「じゃあ君達しっかりやっとけよー!!」

 手を振りながら、やたらと元気な様子で姉さんは出勤して行った。

 対する僕はというと、青井花火と何を話せばいいのかも分からない。

「まあ、ゆっくりしてよ。座っていいからさ」

 顔を洗いに行っていた青井花火は僕が声をかけるまで気を使ってずっと立っていた。

「分かりました」

 僕はゴザの上に腰を下ろしていて、食卓とは別にあるちゃぶ台の上に乗った桃を食べている。青井花火が洗顔している間に剥いておいた。

「失礼します」と言ってから彼女は僕の向かいに座った。

「それ、食べていいよ」

 体重を後ろに預けて、視線を窓枠に取り付けられている風鈴に向けた。彼女に視線を向けたくなかった。

「分かりました。では、いただきます」

 彼女はそう言ってしばらくの間桃を味わって食べていた。

「あの……」 

 ちょっとした静寂があったのち、もじもじしながら青井花火が口を開く。

「私の透化病、透明になってるところ、見ました?」 

 俯きながら、若干頬を赤らめる。

「まあ、一応見ちゃったかな。そりゃまあ最初は驚いたよ」 

 彼女のすらっとした細い身体が脳裏をよぎったが、慌てて振り払う。彼女の方をちらりと見ると、彼女は俯いたままプルプルと震えていた。

「ああ……ああああああ!!! やっぱり見ちゃったんですね!」

 みるみるうちに、彼女の顔が真っ赤に染まり上がって行く。そして、叫びながら胸の前で腕をクロスさせて背中を丸めた後、ちらりと上目遣いでこちらを見てきた。

 彼女のその動作で僕は自分の選択の間違いに気がついた。

「待って! それは誤解だよ! あれは姉さんが無理やりやったんだ!」

 僕は必死で身振り手振りを使って訴えるも、彼女は耳まで真っ赤になっていて、とても聞いてくれるような様子ではない。

「でも見たものは見たんですよね!? おんなじことですよ!!」

 そのままあーだこーだと話しているうちに、青井花火はどうやら僕とお喋りすることに慣れたらしい。それは僕も同じで、ある程度は彼女と話せるようになっていた。それはやはり彼女が葉月と似ているというのが大きいのだろう。

 結局のところ、『助けるためには仕方ありませんよね。ありがとうございます』で落ち着いた。

「私、人とどう接していいのかあんまり分からないんですよ。人とコミニュケーションを取るのが本当に苦手で……」

 爪楊枝で刺した桃をかじりながら、彼女はそう呟いた。彼女が何度か見せている瞳の奥に隠れた暗闇が、その時ちらりと顔を覗かせる。

「気にしないで。それは僕も同じだから」

 正直に言って、僕はこの状況が怖い。僕は今、少しだけ青井花火と会話するのが楽しいと感じている。それは姉さんが言っていたように心を開きかけている証拠なんだろう。

 だけど、このまま仲良くなってしまうのが怖い。そう思って、心のどこかで一線を引いている。これ以上親しくなってはいけないと、僕の中の空っぽが叫んでいた。

 楽しいと思えば思っただけ、失った時の悲しみはより一層深みを増すから。

 後悔しないために、あの日の後悔を晴らすために、傷つけないために、傷つかないために、僕は青井花火を助けるべきなんだろう。それが、過去を乗り越えるための唯一の方法だと思う。だが、それを乗り越えるためには失うかもしれないリスクも背負わなければならない。

