と、そこへ元気の良い歓声とともに町の子供たちが遊びにやってきた。
年長のわんぱくそうな男の子と、赤ん坊を背負ったおとなしそうな女の子、それに近所の小さい子たちがぞろぞろとついてきたようだ。
「あ、逢い引きしてるぞ!」
わんぱく小僧に指をさされた二人は慌てて離れる。
「兄さんたち、何してる?」と、子供たちがお堂に駆け寄ってきて、新久郎の持つ書物を指さした。
「算術をしておったところだ」
「算術って足し算?」
「そうだ。おぬしらは足し算はできるか?」
「馬鹿にすんなよ」と、わんぱく小僧が鼻をこする。「九九だって言えるぜ」
「ほう、それはすごいな」
「へへん。おいらはね、大きくなったら北前船で稼ぐんだ。だから算術くらいできないと金勘定ができないだろ」
「なるほど。大きな夢があるんだな」
「そうだよ。京や大坂に行っていっぱい稼ぐんだ」
胸を張る小僧の横で、女の子がつまらなそうに首をかしげている。
「なんだよ、おまえ。どうしたんだ?」
小僧に頬をつつかれそうになって、女の子がうるさそうに顔を背ける。
「だって、お金持ちになったら、こんな田舎に帰ってこなくなるんでしょ」
「そんなことねえよ」
「江戸とか大阪には楽しいことがいっぱいあるっていつも言ってるじゃん」
「心配すんなって」と、小僧がむきになって声を張り上げる。「金持ちになったら、江戸できれいな着物とかうまいものたくさん買っておまえに持って帰ってきてやるからよ」
「そんなのでごまかされないんだから」
おとなしそうなわりに芯の強い女の子にすねられては、男の子も弱り顔だ。
「金があればまんじゅう食い放題だぞ」
「食べ物で釣ろうなんて、だまされません!」
ぷいっと背を向けて女の子が境内を出て行ってしまう。
「なんだよ、もう」と、男の子たちも後を追いかけていって、あっという間に静かになった。
やれやれ、と顔を見合わせたところで、千紗が新久郎の口元を指さした。
「ん?」
指でこすると、あんこがついていた。
どうやらさっきのぼた餅らしい。
新久郎は顔を赤らめながらペロリとなめ取った。
「ああ、まあ、私はだな……」と、新久郎が口ごもる。「べつにそなたを食べ物で釣ろうとは思っておらんぞ」
千紗がクスクスと笑い出す。
新久郎が額をかく。
「花より団子と言うが、そなたは団子より算術であろう」
「団子も好きですよ」
「お、そうか」
「まんじゅうも好きです」
「そうか、そうか」と、新久郎はうなずきながら朗らかに笑う。「それは何よりだ」
そして、いったん息を止めると、静かにつぶやいた。
「私もそなたと食べるまんじゅうは大好物だ」
「おまんじゅう、ですか?」
「算術も好きだぞ」
千紗が口をとがらせて立ち上がると、お堂から出てスタスタと歩き出す。
「おいおい、どうした」
「なんでもありません」
水たまりをわざと踏んで泥をはね散らかす。
「千紗」
呼んでも振り返らない。
新久郎が頭をかきながら立ち上がって後を追おうとすると、千紗も通りへ駆け出していく。
「おい、待て」
思ったよりも足が速い。
新久郎は脇腹を押さえながらなんとか追いつくと、後ろから千紗を抱きすくめた。
と、そのときだった。
「あ、兄さんたちまた抱き合ってるぞ」
さっきの子供たちが二人を指さしてはやし立てる。
「仲良しだ」
「ホントだ」
新久郎は慌てて千紗の手を引いてその場を離れた。
茹で蛸のような若侍に引っ張られた娘の口元は緩んでいる。
道行く人が振り返る中、二人は笑いながらどこまでも駆けていくのだった。
◇
本格的な夏を迎えたあるとき、木陰が涼しい境内でいつものように千紗が地面に図形を描いていると、藩校帰りの新久郎が姿を現した。
