!」
小さく、しかし力強く言って、自らを鼓舞する。
階段を一歩、また一歩と、慎重に降りていった。
視界は非常に悪く、濃密な暗闇をかき分けて進んでいく。かろうじて見えるのは、打ち上がる花火の光だけだ。
「待っててね、太陽」
太陽が、私の言葉で元気を取り戻してくれたら嬉しいな――もうこれ以上の幸せはないだろうと、立夏は思う。
そのまましばらく進んで行くと、人の気配がした。
目を凝らして見てみると踊り場のような所に、その人は佇んでいた。
その姿をはっきりと見て、立花は叫び出しそうになるのを懸命に堪えた。
真っ暗で、少し離れていても分かる。
太陽だ。
いつだってその瞳でその横顔を追って来たんだ。分からないはずがない。
太陽は欄干の内側ではなく、外側に立っていた。
太陽は両手を広げて欄干に捕まり、奈落を覗き込むように俯いている。
太陽が何をしようとしているのか、立花は瞬時に悟った。ドクンと心臓が跳ね上がり、冷たい雨に打たれたように全身が冷や汗でぐっしょりと濡れた。
生暖かい風が、立夏の髪を揺らす。それを合図に立花は声を発した。
「ねえ太陽。迎えに来たよ。一緒に、帰ろう」
落ち着いた声で、立夏は言った。大きな声を出しちゃいけない。
その声に反応して、太陽が振り返る。
「ああ、立夏か。悪いけど、僕はもう帰れない」
一昔前のように、瞳を合わせてくれなかった。太陽は一瞬だけ立夏の方を向くと、すぐに視線を下へと移す。
「でもほら、約束したじゃん。みんなで祭りに行こうって、ライブに出ようって、だから、お願い。帰って来て」
「ごめんな……もう、無理なんだ。何のことか分からないと思うんだけどさ、これ以上、誰かを失うのは、耐えられないんだ……」
太陽は酷く頼りない声で呟いた。横顔も見たことがないほど歪んでいて、彼の心の辛さが、ひしひしと伝わってくる。
「ううん。分かるよ。花火ちゃんのことでしょ。さっき知ったんだ。私もさ、びっくりしちゃったよ。だから、太陽の気持ちは分かる。でもさ、そのままそこにいたって、何も変わらないでしょ。だから、ほら、帰ろうよ」
『花火』という単語に反応して、太陽の肩がピクンと動いた。
太陽の肩が震えている。壊れた歯車みたいに錆びついた声が彼の口から漏れ出した。
「分かるって……僕の気持ちが分かるって……」
簡単に分かられてたまるものかと、太陽は思う。好きだった女の子に「もう会いたくない」と言ってしまったこと。その子に永遠に会えなくなってしまったこと。新たに自分の心を開いてくれた女の子がいて、その子のために何の役にも立てなかったこと。そしてその子も、もうすぐ死んでしまうこと。大切な人を失うことが、どんなに辛いか。そんな気持ちが、簡単に分かってたまるものか。
「そんな簡単に、僕の気持ちが分かるなんて言わないでくれよ」
勢いよく立花の方を振り向いた。そして、拳を握りしめて、太陽は叫んだ。一歩間違えば、夜の闇に落ちていって吸い込まれてしまいそうだった。
「僕が……僕がどんな気持ちだったか分かるかよ。葉月が死んで。両親が死んで、今度は花火だ……もう、無理なんだよ……失うのは怖いんだよ。空っぽが……心に大きな空っぽが増えるのが嫌なんだ。怖いんだよ。辞めてくれよ。来ないでくれよ。僕に、逃げさせてくれよ!!!」
抑えきれない感情が爆発して、心の穴を押し広げていく。太陽の胸に空いた空白がどんどん広がっていくのが、手に取るように分かる。
「今、ようやく決心したところなんだから。もっと早く気付けば良かったんだ。もう、死ぬのも悪くない気がしてるんだ」