 彼女に必要な感情は『喜び』。喜びを与えるためには親しくなることは絶対に必要な条件だ。

 僕にはまだ、それを乗り越えるための勇気が足りていない。

「姉さんがどこかに出かけろって言ってたけど、どこに行こうか」

「そうですね。私、この街を少し散策してみたいです。ここに住まわせてもらうのに、何もできないというのは良くないです。どこに何があるか。知っておきたいです」

「分かった。でも、体調は大丈夫なの?」

「はい。今は落ち着いていますから、発作さえ起きなければ、なんとか普通の暮らしはできます」

「そっか。じゃあ、体調が優れない時はすぐに教えてね。まずはここら辺に慣れるためにも軽く散歩でもしてみようか」

 それぞれ出かける準備を済ませてから、僕達は外に出た。肌を突き刺すような強い日差しに、僕は瞳を細める。

 青井花火はこれまた丈の長いジーパンを履いていて、薄いカーディガンを羽織っていた。透過病が見えないように、肌の露出が少ない服を選んでいるらしい。

 外に出て早々、彼女は目の前にある駄菓子屋に興味を示した。

「行ってみる?」

「はい! 行きたいです! 私、駄菓子屋に行ったことがないんです。一度でいいから行ってみたかったんですよ」

 嬉しそうに笑う彼女と、葉月が重なって見えた。そう思ってしまうと、少しだけ胸が痛む。

「どうしました?」

「いや、なんでもないよ。それより早く駄菓子屋に行ってみよう」

 僕達はそのまま駄菓子屋の中に入った。最近はほとんど来ていなかったが、昔はよくお世話になった場所だ。

 右を見ても左を見ても、いたるところに駄菓子が詰め込まれていた。壁には色落ちした古いポスターが貼ってある。灯りも光の弱い豆電球のみで、昼間だというのに薄暗い。

 レジに座っているおばあちゃんも随分と老け込んでしまったな。

 店内にはとても懐かしい音楽が流れていた。

 音楽というものはとてつもない力を持っているなと、その曲を聴いて痛いくらいに感じる。過去によく聞いていた音楽を久しぶりに聞くと、まるで人生のサウンドトラックみたいに、その時の情景を昨日のことのように思い出すことができる。

 昔、どういうわけか葉月はここに来て音楽にハマった。駄菓子屋に来て音楽にハマるところが、本当に葉月らしい。彼女につられる用にして音楽を始めた僕達は、両親達の前で楽器を演奏する真似をしてバンドごっこなんかをやった。

 僕と葉月と清涼と立夏。この四人で歌った思い出は今でも鮮明に覚えている。僕の両親も、とても笑顔だった。

 そんな思い出が、曲とともに脳内に流れてくる。

 幸せを感じると同時に、もうその幸せは戻ってこないのだと、二度と来ないのだと、悲しいくらいに現実を突きつけられて、胸が苦しくなった。

「ねえこれを見てください! これはいったいなんですか?」

 少しだけ感傷に浸っていたら、青井花火の元気な声が聞こえて来た。

 さっきまで駄菓子を眺めて一つ一つに「うおー」だの「うひゃー」だのと感銘を受けていた彼女だったが、一番お気に召したのはどうやら十円ゲームのようだ。

 左右に三つずつ計六つのピンが付いている。カーレースと呼ばれているそのゲームは、中に入れた十円玉を何度かピンで弾いて目的の場所まで飛ばすゲームだ。クリアすると景品として金券が出てくるんだが、僕はこういうゲームが苦手であまり成功させた試しがない。十円玉を弾く力加減が分からないんだ。