もう一人、老人を連れている。
「千紗殿。こちらは私の師の方正斎先生だ」
しゃがんだまま顔を上げた千紗は目を細めながらまぶしそうに二人を見た。
「ほう、これはまた見事な正五角形じゃな」
方正斎は白髪頭をかきながら地面にしゃがみ込んで千紗の描いた正五角形を指さした。
「この正五角形を隙間なくつなげてこの地面を埋め尽くすことはできるかな?」
「できません。正三角形と正方形と正六角形ならできます」
「なるほど」と、老師はニヤリと笑みを浮かべて数を唱えた。「二、三、五、七」
千紗が後を続ける。
「十一、十三、十七、十九」
「百番目は?」
「五百四十一」
ならば、と方正斎は別の数を唱えた。
「一、一、二、三」
「五、八、十三、二十一」
「六千七百六十五は?」
「二十番目」
「十八番目までの和は?」
「六千七百六十四」
ひょろりとした新久郎の上背がだんだん猫のように丸まっていく。
「先生、いったい何の話をしているのですか?」
「素の数の百番目を尋ねたのじゃ」と、方正斎は立ち上がった。
「素の数とは、一と自分だけしか割る数がない数のことですか」
「まあ、そのようなものだ」と、師は笑った。「もう一つは、前二つの数を足して次の数を導き出す法則で六千七百六十五は何番目に出てくるかという問いじゃな。ただし、この場合、最初の二項を与えられたものとしておるがな。そして、その和は二つ先の数から一を引いた物になるという性質を持つ。つまり、十八番目までの和は二十番目の六千七百六十五から一を引いた数ということだ」
新久郎はぽかんと口を開けて固まってしまった。
方正斎は立ち上がった千紗に穏やかな視線を向けた。
「そなたには見えておるようじゃな」
少女はコクリとうなずいた。
「先生」と、新久郎が老師をまっすぐに見つめた。「千紗殿はやはり天才ですか」
老師はそっと目を閉じると、長く息を吐き、腕組みをした。
新久郎が固唾をのんで師の表情を見つめている。
「そなたに問いたいことがある」と、方正斎は目を見開いて千紗に尋ねた。「二乗して負の九となる数の解をなんとする?」
「三ではありませんか」と、新久郎が横から口を挟んだ。
師に苦笑されて新久郎は引っ込んだ。
「何と言えばいいのかは分かりませんが」と、千紗は方正斎をまっすぐに見た。「あります」
迷いのない瞳に気圧されたように、「うむ」と、うなった老師は再び目を閉じ、しばしそのまま黙り込んでしまった。
あります、とはどういうことなのか。
なぜ数を答えなかったのか。
新久郎には千紗の考えていることが理解できなかった。
三のような数ではない、何かなのか。
分からない。
新久郎は老師の横顔を眺めて次の言葉を待っていた。
「やはりおぬしには見えるのであるな」と、方正斎は目を細めて千紗にうなずいてみせた。「良い目をしておるな」
新久郎は老師に詰め寄った。
「いったいどういうことですか、先生」
「平方の根を求めることは天元術(方程式)を用いればよい。ただし、そのとき、解が二つ生じてしまう。双方が正であれば良しとされるが、負であれば病題(答えのない悪い問題)とされる」
「はい」
「逆に、正であれ負であれ、二乗した数は常に正となるのが道理」
「はい。負の数を掛け合わせれば正となります」
「だが、わしは二乗して負になる数があると常々考えておるのだ」
「しかし、それでは道理に合わぬではありませんか」
「さよう」と、老師が顎をなでる。「だが、まだ見ぬ道理もあるのやもしれん」
そうですか、と新久郎は千紗に目を向けた。
口をまっすぐに結んで方正斎を見上げていた千紗は地面に描かれた円に内接する正五角形を指さした。
