緊張の糸が、切れてしまったのだろうか。
仮初の許嫁となった虹治に深々と頭を下げた和泉だったが、そのまま立ち上がれなくなってしまった。

「あ……あれ……?」
「どうした」
「足が、震えてしまって……も、もうしわけ、ございませ……」

胸の奥から、全身に震えが広がっていく。
今宵、知らぬ男に嫁いできた。
下衆な男に乱暴されることすら覚悟していた。
けれど、目の前にいる虹治はあくまで静かに、穏やかに、和泉をむかえてくれた。
ほとんど表情が動かないため、真意を読み取ることは難しい。けれど、虹治はここまで一度として和泉に敵意を向けてはこなかった。

安心。
今まで生きてきて、ほとんど味わったことのない感覚に、和泉の体が驚いていた。

(ううん、でも……この先どうなるのかとか……それに、あの子たちを唐紅の家がほんとうにきちんと扱ってくれるのかとか……心配なことは色々ある、のに……)

けれども、今は。
今だけは、心を休めてよいのだ。

それが、和泉にとってはこのうえなく、稀有なことだった。

「……和泉さん」
「は、はい」

呆れられただろうか、怒りを買っただろうか。
恐る恐る和泉が声のした方に視線を向けると、

「……!」

ふに、と。
唇に何かがふれた。
虹治の指先、だった。

その繊細な指先から、かたい粒が、和泉の唇に押し込まれる。
それは舌先の熱でほどけて、甘く蕩けていった。

「あ、え、これは……」
「金平糖」

さきほど、銀夜が煎茶とともに運んできてくれた金平糖だ。
小鉢の中で、色とりどりの粒がひしめいている。

「心が乱れたときには、金平糖がいい」

とつとつと、虹治は語る。

「悲しさや寂しさは、金平糖をひと粒食べると少しだけ和らぐ」

虹治は自分も金平糖を摘んで、自分の口に放り込む。

「金平糖に、歯を立ててかみ砕く。もう少しだけマシになる」

コリ、と金平糖を噛み砕く音がする。
和泉も、虹治にならって、口の中の金平糖に歯を立てる。
カリ、と砕けば淑やかな甘みが口いっぱいに広がって、すぅっと消えていく。

「……あ」

不思議なことに、先ほどまでの震えが少しだけ治っていた。
虹治は和泉と目を合わせずに、ぽつぽつ言葉を続けている。

「二粒目は、ゆっくり舐めるのがいい。もう少しだけ気分がよくなる。……でも、三粒目からは変わらない。そこから先は自分で立ち上がらないといけない」


ぶっきらぼうで、美しいだけに冷たく恐ろしい印象のする虹治の──不器用な優しさだ。
そう思い至って、金平糖を飲み込んだ胸がじんわりと熱くなってしまう。


「今夜は遅いから、もう寝るように。銀夜、客間の支度を」
「はいはい」
「和泉さん。すまないが、あなたにはしばらくここに逗留いただき、許嫁候補として過ごしていただきたい」

ただし、と。
虹治は吐息まじりに言って、金平糖をもう一粒。

「いつここを出ていっても、こちらは一向に構わない」

それだけ言って、音もなく立ち上がって自室へ引っ込んでしまう。

「……はい。おやすみなさいませ、旦那様」

虹治から返事はなかった。
けれど、和泉は傷つくことも、しょげることもなかった。
虹治は去り際に和泉にもう一粒、そっと金平糖を握らせてくれていた。