「あっちか!」

 足場の悪い森の中を自分でも驚くくらいの速度で駆け抜ける。
 前世の俺であったら、とっくに息切れして座り込んでいたであろう距離を全力疾走しているというのに不思議と少しの疲労も感じない。
 どれだけでも野山を駆けずり回って要られた子供の頃のようだ。

 こっちの世界に来る時に女神様が俺を一番動ける年齢に再構築してくれたおかげだろうか。
 それにしても俺の記憶にある限りこんなに走れた時代なんてなかったと思うのだが。
 もしかしてオマケで体強化とかもしてくれたとか?
 その割に来たばかりの時には畑を軽く耕しただけでヘトヘトになってたんだが、謎すぎる。

「見えた! あそこだ」

 森の中に駆け入って二百メートルくらい進んだだろうか。
 ときおり聞こえる少女の悲鳴を頼りに俺はその場所にたどり着いた。

「キャアアアアアアッ! 寄らないでっ!! ファイヤーボールッッ!」

 木々の先に見えた空間に勢いのままに飛び出した瞬間だった。
 耳をつんざくようなそんな悲鳴が聞こえたかと思うと、燃え盛る炎の玉が突然俺に向かって飛んできた。

「うわっ」

 とっさにに飛んで避けると、その俺の横をそれが通り過ぎる。

 ドンッ。
 バキバキバキッ。

 そして後ろにあった大木にぶち当たって爆散し、木の幹を真っ二つにへし折った。
 もしかしてさっき聞こえた爆発音の正体はこれか?

「ちょっ、おまっ。何するんだ突然! 危ないだろうが!」

 森の中のオアシスとでも言えばよいのか。
 そこだけポッカリと開けた空間の中央には、直径二十メートルほどの美しい湖。
 その畔に俺が探していた目的の少女が俺の方に両手の平を向けた格好で呆然と立っていた。

 たしかさっきこの娘の声で『ファイヤーボール』って聞こえた気がする。
 だとするとまさか。

「魔法……か?」

 その時俺は気がついた。
 飛び込んだその広場。
 さっき俺がいた場所の近くに何か黒い巨大なものが倒れていた。

「あっ、あなたがいきなり飛び出してきたから!」
「いきなりって、助けに来てやったのにそのいい方はないだろうが」
「だって、魔物を倒さないと殺されちゃうと思って」
「俺は魔物じゃないぞ! というか狙い思いっきりハズレてるじゃないか」

 俺は彼女が本来狙ったはずのその黒い物体を指さしながら言い返した。

 その黒い物体、大きさは約二メートルほど。
 体中黒い毛に覆われたそれは一見大きな猫のように思える。

「猫というより豹かな。それにしても……」

 ピクリともしない所を見ると既に息絶えているのは間違いないだろう。
 
「危ないっ! 逃げてっ!」
「えっ」

 少女の切羽つまった声に振り返ろうとした目の端。
 今まで微動だにしなかった黒い死体が動くのが見えた。

「っっっ!?」

 慌てて手に握っていたガーデンフォークを持ち上げる。
 と同時。
 ガツンと何かがぶつかる音がしたかと思うと、衝撃がガーデンフォークを握っていた両手を襲う。

「っ……ヤバッ」

 死んだふりをして俺が近づくのを待っていたのか。
 それとも一時的に気絶していただけなのか。
 どちらかはわからない。

 しかし確実にわかるのは、眼の前に立ち上がった豹型の巨獣の爪がもう少しで届くところだったということと。

 ギリッ。

 俺は手首をひねるように回し、ガーデンフォークの爪に引っ掛けた爪を巻き込むようにその巨体を――。

 ぽいっ。

 森の奥へ投げ飛ばした。

「ええええええええええええっ」
「ありゃ、思ったより軽いな」

 俺の後ろで少女が驚愕に満ちた声を上げる。

「だって今の……ダークタイガーよ! 大型魔物ですよ!」

 ダークタイガー?
 もしかして豹じゃなくて虎だったのか、あの黒いの。
 ネコ科の大型動物ってあまり区別つかないんだよな。
 真っ黒で縞模様もなかったし。
 それよりも、今この子気になることを言ってたな。

「えっと、ちょっといいかな」

 俺はガーデンフォークを肩に背負って振り返ると、少女を安心させるように出来うる限りの優しい声を心がけつつ問いかける。

「今、魔物って言った?」
「はい、先程の魔物はダークタイガーといって――」

 マジかぁ。
 本当にこっちの世界って魔物とかいるんだ。
 たしかに女神様もそう言ってたけど、家からこんなに近い所でも出没するんじゃ危険すぎる。

 でも、さっきの魔獣は見かけと違って簡単に払いのけることができたわけで。
 もしかしたらここはRPGでいうところの初期村くらいの位置なのかも。
 いくらなんでもスローライフするのに強敵が跋扈するような土地を女神様が選ぶとは思えないし。

 そう考えると図体はデカかったけど、ダークタイガーってスライム程度って考えたらいいのかな。
 見かけの割に体重も普通の猫くらいしかなかった。
 まさかあんなに飛んでいくとは思わなかったが。

「――なのよ。それをあんなにいともたやすく投げ飛ばすなんて信じられない……」

 ガサガサッ。

 少女の話を上の空で聞き流していると、さっきダークタイガーを投げ飛ばした方向からなにかがやって来る音がした。
 投げ飛ばしただけで倒せたとは思ってなかったけど、思ったより戻ってくるのが遅かったな。

「さっきのダークタイガーが戻ってきたみたいだ」
「ひいっ」

 異世界生活三日目。
 その日俺は、生まれて初めて魔物との本格的な戦闘を経験することとなった。