「むむっ」とうなると、方正斎が腕組みをして円周上にある五つの点を見つめる。「おお、そなたにはこれが解に見えるのだな。それでこの図形を描くのが好きなのか」
「はい」と、極楽から舞い降りた天女のような声で千紗はうなずいた。
「なるほど。これがそうなのか」と、老師は満足そうに何度もうなずいている。「わしにも正確には分からぬことだが、こうして見ると、そこに何かがあるのは分かる。いや、良い物を見せてもらった」
方正斎は愉快そうに笑う。
その横で新久郎は悟られぬように静かにため息を漏らした。
師匠にすらおぼろげにしか見えないものが千紗にははっきりと見えているのだ。
だが、彼にはただの五角形にしか見えない。
千紗はいったいどこにいるのか。
目の前にいるようで、どこか遠いところにいる。
川の向こう、海の向こう、それとも遙か山の向こうなのか。
新久郎の知らないどこか遠く、もしかしたら千紗は本当に天女なのかもしれない。
老師がつぶやく。
「江戸で学んでいた頃、わしの師匠は負の平方を提唱したが異端とされてな。師の師匠から破門されてもなお独学で追究しようとなされたのだが、病に倒れてしまってのう。さぞ無念であったことであろう」
老師は目を閉じた。
「わしもすでに師の齢を越えてしまったが、未だに見えぬ。天元術に算木は並べどもそこにある数は見えんのだ。もどかしゅうてならん。今ではわしもこんな田舎に引っ込んでおるが、江戸や長崎の学問がどうなっておるのか見てみたいものじゃ」
やがて静かに目を開いた老師は弟子に向かって微笑みを向けた。
「新久郎」
「はい、先生」
「おぬしは答えは理解できずとも、千紗の才能を理解したであろう」
「はい、打ちのめされました」
「それで良いのだ」と、師は深くうなずいた。「そこがおぬしの出発点なのじゃ」
「はあ」
「人は才能のある他人を見てうらやみ、嫉妬する。だが、それはその相手の才能を理解できるからじゃ。我々は天の神には嫉妬せん。それはあまりにもかけ離れて理解できない存在だからだ。人は他人を見て、そこに追いつく可能性があるからこそ、現実の自分のいたらなさに打ちのめされるのだ」
師の言葉に新久郎は強くうなずいた。
「だが、心配はいらん」と、老師は力強く声を張った。「必ずそこへ至る道はある。どれほど遅れようと、遠回りであろうと、目標を見失わなければいつか先を行く者と必ず同じ景色を見ることはできる。悲観することはない。もしかしたら、ちょうどそのときは花も満開の季節かもしれん。後から来た者の方がよく見えることもあるのだ。その時はおまえが教えてやればいい。晴れ渡る空の下で見えた風景を」
「はい、先生」と、新久郎は拳を握りしめた。
「桜を見て美しいと思うのは桜の美しさが見えるからだ。数を見てそこにある道理を理解すればそこにもまた美しさが見える。この世にはまだ見えぬものがたくさん眠っておるのだ。花を愛でることのできるおまえなら、数を愛でることもできるはずだ」
老師は新久郎の肩に手を置いた。
「だが、それは教わるのではない。おまえ自身の目で見、心で感じるのだ。良いな」
「はい」
「若い頃、新しい算術を知った時は、わしも富士の高嶺から日の本を見渡すほどの愉悦を得たような気がしたものじゃ。おぬしも精進を重ねれば、そのような境地に達することは可能であろう」
そして、方正斎は千紗と向き合って頭を下げた。
「数あるところに道理あり。ならば、無きものにも道理を見いだせるのが算術かもしれん。そなたに見えるのであれば、そこには数があり、道は開けるのであろう。わしはもう歳だ。そなたがいつしかたどり着くその場所を見ることはかなわぬであろう。だが、若い世代が新しい道を切り開いていくのを見るのは年寄りの快楽じゃ。良いものを見せてくれて礼を言うぞ」
