コーヒーサロンでの給仕を終えて、家路につく。
 誰に見られているわけでもないのに、背筋を伸ばして足音を立てないよう、ゆっくりと足を交互に進めた。本当は走り出してしまいたいくらい、底冷えする寒さだった。
 大寒はもうとっくに過ぎたというのに、なかなか体の冷えはとれない。その正体が、外の気温なのか、心の寂しさなのかはわからなかった。

 身の丈に合わない大きな門に手をかける。あかぎれにピリッと痛みが走った。
 この家は、どこから見ても貴族のソレで、外観だけ見れば没落寸前だなんて誰も思わない。祖父の代に、土地の利回りが増えたことがきっかけで立て替えた洋館らしい。時代を先取りしたのだ、と祖父は自慢げに話していた。他の家より少し古いこの洋館は、時代を先取った先駆者の象徴だったのだ。
 キィ、と門が鳴く。錆びれた鉄の音は、伊角家の様子を表しているようだった。もしここを舐めたのなら、あかぎれた指と同じ味がするだろう。
 長い前庭を過ぎて玄関の重い扉を開ける。そこには使用人兼家政婦として雇っている、ツヨ子がいた。彼女は千代が幼い時からここに勤めている、伊角家唯一の使用人だ。他の人間は暇になった。ツヨ子も、いつまで雇えるかわからない。

「こんな時間までどうしたの?」
「おかえりなさいませ、お嬢様。今日はそのまま、お部屋に帰られた方がよろしいかと思いまして」
「あら、どうして?」

 ツヨ子の目が泳ぐ。「おつかれでしょうから」と言い訳のように言葉を濁すが、どこか急かすように体を前後に揺らしている。
 嫌な、予感がする。こういう時の勘はよく当たるのだ。本当は聞きたくないけれど、聞かなくてはいけないことがあるのではないか。
 ツヨ子が西洋風の腰掛を目の前に置いた。まだこんなことになる前に、義弟の進が欲しいとねだったものだ。千代はその腰掛けに座り、わざとゆっくりと履物を脱いだ。

「いい加減にしてくれ!」

 父の声だ。ツヨ子の小さなため息がわずかに耳に聞こえた。同時に、またか、と思う。おそらく、義母である綾子との喧嘩だろう。
 綾子は実母が死んだあと、しばらく経ってからここにきた後妻だ。父と前妻――千代の実母――の間に、子供は千代しかいなかった。女も家督を継ぐことはできるが、入夫になりたがる人は少ない。家の繁栄を考えると、娘は嫁にやり地盤を広げ、息子に家督を継がせて安定を図るのが一番なのだ。綾子と父は跡継ぎほしさに籍を入れた。幸運にも生まれた子供は男だった。義弟の進は、まだ10才になったばかりだ。

「千代を働きにまで出しているんだぞ、これ以上はもう無理だ。こんなの……身売りと同じじゃないか」
「でも、こんなお話、もうあるかわからないじゃないですか。それに、身売りではありません。正式なものです」
「とにかく私は反対だ。まだ、18だぞ」
「十分適齢期ですわ」
「そういうことを言っているんじゃない!」

 バン、と何かを叩く音が聞こえる。父が物に当たるなど珍しい事だった。
 没落寸前になった今でも、誰かを責めることもなく、華族としての誇りと優雅さを損なわない人だった。綾子との喧嘩で声を荒げることは多くなってきたが、それでも物に当たるのは見たことがない。

「どうなさったのかしら」
「お嬢様が聞くことではありません」
「私の名前が聞こえたけれど」

 ツヨ子の言葉は続かなかった。千代は、先ほどとは反対に素早く履物を脱ぎ捨てて、リビングのドアを開けた。
 千代、と一言、泣きそうな父の声が空間に浮かぶ。

「丁度いいわ、座って」

 立ったままの綾子が、しなやかに指を広げて椅子へと促した。そして、「あなたに縁談の話が来ているの」と足早に言う。まだ椅子を引いてもいないのに。
 縁談。本来なら喜ばしい祝い事だ。でも、先程の父の抵抗と重々しい空気、ツヨ子の行動と照らし合わせれば、あまり良い話ではないのだろう。
 もしかしたら遠方か……それとも、西洋人かもしれない。そうであれば、言葉も覚えなければいけないし、日本で暮らせなくなる日もくるだろう。父が抵抗する理由もわかる。

 どちらにしろ、亡くなった母からはどんな結婚でも受け入れるように言われていた。母が死ぬ前に約束したことは、絶対に守りたい。
 令嬢としての誇りを持つこと、後妻が来たら母のように慕う事、そして、この家を守ること。
 この縁談は受け入れるしかない。華族の娘であれば致し方ないことだ。恋愛結婚に憧れもあるけれど、爵位の返上と比べればとるに足らない小さな夢だろう。

