あたしは、あの夜、楽園と引き換えに加藤杏を完全に壊してしまったのだ。

 引き分けだ。



「――お嬢様、着きましたが」

 直美さんの無機質な声に、あたしの思考は十年前から現在へと引き戻された。ああ、そうだ。あたしは今度こそ加藤杏に勝つために、今日、ここへ来たのだ。あたしはバッグを持ってベンツから降りて、緒方透の住むアパートを見上げる。

「ちっちゃ。あの人やっぱビンボーだね」あたしは思わず本音を口にした。
「お嬢様、お帰りはいつのご予定で?」ガラス窓を下ろした直美さんがハンドルを持ったままあたしに尋ねた。
「は? そんなの分かんないし。男女のことだよ? 流れ次第だよ。流れ」
「しかし、お迎えの時間をある程度は」
「迎えなんていらない。もうあなたの今日の仕事は終わり。お父さんとデートでもセックスでもお好きに」
「くれぐれも無茶はなさらないでください。ここは法治国家の日本なのです。お嬢様の楽園ではありません」
「五月蠅いよ、帰れ」

 あたしは直美さんの方を見もせずに、カンカンとブーツの底で狭い階段を踏みしめて二階に上がる。ジャガーの走り去る音を背に、階段を上がりきると目の前に開放廊下に出た。第一印象はとにかく狭い。人一人通るのがやっとのスペースなのに、全部の部屋の前にほぼ等間隔で洗濯機が並んでいた。それも水垢まみれのオンボロなのばかりだ。近づくのも嫌だがしょうがなくあたしは、なるべく息をしないように右手で鼻と口を押さえて、緒方透の部屋の前に行った。緒方透の部屋の前にだけは洗濯機はなかった。コインランドリー派なのか。あたしはそんなことを考えながら、インターホンを連打した。今、時刻は七時半を少し回ったところ。昨日、深残をした彼は絶対にまだ寝ているはずだ。居てくれればそれでいい。無理矢理押しかけて、後はいけるところまで――。

 眠たそうな声とともに、扉のノブが回り、開いた。

「――誰? 宅配?」

 あたしは、その人物を見て、手に持ったバッグを廊下に落としてしまう。

 素肌に白いワイシャツだけを羽織って出てきた女――加藤杏は、けだるそうな表情を崩さないまま、

「あ、久しぶりだね、皐」

 あたしの顔を見て微かに笑ったのだった。