千紗もペコリと頭を下げた。
「新久郎」
「はい、先生」
「そなたはまもなく江戸へ行くことになる。千紗殿を連れていけ」
「はあ?」と、新久郎は小首をかしげた。「江戸でございますか?」
「なんじゃ。聞いておらんのか。小田崎家の跡取りは代々江戸におられる若殿様が元服なさると算術指南役として御前講義をおこなうのだ」
「なんと、私がそのような大役を!?」
「ぼんやりなどしておれんぞ、ひょろり新久郎」
「はい、精進いたします」
新久郎は師に頭を下げると、千紗に向き直って手を取った。
「一緒に江戸へ行こう。まだ見ぬ算術へ続く道があるのなら、私はそなたに見せてやりたい。それが江戸への道ならば、私と一緒に歩もうではないか」
「はい」と、千紗も大きな手を握り返した。
天神様の境内に蝉の声が鳴り響く。
天高く積み上がる白い雲を見上げて二人は将来に思いをはせる。
青い空の彼方で遠雷が鳴り響いていた。
3
夏も盛りを過ぎた頃、天神様でお祭りがあった。
千紗は祭りが好きではない。
人混みは落ち着かないし、踊りも苦手だ。
これまでは祭りの時は家に引きこもっていたのだが、今日あえて来てみたのは、他でもない新久郎に会うためだった。
とはいえ、やはり、人出が多くて正直なところ気が重い。
歓声を上げて駆け抜けていく子供達の横を、錘をつながれたような足取りで鳥居をくぐる。
音曲を奏でる者、滑稽なかぶり物をして踊る人々、餅や菓子を売る出店もあれば、小間物を並べた行商人もいる。
賑やかな人出と陽気なお囃子に乗せられてみなの気分が浮ついているのに、千紗は気分が悪くなって社殿の脇にしゃがみこんでしまった。
額から冷たい汗が流れ落ちる。
やっぱりよしておけば良かったか。
小さい頃に来た時もこうだったのだ。
人と同じものを見て、人と同じことをして、同じことをみんなと同時に笑う。
そんな単純なことが自分にはできない。
だから仲の良い遊び相手もいなかったし、お祭りに誘われることもなかった。
周りの人は学問とは無縁で、算術の話などできるわけもないし、むしろ、ただの変わり者と馬鹿にされていた。
そんな千紗にとって、新久郎は初めて出会った話し相手だった。
人と話すのが楽しいと思ったのは生まれて初めてだった。
算術の話をして気の合う相手がいるなんて、想像もしてみなかった。
新久郎のことを想うと、胸が高鳴る。
だがそれは、さっきのような不安な動悸とは違って、なんとも言えないむずがゆい気分なのだった。
しかし、一方で、千紗は現実を知っていた。
しょせん、武士と町人の娘。
混じり合うことのない身分。
一緒にいられるのも、あとわずかだろう。
跡取りである新久郎には武家の縁談があるだろうし、千紗は大工の棟梁の娘として、婿を取らなければならない。
新久郎は千紗の才能を認めてくれている。
だからといって、いつまでもこうしているわけにもいかないのだ。
新久郎の気持ちに嘘偽りがないことは千紗も信じている。
だからこそ、一緒に江戸へ行こうと誘われたことがかえって重荷になっていた。
それはつまり、夫婦になるということ。
だが、それは叶わぬ夢なのだ。
新久郎が誠実になろうとしてくれるほど、嘘をつかせることになる。
江戸へ行く夢を語ってくれる彼が見せる情熱が熱ければ熱いほど、千紗の胸の奥が冷えていくのだった。
――新久郎様。
心の中で名を呼ぶたびに苦しくなる。
千紗はしばらく胸を押さえたまま人混みに背を向けてうずくまっていた。
