寒さはすっかりと過ぎ去り、春が来て、初夏の足音が聞こえてきた。

「では、明日には帰る」

季節が移ろう頃。
大和國をいにしえから守護していた龍の末裔である滝ヶ原虹治は、さまざまな祭祀や式典で多忙を極めていた。

「いってらっしゃいませ、虹治さま」
「ああ、いってくる」

虹治の背中を見送る。
今日は帝都に泊まりになるそうだ。

着流姿をみなれているから、きちりとした洋装の後ろ姿に、心臓がとくとくと高鳴る。

(お着物のときよりも、背中がずっとずっと広い気がする)

本来であれば、この時期は帝都にある屋敷に拠点を置くことが多いらしい。
だが、虹治の住まいはいまだに雑木林の古びた小屋だ。

たった一晩の彼の留守が、なんだか長いものに思える。
人の気配のない家が、寂しいなんて。
たったひとり、唐紅家の納屋で寝起きしていた頃には考えられなかった。

雑木林の向こうに消えていく、虹治と銀夜に小さく手を振る。

ふと。
郵便受けにある、一枚の葉書に気づいた。

「……こ、れは」



銀夜を伴って、帝都へ急ぐ。

雑木林は一本道だが、銀夜が提灯に灯す異能の炎──狐火により、さまざまな場所へ道をつなぐことができるのだ。

龍に仕える銀夜もまた、神狐の一族の末裔だ。

「……心配ですか?」

どこへ行くにも一張羅の黒紋付き姿の古い友人の問いに、虹治は首を傾げる。

「なにがだ」
「和泉殿ですよ。今までなら一泊していた出張も、無理に真夜中に帰ったりしてますし」
「……気のせいじゃないか?」
「素直じゃないですな、まったく」
「素直なら、今頃とっくに世界に絶望して世を儚んでる」
「それ、あなたが言うと冗談にならないですよ」

くく、と。
どちらともなく吹き出した。

ゆらゆら、提灯を揺らして歩く。
虹治は、狐火をながめながら思う。
冷え切ったあの古い家に、今は毎朝毎晩温かい飯を炊くために(かまど)に火が灯る。

「……たしかにどうしてか、歩いているだけなのに和泉さんのことが頭にチラつくな」

はは、と銀夜が肩を揺らす。

「おや、少し素直になった……ん?」
「どうした、銀夜」
「いえ……狐火が、妙に揺れてます」

銀夜の手にした提灯にともる火が揺れている。

「誰かが、雑木林を駆けている……?」



葉書には、弱々しい筆跡で「×」が刻まれていた。和泉は、震える指で葉書を掴む。

「……これ、嘘……」

差出人は、『唐紅救児院』だった。