「なんでそんなこと言うの」
「簡単な話だよ。先にあの世に行って、花火を待つんだ。そうすれば、仲間がいるから花火だって死ぬのが怖くなくなるかもしれない。それにもう誰かを失うこともない。葉月にも、お父さんにもお母さんにも会える。最高だろ? やっと気付いたんだから、邪魔しないでよ。僕が花火とずっと一緒にいるにはもう、あっちの世界で暮らすしかないんだよ! それを叶えるには死ぬしかないんだよ!」
太陽が頭を抱えて叫ぶ。
花火とずっと一緒にいたいと、目の前で宣言された。でも、今はそれどころじゃない。心の傷を感じでいる余裕なんてない。
「太陽……」
例え太陽に選ばれなくとも、自分は太陽を選んだ。その気持ちだけは、何がなんでも尊重しないといけない。
頭を抱えてうなだれる太陽を見つめながら、立夏は小さく呟いた。
そして、一段一段階段を降りて行く。
「私がいるじゃんって言っても、それは意味がないんだろうね」
太陽はその言葉に一瞬だけピクンと反応したが、振り向いてくれなかった。
「太陽の気持ちが、確かに、全部分かるとは言えないよ。言っちゃいけなかった。ごめんね。でも、ほんの少しなら、分かるかな」
太陽の背後に立ち、欄干越しに彼の手にそっと触れる。闇の底に堕ちていかないよう、力を込めた。
「な、何がだよ……」
「私だって、葉月を失ってるから。それに、太陽のことが好きだから……好きな人がいなくなるって感覚とは少し違うけど、好きな人が振り向いてくれなくて、心が空っぽになることは、あるから。少しは分かるかな」
照れたように笑い。立夏ははっきりと言った。太陽の前で「太陽が好き」だと。
はっきりと口に出して、立夏は心の中に溜まっていた膿のようなわだかまりが、スーッと消えていくのを感じていた。気分が楽になる。
「そ、そんなの。知らなかった」
「はははっ。そりゃそうだよ。だって、隠してたもん」
「で、でも」
「うん。分かってる。花火ちゃんが好きなんでしょ。見てて気づくよ。ほら、私、ずっと太陽のことを瞳で追ってたから」
「じゃあ、なんで」
なんで告白したのか、ということだろう。
「振られるって分かってても。言いたかったんだよ。困らせたなら、ごめんね。でもほら、やっぱり、花火ちゃんが好きなんでしょ。じゃあ、帰らなきゃ」
立夏がそう言うと、太陽は俯いてしまった。
「死ぬとか、あの世で待ってるとか、馬鹿なこと言わないで。本当は分かってるんでしょ? 死後の世界とかじゃない。今なんだって。今しかないんだよ。今懸命に生きて苦しんでる花火ちゃんを助けられるのは、今ここにいる太陽しかいないんだよ」
失うのが怖いから。これ以上、一緒にいれば失った時の悲しみは更に膨れ上がる。なら、もういっそ会いたくない。そう考えてしまう。
「帰らないといけないってのは、分かってるんだ。それでも、やっぱり帰りたくない。一緒にいる時間が長くなればなるほど別れた時が苦しくなる」
「太陽……夏乃さんから聞いたんだけどね。初めて花火ちゃんと会った時、倒れてた花火ちゃんを助けたんだってね。それって、心よりも先に身体が動いていたってことだよ。思うよりも先に動いていた。助けるって思う前に助けていたんだ。それなら、もう答えは出会った時から出てるようなものだよ。ねえ、戻ろうよ。戻って、みんなで打ち上げ花火を見よう。そして、ライブも成功させよう。花火ちゃんもきっと、待ってるよ」
「でも……でも、花火は、もうじき身体の半分が透明化して……手遅れになっちまう!!」