「そなた、どうした?」
聞きたかった声に、弾けるように立ち上がった。
「なんだ、どうしたのだ?」
千紗は新久郎の胸に飛び込むと、顔をこすりつけるように抱きついた。
「すまんな。待たせてしまったか」と、新久郎も千紗を包み込むように抱きしめる。
しばらく二人は社殿の陰でそのまま抱き合っていた。
最近はずっとこうだ。
算術よりも、好きなものができた。
新久郎の腕に抱かれているときだけ、千紗は自分の気持ちに正直になれる。
信じていられる。
「今日は算術をしておらなかったのか」
コクリとうなずいてまた新久郎の胸におでこを押しつけた。
「せっかくだから千紗殿も踊れば良いではないか」
「苦手です」
「実は私もだ」と、新久郎が笑いかける。「手足がおかしな方向にしか動かんし、音曲に合わせることもできん。鳥獣戯画の蛙の方がましだろうな」
新久郎の踊りが下手なのは知っている。
いつだったかの踊りは、それはひどいものだった。
千紗がようやく微笑みを浮かべる。
新久郎が簪を取り出した。
無地の円盤から二本の足が出た一番単純な形。
「どうだ。この簪には円がついておるだろう。そなたは円が好きだと思ってな」
そして、千紗の髪にそっと簪を挿した。
「どうだ、似合うぞ」
「見えません」
「おお、そうか。鏡はないし。仕方がないか」と、新久郎が千紗の顔をのぞき込んだ。「私の目には見えておる。とてもきれいだ。よく似合うぞ」
「わたくしなんかに……」
と、言いかけたとき、新久郎が千紗の顎に手をかけて上を向かせた。
「そんなことを言うな」と、新久郎はまっすぐに彼女を見つめた。「私にはちゃんと見えている。そなたは美しい」
ぱさついてゴワゴワの髪に砂で汚れた頬、つぎはぎだらけの着物。
生意気な目に、やせ細った体。
娘らしさなんかどこにもない。
どこからどう見ても美しいわけがない。
なのに新久郎は千紗を見てくれる。
「私には見える」と、新久郎がささやく。「私にだけ見えていればそれでいいんだ」
「私にも新久郎様しか見えません」
「私もだ。そなたのことしか見えん」
照れくさくて千紗は想わず視線をそらしてしまった。
でも、耳が熱くなって、額に汗も浮いてしまう。
千紗は顔を見られないように新久郎の胸に顔を押しつけた。
「どうした?」
ふと、気づくと、涙が流れていた。
大切にしてほしいのに、大切にされると不安になる。
千紗は新久郎の着物を握りしめて固くしがみついた。
離したくはない。
本当はずっとこうしていたい。
だけど、そうもしていられない。
二人は住む世界が違う。
武家の跡取りと町人の娘。
考えたくはないけど、いつかは分かれなければならない身。
だからこそ、好きになってはいけないのだ。
分かっている。
だけど、どうにもならない。
もう好きになってしまったのだから。
計算なんかできない。
どこにも答えなんかない。
だけど、こうして抱き合っている二人の姿はここにある。
そこに嘘偽りはない。
なのに答えは見つからない。
「千紗」
泣き顔を見られたくない。
「千紗」
何度呼ばれても顔を上げることができない。
「私はそなたを悲しませるようなことはしたくない」
そんなふうに言われたらよけい涙が止まらない。
「信じてくれ。悪いようにはしない。必ず、そなたを幸せにしてみせる」
肩を振るわせながら泣いている千紗に新久郎はいつまでも寄り添ってくれる。
それがまた悲しくなる。
息が苦しくなるほど新久郎の胸に顔を押しつけてみても、涙は止まらない。
祭囃子が聞こえる。
突然、新久郎が千紗の肩をつかんで腕を伸ばした。
「踊ろう」
はあ?
