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「友達になってよ」

 今、目の前にいる女の子が、渡り廊下で僕に確かにそう言った。ここは三日前、僕が彼女――加藤杏に教科書を手渡した場所だ。加藤は汗ばんだ手で僕の手をぎゅっと握ったまま、再度念を押すように「私の友達になってよ、緒方」とはっきりとした口調で言葉を紡いだ。もう疑いようがない。聞き違いじゃ無い。信じられない。僕の足は勝手に止まり、膝が、がくがくと震え出す。心臓がばくばく鳴っている。夏の熱気とは関係なしに僕の体温が上昇する。何故? という言葉が頭にいくつも浮かび上がる。

 何故、君が僕と友達になりたいのか分からない。

 何故、そんな風に無防備に心情を吐露できるのか分からない。

 何故、僕がすぐに彼女の手を振り払って断れないのか分からない。

 何故、何故。何故。

 僕は、僕と彼女の両方がまったく理解できず、激しく混乱した。今までに味わったことのない感情が、嬉しさと怖さと好意と嫌悪がごちゃごちゃになった、言葉に出来ない激情が僕を襲い、僕の大切な心の殻を、木っ端みじんに粉砕した。僕は激しく何度も咳き込み、彼女の手を握ったまま、その場に無様に両膝を折って、嘔吐した。胃が拳くらいの大きさに収縮して痛い。僕は、涙ぐみ、同級生の女の子の前で、みっともなく消化されかかった朝食のトーストや目玉焼きをげー、げー吐いた。胃液と嘔吐物が渡り廊下に広がり嫌な匂いが辺りに広がる。

 なのに、加藤は僕の手を握ったまま、何も言わず自身もその場に座り込むと、僕の背中をさすってくれた。僕の中で、またひとつ何故が浮かぶ。

「どうして、そんなに優しいんだ」

 僕は胃の中を空っぽにしてしまうと、唾液や胃液がついた汚らしい顔のまま、彼女を見た。

「だって、友達じゃん」 

 彼女は唇を微かに上げて微笑み、答えた。

「加藤は目の前で、ゲロ吐いてる男見て、引かないのか?」
「引かないよ。誰だって吐きたくなる時はあるよ。緒方、熱中症っぽい?」
「違う、吐いたのは暑いからじゃない」
「持病持ちとか?」
「そうだね、普通の人とは違うという意味では持病かもしれない」
「何の病気か訊いていい?」
「ダメだ。言わない。言いたくない」
「何かを好きになると、あるいは好意を向けられると、それを壊したくなる破壊衝動。幸せ破壊症候群(ハッピー・ブレイク・シンドローム)