「これは十円を何回か弾き飛ばして、目的の場所に入れるゲームだよ。やってみる?」

 僕が機械に十円を入れようとすると、彼女が慌ててそれを止めてきた。

「いや大丈夫です! 私も一応お金持ってきているので、これ以上の迷惑はかけられません」

「十円くらい気にしなくていいのに。それにこっちの世界と同じお金なの? 違ったら使えないよ」

「正直分かりませんが、比較的私の世界と太陽さんの世界の分岐が近ければ、同じお金という可能性もあります」

 そう言って彼女は財布の中身を見せてきた。

 全く知らないお金だった。

「うわ凄い。ぜんっぜん知らない人だ」

「え、どうしましょう」

「十円くらい気にしないでよ。これ、使って」

 そう言って僕は財布にあるだけの十円玉を差し出した。

「いえ、受け取れませんって」

「いいんだよ。たったの数十円くらい」

 彼女としばらく押し問答をして、結局彼女は僕の十円を受け取った。そしてカーレースの中に十円玉を入れた。

 ガチャンという音と共に、十円が機械の中へ入る。レバーを引いて、十円玉を弾き飛ばした。十円玉は軽々と向かい側に飛んでいった。

「わ! これ、面白いですね! 次はこっちのレバーを引いてここに飛ばせばいいんですか?」

 彼女は左のレバーに手をかけている。

「そうだね。次はここを狙って、その次はそっちに飛ばすんだ」

 僕は指をさして狙うべき場所を教える。

「分かりました。やってみますね」

 初めこそ順調に行っていたものの、一番難しいところで力んでしまい、十円玉はあらぬ方向に飛んでいき、下へと落ちていった。

「あちゃー。これは失敗だね」

「なんだか悔しいですね」

 彼女はムッとした表情になってまた十円玉を機械に入れる。そして、もう一度失敗した。

「ぐぅ……もう一回です」

 また失敗。次にも失敗。さらに失敗と、何回やっても毎回同じ場所で失敗している。

「ぐううううう。悔しいですね……」

 頭を抱えて本気で悔しがる青井花火の姿を見て、僕は微笑ましい気持ちになった。この子は何にでも本気になれる子なのかもしれない。そういうところも、とても葉月に似ていた。

 そんな彼女を見ていて、ある出来事を思い出した。

 あの日の僕も、今の彼女のように中々カーレースがクリアできずに悔しい思いをしていた。

 そんな時だ。隣で見ていた葉月が僕に優しく教えてくれた。

『太陽くんはここでレバーを引きすぎなんだよ。もうちょい、もうちょっとだけ力を抜いて弾いてみなよ』

 レバーを引く僕の手に、葉月の手が重ねられる。

『えっとね。ここら辺だよ。この辺りでレバーを離すと、ちょうどいいんだよ』

 彼女が調節してくれたままに十円玉を弾く。

 その時初めて、僕の十円玉はゴールへと吸い込まれた。

 ガチャンという音と共に、金券が落ちてくる。

『やった! やったよ!』

『良かったね。太陽くん!』

 落ちてきたのは一番高い百円分の金券だ。駄菓子屋での百円というのは凄い大金で、当時あまりお金がなかった僕としてはとても嬉しかった。

 その百円を葉月と半分こにして、何の駄菓子だったかは忘れてしまったが、お菓子を食べた思い出がある。

 今、目の前で青井花火があの日の僕と同じ場所でつまずいている。なんとなく、もう、気が付いた時には動いていた。

「ここ、ちょっとレバー引きすぎだと思うんだ。もうちょい、もうちょっとだけ力を抜いて弾いてみて」

 勇気を振り絞って、彼女の手の甲に手のひらを重ねる。

 「わっ」と一瞬だけ青井花火が声を漏らした。だけどそれには気が付かないフリをして、僕はレバーの位置を調節する。あの時の葉月の手のひらを思い出しながら、レバーの位置を合わせていく。