「お祭りなんだ。踊ろう」
「無理です」
「だからだ」と、新久郎は腕を振り上げて腰をくねらせながら手をひらひらとひねり始めた。「無理を承知でやってみろ。やってみなくちゃ、何も変わらん」
タコのようにくねくねと下手な踊りを踊る新久郎を皆が笑っている。
「ほら、そなたもやってみろ」
新久郎に手を取られて、人の輪の中へ引っ張られてしまう。
「ほれ、ほれ」と、新久郎が千紗の手をつかんだまま無理に振り上げる。
「恥ずかしいです」
「ああ、私もだ」と、新久郎が笑う。「だが、楽しいぞ」
「楽しくありません」
「じゃあ、まだ踊り足りんのだ」
新久郎は跳びはねたりくるりと回ったり、猿まねやら蛙の鳴き声まで真似をしてみせる。
まわりで踊る人々もそんな彼を見て大笑いしている。
「馬鹿みたいだろう」
――ホント、馬鹿みたい。
また涙が出てきてしまった。
でも、新久郎に合わせて千紗も腕を振り上げた。
「お、いいぞ。そうだ、そうだ」
全然楽しくないけれど。
踊るしかない。
何も変わらないけれど、踊ることしかできない。
泣き笑い悲喜こもごも、すべてを振りほどくように、千紗は涙を振りまきながら下手な踊りを踊り続けた。
◇
祭りが終わった翌日、千紗は天神様に姿を見せなかった。
たまたま何か用事でもできたのかと、新久郎は一人で算術の本を眺めてすごしていた。
次の日も来てみたが、やはり千紗はいなかった。
どうしたのかと、新久郎は大黒町の長屋を訪ねてみることにした。
柳並木がゆらりと揺らぐ川端を歩き、荷揚げ用の桟橋を通り過ぎたところが大黒町だ。
長屋の並ぶぬかるんだ狭い路地に入ると、井戸端で洗い物をしている女房連中がいた。
「大工の惣兵衛殿はどちらかな。千紗という娘がいるんだが」
「惣兵衛さんなら、あそこだよ」と、赤子を背負った女が長屋の一番奥を指す。
「そうか。ありがとう」
教えられた長屋に歩み寄って声をかけようとした時、ちょうど中から旦那が現れた。
「あ、惣兵衛殿」
名を呼ばれた相手は、ひょろりと背の高い若侍を怪訝そうに見上げて目をしばたいた。
「これは、小田崎様の若様……」
「千紗殿はおるかな」
惣兵衛は腕組みをして黙り込んだまま返事をしない。
女房連中が洗い物の手を止めてこちらを見ている。
「ちょっと、すみませんが」と、惣兵衛が川の方に目をやる。
新久郎は黙ってついていった。
橋のたもとで立ち止まると、いきなり惣兵衛が頭を下げた。
「若様、お願いですから、こんなところへは二度と来ないで下さいよ。うちの娘とも会わないでおくんなさい」
「なにゆえだ」と、尋ねる新久郎だが、理由はもちろん自分が一番よく分かっていた。
惣兵衛の返答も聞く前から分かっている。
「違いすぎるんですよ」と、惣兵衛はため息をついた。「うちの娘には似合わねえこと。御家老様の御曹司ともあればなおさらでございます」
「しかし、私は……」
「お願いでございます」と、惣兵衛が首を振る。「娘の気持ちをもてあそばねえでおくんなさい」
「惣兵衛殿、頭を上げてくだされ。私は決してそのような……」
惣兵衛は手を突き出してさえぎった。
「若様が本気なのは分かります」と、奥歯を噛みしめながら首を振る。「娘があんな女の顔を見せたのは初めてですよ。娘をそんな気持ちにさせたんですから、若様も本気なんでございましょう」
「ああ、そうだ」と、新久郎は詰め寄った。「私の心に嘘偽りはない。本気なのだ」