彼女の言葉に、視線をコンソールの載った白い机に戻した。ベージュ色の内線電話の赤いランプが点滅している。音はほとんどしない。スピーカーが壊れかけているのだ。ぷつぷつと微かな電子音が空調の風の音にまぎれて、とぎれとぎれにかろうじて存在していた。僕はふいにあの日の地面で羽を広げて震える蝉の様子を思い出す。渡り廊下のそばの校舎の片隅、僕達の目の前で常緑樹から転げ落ちて、もがきながら苦しげに最後の夏の歌を歌おうとするアブラゼミ。でも、その鳴き声はじっ、じっ、と断末魔の呼吸のようで、とても歌とは言えない代物だった。加藤杏は、その蝉をしばらく見つめた後、黙って踏み潰した。そして、何も言わない僕に彼女は「この子、最後までキレイだったよね」と微笑した。

「出ないんですか?」

 いつの間にか真横に立っていた藤原が、僕の顔をのぞき込む。僕は思考を強制的に十年前から現代へと引き戻される。

「僕は赤メッセージチェックしてるから、代わりに出て」
「嫌です。あたし電話嫌いなんです」
「きっと工場からの連絡だよ。現場の検収システムのテスト結果。聞かないと、僕達ずっと帰れないよ」
「電話に出るくらいなら、ここで緒方さんと一夜を共にします。心の準備は出来てます」
「うちの人事は何で君を採ったんだ」

 僕は藤原との問答を諦めると、受話器を取った。案の定、生産ラインの上長からの電話だった。彼は疲れた声で、すべてのデータの検索と更新が無事に出来たことを僕に教えてくれた。僕は「お疲れ様です。ありがとうございました」と言って電話を切った。胸をなで下ろす。何とか夜勤のライン開始までにはシステムは立ち上がった。これで僕は、来週の月曜日の朝まで自由だ。

「どうだったんですか?」
「問題なし。お疲れ。帰っていいよ。僕も、もう帰る」
「あたし着替えて来ますから、会社の出口で待っててくれますか?」
「待つ理由がない」
「晩ご飯一緒に食べて帰りましょうよ。あ、何ならちょっと呑みます? 緒方さんのお勧めのお店に連れてってくださいよ」
「僕のお勧めは、部屋から五分のセブンイレブンだ。お疲れ」