(……幸い……しあわせ……)

夕食の支度をしながら、ふと考え込んでしまう。
幸せ、とはなんだろう。
自分にとって縁遠いものすぎて、考えたこともなかった。

あたたかい、幸せ。
そんなものに触れれば、今までの我が身の不幸を嘆き、自分自身を憐れむようになってしまうのではないか。
弱くなって、脆くなって、もしもまた今まで生きてきた世界に舞い戻ったときに、耐えられなくなってしまうのではないか。

この家は、あたたかい。
だからこそ、胸の奥がもやもやしてしまうのかもしれない。

(それに、満月って……?)

虹治は、その「満月」のことを案じて、和泉のことを近づけないようにしているように思える。
時折浮かべるひどく寂しげな表情は、満月のことが関係しているのだろうか。
あんなにも優しい人なのに──虹治からはいつも、孤独の匂いがする。



それからの一日は、とても穏やかなものだった。
虹治は相変わらず言葉は少なかったけれど、和泉の作った食事をおいしいと喜び、午後には縁側で茶を楽しんだ。

しかし。
日が傾き、夕暮れが迫ってきたころ。

「……和泉さん。今夜は早々に眠るように」
「は、はい……?」
「夕食はいらない。俺はこのあと、離れで休むが……何か物音がしたとしても決して俺の部屋には入らないでくれ」
「わ、かりました」
「それでは、達者で──もしここを去りたくなったら、銀夜に言いつけてくれ」

達者で、なんて。
まるで別れを告げるよう。
和泉が仮初の許嫁になってから、まだ三日と経っていないのに……どうして。

(やはり、満月が関係しているみたい……)

それからは、時間が進むのが嫌に遅かった。
何をしていても、虹治の部屋が気になって仕方がないのだ。
銀夜の姿も見当たらず、言われた通りに和泉も早くに床に入ることにした。




虹治が今晩を過ごすといった離れは、母屋から少し離れたところにある。
母屋といっても、粗末で古い家だ。
離れはといえば、一見すると納屋かと思うくらいの質素なものだった。

布団の中で、和泉はどうにも眠れずに、しきりに寝返りを繰り返す。
障子からは、月の光が青々と差し込んでいる。

(……虹治さま、どうされているだろう)

数分おきに、そんな考えが頭をよぎる。
今までは救児院の子どもたちのことで頭がいっぱいだったのに、そこに虹治の居場所ができてしまったような。そんな心持ちに、和泉は少し戸惑う。けれど、それはまったく不愉快ではなくて。

胸の奥が疼く感覚に、またもうひとつ寝返りをうった──そのときだった。