角を曲がって町医者の屋敷へ駆け込んだ新久郎は奥へ向かって声をかけた。
「先生、洪庵先生!」
「あらまあ」と、奥方様が顔を出す。「小田崎様のひょろ……、若様ではありませんか」
「先生はいらっしゃいますか」
「その子、どうかなさったのですか」
「怪我をしているようで、血を流しております」と、新久郎は上がり框へ少年を下ろした。
「それは大変」と、奥方様がはだけた少年の着物を整えてやる。「あら……」
 と、急に小声になって『少年』にささやく。
「あなた、『月の物』は初めて?」
 首をかしげる『少女』の肩を優しく抱きよせる。
「おなかは痛くない?」
 少女は頬を染めて首を振る。
「そう。心配しなくても大丈夫ですからね」
 と、そこへ奥から洪庵先生が姿を現した。
「なんじゃ、どうした。小田崎の坊ちゃんか」
「先生、わたくしもすでに元服いたしました。坊ちゃんはやめてください。新久郎規正(のりまさ)という気恥ずかしくも立派な名前もございます」
「で、また転んですりむいたか?」
「そのくらいのことならツバでもつけて放っておきます。わたくしではありません。この『少年』が血を流しているものですから」
「なんと、それは大怪我じゃな」と、洪庵は奥方様に抱かれた『少女』のそばにかがもうとした。
 すると、奥方様は何やら目配せをして近寄らせようとしない。
「なんじゃ、どうした?」
 なおも手を出そうとする洪庵を奥方様は鬼の形相でにらみつけた。
「あなた!」
 そこでようやく医者は気づいたようで、慌てて立ち上がると、新久郎に向かって咳払いをした。
「ウホン! これ、新久郎。おぬし、講義があるのではないのか?」
「あ、しまった!」と、新久郎は自分の額をたたいた。
「ほれ、早く行くのじゃ。この子のことは心配せんで、この洪庵に任せるが良い」
「大丈夫でございますか? 手当が済めば私が家まで連れて行こうかと思いますが」
「良いのじゃ。心配はない。なにしろわしは名医だからな」
 奥方様も横から笑顔を見せる。
「新久郎様、わたくしどもが送り届けますから。どうか」
「そうですか。では、先生、よろしくお願いいたします」
 奥方様の笑顔が腑に落ちないまま頭を下げると、新久郎は洪庵宅を飛び出して藩校へ急いだ。