やがて静かに目を開いた老師は弟子に向かって微笑みを向けた。
「新久郎」
「はい、先生」
「おぬしは答えは理解できずとも、千紗の才能を理解したであろう」
「はい、打ちのめされました」
「それで良いのだ」と、師は深くうなずいた。「そこがおぬしの出発点なのじゃ」
「はあ」
「人は才能のある他人を見てうらやみ、嫉妬する。だが、それはその相手の才能を理解できるからじゃ。我々は天の神には嫉妬せん。それはあまりにもかけ離れて理解できない存在だからだ。人は他人を見て、そこに追いつく可能性があるからこそ、現実の自分のいたらなさに打ちのめされるのだ」
 師の言葉に新久郎は強くうなずいた。
「だが、心配はいらん」と、老師は力強く声を張った。「必ずそこへ至る道はある。どれほど遅れようと、遠回りであろうと、目標を見失わなければいつか先を行く者と必ず同じ景色を見ることはできる。悲観することはない。もしかしたら、ちょうどそのときは花も満開の季節かもしれん。後から来た者の方がよく見えることもあるのだ。その時はおまえが教えてやればいい。晴れ渡る空の下で見えた風景を」
「はい、先生」と、新久郎は拳を握りしめた。
「桜を見て美しいと思うのは桜の美しさが見えるからだ。数を見てそこにある道理を理解すればそこにもまた美しさが見える。この世にはまだ見えぬものがたくさん眠っておるのだ。花を愛でることのできるおまえなら、数を愛でることもできるはずだ」
 老師は新久郎の肩に手を置いた。
「だが、それは教わるのではない。おまえ自身の目で見、心で感じるのだ。良いな」
「はい」
「若い頃、新しい算術を知った時は、わしも富士の高嶺から日の本を見渡すほどの愉悦を得たような気がしたものじゃ。おぬしも精進を重ねれば、そのような境地に達することは可能であろう」
 そして、方正斎は千紗と向き合って頭を下げた。
「数あるところに道理あり。ならば、無きものにも道理を見いだせるのが算術かもしれん。そなたに見えるのであれば、そこには数があり、道は開けるのであろう。わしはもう歳だ。そなたがいつしかたどり着くその場所を見ることはかなわぬであろう。だが、若い世代が新しい道を切り開いていくのを見るのは年寄りの快楽じゃ。良いものを見せてくれて礼を言うぞ」
 千紗もペコリと頭を下げた。
「新久郎」
「はい、先生」
「そなたはまもなく江戸へ行くことになる。千紗殿を連れていけ」
「はあ?」と、新久郎は小首をかしげた。「江戸でございますか?」
「なんじゃ。聞いておらんのか。小田崎家の跡取りは代々江戸におられる若殿様が元服なさると算術指南役として御前講義をおこなうのだ」
「なんと、私がそのような大役を!?」
「ぼんやりなどしておれんぞ、ひょろり新久郎」
「はい、精進いたします」
 新久郎は師に頭を下げると、千紗に向き直って手を取った。
「一緒に江戸へ行こう。まだ見ぬ算術へ続く道があるのなら、私はそなたに見せてやりたい。それが江戸への道ならば、私と一緒に歩もうではないか」
「はい」と、千紗も大きな手を握り返した。
 天神様の境内に蝉の声が鳴り響く。
 天高く積み上がる白い雲を見上げて二人は将来に思いをはせる。
 青い空の彼方で遠雷が鳴り響いていた。