寒さはすっかりと過ぎ去り、春が来て、初夏の足音が聞こえてきた。
「では、明日には帰る」
季節が移ろう頃。
大和國をいにしえから守護していた龍の末裔である滝ヶ原虹治は、さまざまな祭祀や式典で多忙を極めていた。
「いってらっしゃいませ、虹治さま」
「ああ、いってくる」
虹治の背中を見送る。
今日は帝都に泊まりになるそうだ。
着流姿をみなれているから、きちりとした洋装の後ろ姿に、心臓がとくとくと高鳴る。
(お着物のときよりも、背中がずっとずっと広い気がする)
本来であれば、この時期は帝都にある屋敷に拠点を置くことが多いらしい。
だが、虹治の住まいはいまだに雑木林の古びた小屋だ。
たった一晩の彼の留守が、なんだか長いものに思える。
人の気配のない家が、寂しいなんて。
たったひとり、唐紅家の納屋で寝起きしていた頃には考えられなかった。
雑木林の向こうに消えていく、虹治と銀夜に小さく手を振る。
ふと。
郵便受けにある、一枚の葉書に気づいた。
「……こ、れは」
◆
銀夜を伴って、帝都へ急ぐ。
雑木林は一本道だが、銀夜が提灯に灯す異能の炎──狐火により、さまざまな場所へ道をつなぐことができるのだ。
龍に仕える銀夜もまた、神狐の一族の末裔だ。
「……心配ですか?」
どこへ行くにも一張羅の黒紋付き姿の古い友人の問いに、虹治は首を傾げる。
「なにがだ」
「和泉殿ですよ。今までなら一泊していた出張も、無理に真夜中に帰ったりしてますし」
「……気のせいじゃないか?」
「素直じゃないですな、まったく」
「素直なら、今頃とっくに世界に絶望して世を儚んでる」
「それ、あなたが言うと冗談にならないですよ」
くく、と。
どちらともなく吹き出した。
ゆらゆら、提灯を揺らして歩く。
虹治は、狐火をながめながら思う。
冷え切ったあの古い家に、今は毎朝毎晩温かい飯を炊くために竃に火が灯る。
「……たしかにどうしてか、歩いているだけなのに和泉さんのことが頭にチラつくな」
はは、と銀夜が肩を揺らす。
「おや、少し素直になった……ん?」
「どうした、銀夜」
「いえ……狐火が、妙に揺れてます」
銀夜の手にした提灯にともる火が揺れている。
「誰かが、雑木林を駆けている……?」
◆
葉書には、弱々しい筆跡で「×」が刻まれていた。和泉は、震える指で葉書を掴む。
「……これ、嘘……」
差出人は、『唐紅救児院』だった。
「では、明日には帰る」
季節が移ろう頃。
大和國をいにしえから守護していた龍の末裔である滝ヶ原虹治は、さまざまな祭祀や式典で多忙を極めていた。
「いってらっしゃいませ、虹治さま」
「ああ、いってくる」
虹治の背中を見送る。
今日は帝都に泊まりになるそうだ。
着流姿をみなれているから、きちりとした洋装の後ろ姿に、心臓がとくとくと高鳴る。
(お着物のときよりも、背中がずっとずっと広い気がする)
本来であれば、この時期は帝都にある屋敷に拠点を置くことが多いらしい。
だが、虹治の住まいはいまだに雑木林の古びた小屋だ。
たった一晩の彼の留守が、なんだか長いものに思える。
人の気配のない家が、寂しいなんて。
たったひとり、唐紅家の納屋で寝起きしていた頃には考えられなかった。
雑木林の向こうに消えていく、虹治と銀夜に小さく手を振る。
ふと。
郵便受けにある、一枚の葉書に気づいた。
「……こ、れは」
◆
銀夜を伴って、帝都へ急ぐ。
雑木林は一本道だが、銀夜が提灯に灯す異能の炎──狐火により、さまざまな場所へ道をつなぐことができるのだ。
龍に仕える銀夜もまた、神狐の一族の末裔だ。
「……心配ですか?」
どこへ行くにも一張羅の黒紋付き姿の古い友人の問いに、虹治は首を傾げる。
「なにがだ」
「和泉殿ですよ。今までなら一泊していた出張も、無理に真夜中に帰ったりしてますし」
「……気のせいじゃないか?」
「素直じゃないですな、まったく」
「素直なら、今頃とっくに世界に絶望して世を儚んでる」
「それ、あなたが言うと冗談にならないですよ」
くく、と。
どちらともなく吹き出した。
ゆらゆら、提灯を揺らして歩く。
虹治は、狐火をながめながら思う。
冷え切ったあの古い家に、今は毎朝毎晩温かい飯を炊くために竃に火が灯る。
「……たしかにどうしてか、歩いているだけなのに和泉さんのことが頭にチラつくな」
はは、と銀夜が肩を揺らす。
「おや、少し素直になった……ん?」
「どうした、銀夜」
「いえ……狐火が、妙に揺れてます」
銀夜の手にした提灯にともる火が揺れている。
「誰かが、雑木林を駆けている……?」
◆
葉書には、弱々しい筆跡で「×」が刻まれていた。和泉は、震える指で葉書を掴む。
「……これ、嘘……」
差出人は、『唐紅救児院』だった。