「……そうですか。それで、お相手は?」
「立花造船の旦那様よ」

――立花造船。
 最近ここら一帯で急速に名を上げている成金だ。
 外で行われている戦争は、国内を明と暗に分けている。
 資産運用が主な華族は、戦争の煽りを受けて急速に力を失いつつある。生活のために家宝や土地を売り払った家も多い。詐欺に加担し爵位を剥奪された家も数件、知っている。
 反対に資産を膨らませたのは、造船業や鉄鋼業、化学製品を取り扱う業界だ。華族が売り払った家宝や土地を、金に物を言わせて買い漁っている。そんな成金の中でも、ここらで最も富を手に入れたと言われているのが、立花家だった。この辺りで、その家を知らない人間はいない。
 でも、立花家といえば――

「奥様、お言葉ではございますが、私はこの縁談は反対でございます」

 リビングの隅で様子を見守っていたツヨ子が、口を開いた。
 三人の目線が同時にツヨ子に向かう。彼女は、震えていた。
 破産寸前とはいえ、伊角家はまだ華族だ。ツヨ子とは明確に身分の差がある。彼女は幼かった頃の千代にすら、使用人としての立場を崩したことは一度もない。初めての“お言葉”であった。
 ツヨ子は震える声で、絞り出すように話し始めた。

「使用人風情が、お嬢様の縁談に口を挟むのが間違いなのはわかっております。ですが……立花家のご当主様は、旦那様よりも年上ではありませんか。お嬢様はまだ18です。そんな、あまりにも――」
「だからよ」
 声が段々と大きくなり、最後は叫ぶようだったツヨ子の言葉を遮ったのは、綾子だった。

「あなたも聞いたことがあるでしょう。立花家の子は男が二人。そのうち兄の方は行方知らず、弟の方は引きこもりなの。あそこの家も奥さまを早くに亡くされて、もう子供は望めない。若く、美しい子がほしいのよ。後継ぎを産めるくらいのね。それに――」

 綾子は千代をまっすぐに見つめた。その目が一度椅子へと移る。“座れ”ということだろう。千代はまだ立ったままだった。
 コーヒーサロンと同じ、褐色に染められた洋風の椅子をひく。背もたれが格子状になった、どこか障子を思い出す優し気な椅子。これは千代が、今は亡き祖母にねだって買ってもらったものだった。座ると、木の軋む音がする。この椅子はこんな音がしただろうか。やけに響いて耳に届いた。
 綾子も向かいの椅子に腰かけ、千代をもう一度正面から見据える。

「千代、わたくしは嘘が嫌いです。正直に言います。立花さまは、金銭的な援助をしてくれるとおっしゃっているの。もちろん、千代との結婚が済んだらの話よ。もうわかっているでしょう。この家は、あなたが結婚しなければ終わるわ。そうしたら、進は――」

 そこで、綾子は言葉を詰まらせた。気丈な彼女の目尻が、心なしか血の色に染まっている。令嬢は、泣いてはいけない。綾子も華族の令嬢であった。そして今は、伊角家の夫人だ。千代には、綾子の気持ちが痛いほどよくわかった。そして綾子も、千代の気持ちがよくわかるはずだと思う。
 父と綾子も政略結婚だった。今のような、没落寸前ではなかったと予想はするが、もう既に子がいる男やもめの後妻になど、望んできたわけではなかったはずだ。彼女も家のため、誰かの名誉のために嫁に来たのだ。
 継母であれ、義弟が生まれたあとも平等に接してくれていたと思う。その彼女も今、母として女として、迷っているのではないか――。
 沈黙が流れるリビングに、呼吸の音だけがやけに響く。
 父は何も言わなかった。迷っているのだろう。家の存続か、娘の将来か。

「少し、考えてもいいかしら。お返事はいつまで?」
「……1か月後よ」

 1か月……思っているよりも短かった。思わず唾を飲み込む。喉の奥がかさついているのが分かった。わかりました、と乾いた声で返事をして、席を立つ。
「お嬢様」とツヨ子がすぐに駆け寄る。父はか細い小さな声で、「すまない」と言った。――そうか。

「答えはもう、出ていたのね」

 父が跳ねるように顔をあげる。千代はすぐに視線を逸らした。小さくなった父の姿は見たくない。伊角家当主である父には、まだ威厳を持ってほしかった。
 明日になったら、決心しよう。もう決まったことだけれど、自分が決めたことにするんだ。千代はそう思った。
 父が決めた事でも、綾子が強制したことでもない。千代が、自分の意思で決めたのだ。そうすることできっと伊角家は、まだ華族の誇りを保てる。
 自室に戻る。母の形見の化粧瓶を開けた。令嬢の誇りである白粉はもう、わずかしか残っていない。

「結婚したら、白粉が買えるかしら」

 前向きな言葉を口にする、自分の声が震えていた。あかぎれた指を見る。昼間サロンで見た女学生の、白くてみずみずしい手を思い出した。

「結婚するしかないのね」

 呟いた千代の言葉は誰にも届くことはなく、夜の闇に消えていった。令嬢は、泣いてはいけない。