「……私の許嫁に、何をするつもりだ」
「なっ!?」
「…………ッ、あ、虹、治……さま……」


そこに、立っていたのは。
滝ヶ原虹治、その人だった。
ぱりっと糊をきかせていたはずの洋装は、ひどく乱れている。
必死に走ってきたのか、息が乱れていた。
いつも冷静沈着な虹治が、明らかに動揺しているのを見て、和泉はさらに涙が出てきた。


(迷惑を、かけてしまった……)


今頃、帝都で大切な用事があったはずだ。
自分があの家を抜け出したことを、何かの理由で知って、駆けてきたに違いない。

とても、優しい人だから。

「ここは唐紅家の敷地だ! なんの権限があって勝手を……」
「権限、か。そんなものは、あとでいくらでも用意する──私の……俺の許嫁を返してもらう」
「なっ!」

ツカツカと、迷いなく和泉の元に歩み寄ってくる虹治。

(ぁ……買っていただいた着物、汚してしまった……)

そんなことが、和泉の頭に浮かぶ。
力の抜けてしまった腕を、細く、けれども逞しい指が掴む。


「さぁ、帰るぞ。和泉さん」


優しく抱きかかえられて、立ち上がる。
みつ子は、大丈夫だろうか。苦しそうだった。納屋に連れて来られる前に、なんとか一弥に手持ちの金を握らせたけれど。

(あの子たち……ちゃんと、お医者を呼べたかしら……)

ぐるぐると、思考を巡らせていた──そのときだった。

「貴様──舐めるな、私は唐紅家の当主だぞ!!」
「あ……あぶない!」


赤く灼けた火箸を振り上げた菊次郎が、無防備に背を向けている虹治に、襲い掛かろうとしている。

「っ、和泉さん!」

熱い。
痛い──恐ろしい。

けれど、体が勝手に動いてしまった。
火箸が、虹治を庇った和泉の背中をうつ。百貨店で仕立てた質の良い小紋が裂けて、和泉の背中をあらわにした。

強い痛みと衝撃に、意識が遠のく。
ああ、よかった。
──よかった。虹治が、傷つかなくて。

ふつりと切れる意識のなか。

「──……アァあァッ!」

虹治の叫びが。
──龍の咆哮が聞こえた。