太陽は目元を両手で覆った。声も震えている。溢れ出す涙を、必死にこらえているのだ。
「ううん。もうじきじゃない。もう、身体の半分が透明化してるんだよ」
「え? だったら……」
太陽が真顔で振り返った。そして、その後、絶望感が一気に襲って来たのだろう、顔をくしゃくしゃに歪めて、再び顔を覆う。
「でも、まだ諦める必要はないでしょ。それじゃあ。葉月の時と一緒だよ。ここで諦めたら、また一生後悔するよ。諦めたらダメ。最後まで足掻こうよ。花火ちゃんは足掻いてるんだよ」
そう言われて、太陽は顔を覆っていた手を離した。これ以上ないくらいに腑抜けていた彼でも、花火が足掻いているという事実に、立夏が来てくれたという事実に、心を動かされた。
「なあ立夏。僕は、自分勝手なクソ野郎だ。いつも、自分のことしか考えてない」
黙って立夏は、太陽の言葉を聞く。
「花火に心を開いて貰っておいて、結局、何も恩返しできてない」
黙って、聞く。
「それに、いつだって逃げてばかりだ。今だって、花火もみんなも捨てて一人で人生から逃げようとした」
太陽は一度だけ言葉を詰まらせてから、言った。
「それでも……それでも帰っていいと思うか?」
「もちろん。私も花火ちゃんも清涼も、それを望んでるよ」
立夏は彼の手を掴んだまま、欄干の内側へ彼を連れ戻した。
「そっか……ありがとう。でも、やっぱり、空っぽは怖い。それでも少し、戦ってみるよ」
太陽は少し俯きながら、そう呟いてくれた。でもまだ、その瞳には生気がない。太陽はまだ、恐怖を克服しきれていなかった。どうせやるなら、完璧に太陽を救いたい。立夏はそう思ってる。何か、あと一言。あと一言で、太陽を救える気がするんだ。
そこでふと、立夏は思い出した。昔よく葉月が歌っていた歌を。
「太陽。怖いなら、私からプレゼントがあるの。ちょっとだけ、聞いて」
そして立夏は大きく息を吸った。そして、歌う。太陽の心に届けと、願いを込めて。
「終わらせる勇気があるなら続きを選ぶ恐怖にも勝てる
無くした後に残された愛しい空っぽを抱きしめて
借り物の力で構わないそこに確かな鼓動があるなら
どうせいつか終わる旅を僕と一緒に歌おう」
昔よく葉月が歌っていたBUMP OF CHICKENのHAPPY という曲だ。
無くした後に残された愛しい空っぽを抱きしめて。
この言葉は、葉月からの贈り物だ。
「どう? 昔よく、葉月が歌ってた曲だよ。覚えてるでしょ? これは、葉月からのメッセージだよ。まだ終わらせちゃダメだって、そう言ってるの。自分の力じゃなくていい。誰かに背中を押して貰ってもいい。頑張って、花火ちゃんのところへ、行ってあげて」
太陽は立夏の歌を、立夏の言葉を、葉月からの贈り物を、黙って聞いていた。
気がつくと先ほどまでとは違う種類の涙が一筋、頬を伝っていた。
頬を伝った暖かさに戸惑った。
心が満たされていくのを感じる。
確かにな、と太陽は思った。
愛しい空っぽを抱きしめて――太陽は今まで一度だって、胸の中にできた空っぽを愛しいと感じたことがなかった。抱きしめるどころか、考えないように遠くへ押しやってさえいた。
この胸の中にある空っぽには、元々は愛しい人がつまっていたはずなんだ。だから、居なくなってもその空っぽは愛しいと。そう思ってくれと、葉月が言っている。
太陽は立夏の手を持って、笑った。今までにないくらい、暖かく、そして優しい笑みだった。
「ありがとう立夏。お陰で、頑張れる気がするよ。まだ、諦めない。花火に、生きていて欲しい。ただ、単純にそう思って行動すれば良かったんだ。気づかせてくれて、ありがとう」