 ドキドキと心臓が暴れていた。女の子の手に触れている。しかも、葉月を思い出しながら、あの時と同じシチュエーションでだ。

「わ、分かりました。このくらいですかね?」

「そう、そのくらいだよ」

 僕のアドバイス通りに、彼女はレバーを引く力を緩める。そして、レバーから手を離した。

「うおお! やった! やりましたよ! 入りました!」

 十円玉は、あの日と同じ軌道を描いてゴールへと吸い込まれていった。

 子犬のようにはしゃぐ青井花火が僕の方に手を出してきた。その手に、僕は柄にもなくハイタッチをしてしまった。

 やってから少しはしゃぎすぎたなと若干後悔する。

 目の前を見ると、青井花火が膝に顔を埋めて頬を緩めていた。

「ふふふ。私、今凄く嬉しいです。こんな風に誰かとハイタッチなんてしたことありませんでしたから」

 そんな彼女の笑顔を見ていて、なんだかこそばゆい気持ちになる。

 あんなに人と関わり合いたくなかったというのに、朝はあんなに話せなかったというのに、今はなんだか悪い気はしない。その気持ちが、たまらなく怖かった。

 彼女が当てた金券は最高金額の百円だった。あの日のように、青井花火は僕にその半分を譲ってくれた。

 僕は青井花火に好きな駄菓子を五十円分選んでもらいそれと同じ物を食べた。

「見てください! 私のベロ、ちゃんと紫色になってますか?」

 駄菓子屋の前にあるベンチに腰掛けて、彼女はんべーっと舌を出して見せてきた。食べると舌の色が変わるというガムに興味を示した青井花火が、それを僕に見せている。

「ちゃんと色変わってるよ。もう真っ青だ。ほら、僕のもオレンジになってるでしょ」

「うおー。確かに変わってますね。私のもこんな感じってことですか」

 彼女は僕の舌を興味深そうに眺めている。そして、僕の家の方に視線を向ける。

「ところで、私この世界のことよく分からないんですけど、あれって何をしているんですか?」

 そう言われて、僕は彼女の視線の先にいる人に、やっと気がついた。

 彼らは二人組で、僕の家の前で何かをしているようだった。その二人組は男女で、女の方が僕の家のインターホンを押そうとしていたが、押す直前でやめる。

「ねえ、どうやって誘えばいいかな?」

 聞きながら、女は隣にいた男の方に顔を向ける。その横顔を見て、僕の心臓はまるでバネに吹き飛ばされたかのように飛び跳ねた。

 後ろ姿が似ていたので、なんとなく予想はついていたものの、その衝撃は計り知れない。

 そこにいたのは、僕の元幼馴染、打水立夏と長月清涼だ。

「そんなこと言われてもな。普通にだ。普通に話すのと同じ感じで『葉月のお墓参り行かない?』でいいんじゃないか?」

「そんなこと言ったって緊張して普通が思い出せないんだって。あー……ほんとに緊張する。シミュレーションしようかな」

 胸に手を当てて、立夏は深呼吸をしていた。そんな立夏の様子に呆れた清涼が彼女の前にずいっと身体を出す。

「そんなに緊張するなら、俺が押すよ」

「あー! いいの! いいの! 私が押すって決めてるんだから」

 そんな彼を立夏は手をぶんぶんと振って懸命に止める。

「あのー……やはりあの人達は太陽さんの家に用があるんじゃないんでしょうか? 放っておいていいんですか?」

 青井花火に声をかけられてハッとした。彼らに意識を持っていかれていて、彼女に返事をしていなかった。

「あ、ごめんごめん。えーっとね」

 僕は少しだけ考える素振りを見せる。本当はもう言うことは決まっているが、一応悩むふりをするんだ。

「あいつらとは、あんまり顔を合わせたくないんだ」

 ここで彼らと青井花火を合わせることは躊躇われたし、何より僕が彼らと会いたくない。気を抜くと、すぐに心を許してしまいそうだから。

 僕がそう呟いた時、立夏はプルプルと震える指でインターホンを押そうとしていた。しかし、いざ指がベルに触れるというところで「あーもう! やっぱり緊張してできないよー!」と叫びながら頭を抱えて僕の家に背を向けた。

 その時に、がっつり目があってしまった。それはもう、誤魔化しが効かないくらいに。

「あっ」

「あっ」

 一瞬の静寂のあと、ボッという音が最適なくらいに立夏の顔が耳まで真っ赤に染まり上がった。

「ちょ、おい立夏、どうした?」

 清涼が立夏に声をかけ、視線を僕の方へと向ける。

「太陽……」

 ポツリと溢れた清涼の声が、夏の快晴の下、静かに響いた。