花火は違う世界に行ってしまうかもしれない。でも、それでも彼女がどこかで生きて、そして笑ってくれるなら、それでいい。僕の前からいなくなっても、失ったわけではない。どこか遠い世界で、彼女が笑っているなら。そう、太陽は思った。
「ううん。全然大丈夫だよ。私は、太陽がそう言ってくれて嬉しい。花火ちゃんを、絶対に救おうね」
太陽に向かってそう言うと、嬉しいはずなのに、喉がきゅっと詰まる。
太陽を救えたはずなのに、これからみんなで打ち上げ花火を見るのに、明日のライブもあるのに、熱いものが迫り上がってくる。
「ほら、二人の時間が必要だろうから、太陽は先に帰りなよ。私はゆっくり帰るからさ。気を利かせてやってるんだぜ? ほら、行きなって」
震える喉でわざとらしく笑って、立夏は太陽の腹をこづいた。
「ごめんな、立夏。ありがとう。そうだな。僕、花火のところに行かないといけない。花火にも、みんなにも、迷惑かけて来たから、これからは、全力でやっていくよ。本当にありがとう。立夏。じゃあ、先に行くよ」
「うん! 行ってらっしゃい!」
そう言ってから、太陽は階段を駆け下りて行った。その背中を、立夏はじっと見つめている。
だんだんと視界が歪んでいく。次第に耐えきれなくなって、立夏は崩れ落ちた。
そして、大声で泣いた。泣き喚いた。
「やっぱり……やっぱり……好きだから、悲しいよお……」
止めどなく溢れる涙を拭いながら、立夏は叫んだ。
そして、涙を流したまま、ゆっくりと、階段を登っていく。一段一段踏みしめるように、しっかりと登っていく。
階段を登り終えて、道路に出た時だ。
道路の端に人影があった。
そちらの方を向いて見ると、そこには清涼が立っていた。
彼は「よっ」と右手を上げると、立夏に近づいて行く。
「その様子だと、やっぱり振られたようなもんか」
立夏の腫れぼったい瞳を見て、清涼は全てを悟った。
「でも、太陽は救えたんだろ?」
清涼が聞くと、立夏は「うん」と頷く。
「でも、やっぱり、ちょっと寂しいよ」
そう言ってから立夏は清涼の胸で泣いた。
立夏の震えた声を聞いて、清涼の胸はチクチクと痛む。自分は本当に彼女を救えたのかと、考える。
多少なりとも、立夏を傷つけてしまった。その代償はしっかりと償わなくてはならない。
「そうかあ。寂しいよな。その気持ち、痛いほど分かるぜ」
清涼は泣きじゃくる立夏の頭を抱いた。
「なんでよ。清涼には私の気持ちなんて分からないよ」
軽々しく分かるって言われた時の太陽の気持ちはきっとこうだったのかな、なんて考えながら、立夏は返した。
「いや、分かる。俺はお前が好きだからな」
清涼は力強く言った。胸の中で泣く立夏を抱きしめながら、力強く、宣言した。
立夏の傷は、立夏のものだ。だから、自分も傷付いて、同じ痛みを知りたいと思った。
「え? それ、本当?」
呆気に取られた立夏は清涼を見上げた。
「ああ、本当だ」
清涼は頬を赤らめて、視線を泳がせている。
「まあ、俺も振られてるようなもんだ。お互いに、傷の舐め合いでもしようぜ」
「清涼もバカだね……私と一緒だ」
「あはははっ、俺もそう思う」
二人並んで歩きながら、立夏と清涼はゆっくりと、太陽の家を目指して歩く。
「ありがとね清涼。私に太陽を救わせてくれて。なんだか私、スッキリしたよ。太陽を救えて良かった」
泣き笑いのまま、立夏が言った。
「そうか。そう言ってもらえると、俺も救われるよ」
その言葉に、清涼は救われた。自分の選択は、間違ってはいなかったのだと。