縞の入った着物に袖を通し、フリルのついた洋風エプロンを身に着ける。半年前から働き始めたコーヒーサロンの制服だ。
糊付けされた真っ白いエプロンは、母の割烹着よりも身軽で、現代的。
鏡を見る。家を出る前につけた白粉は、まだしっかりと付いている。この白い肌が、令嬢としての最後の誇りだった。
「令嬢は泣いてはいけない。庶民の憧れなのだから。美しく、常に笑みを浮かべて」
幼い頃に亡くなった母の言葉を、頭の中で唱える。どんなに辛くても、みじめでも、令嬢である限り泣いてはいけない。
没落寸前だとしても、“社会勉強”なんてみえみえの嘘をついていても、物珍しさに客が増えても、同僚に哀れみの目で見られても。
泣いてはいけない。
パリ、と指に小さな痛みがはしる。働いたことのない手はすぐにあかぎれて、水の冷たさに耐えられず、ぱっくりと割れた。赤い涙がにじみ出す。舌の先で舐めて、自分で自分を慰める。錆びた鉄のような塩辛い味だ。涙の味と、よく似ている。
もう一度鏡を見る。目の端も、頬も、大丈夫。令嬢の誇りはそのままだ。
鏡に、偽りの笑顔をうつしてから部屋を出た。今日も、一日が始まる。
「おはようございます」
コーヒーを入れていた背の高い男に挨拶をする。スーツに蝶ネクタイとサスペンダーをつけた、西洋の服装だ。髪型は流行と反対でざんぎりに切られており、ポマードで固めていない分雰囲気が柔らかい。
彼はこのコーヒーサロンの若き店長である。
「千代ちゃん、今日もよろしくね」
店長は、切れ長の目が閉じるくらいに、ニッコリと細めて微笑んだ。この笑顔を見ると、先ほどまであった焦燥感が凪いていく。
流行りの洋装、ざんぎりな頭に精悍な顔立ち。それが緩むと、小動物のようにやわらかくなる。このチグハグな雰囲気が、コーヒーサロンを賑わせている要因のひとつともいえるだろう。
もちろん、西洋の家具を取りそろえながら、褐色に染めた落ち着きのある店の雰囲気もあるだろうが。目まぐるしく洋に変わる世の中に、まだついていけない人間も多い。特に女性は。
どこかの貴婦人や女学生が、彼目当てにここに通っている。そのせいか、噂は様々耳にすることも多い。実はどこかの華族であるとか、西洋からの間諜であるとか。宣教師、人売り、名家の跡取り、密売人……と良いも悪いも様々だった。
千代はこの店長が好きだった。恋としてではない。人間として、だ。没落寸前の伊角家の長女であると知っても、唯一哀れみを見せない人間だった。
「何か、お手伝いしましょうか」
「いいや、こっちはいいよ。それよりも、あの隅のお客さん、注文を聞いてくれるかい?待たせているんだ」
「承知しましたわ」
「すまないね」
店長はコーヒーに目線を移したあとに、カウンターに座る女学生に目配せをした。彼女はうっとりと笑みを含んで、もう湯気のないカップに口づける。その白い手には、傷ひとつなかった。
「いらっしゃいませ」と、隅に座る紳士に微笑みかける。
しかめた表情で顔を上げた彼は、千代の顔を見るなりたちまち満足そうに微笑んだ。温かいコーヒーと、オムライス。ケチャップライスを卵でくるんだ西洋料理は、ここの看板メニューだ。
伝票に書き記したあともう一度微笑み、反転して奥に下がる。誰かの好気的な目線が刺さっている。小さくささやく声も聞こえる。聞き取れないが、良い話でないことは確かだ。
「失礼します。オムライスをおひとつ、お願いします」
裏のキッチンに声をかけると、中から中年の女性、トキが顔を出した。
「はいはい、オムライスね」
「よろしくお願いします」
黒い髪をひっつめてひとつに縛った彼女は、コーヒーサロンの開店からいる料理人だ。調理の時は結い上げているが、髪は肩下あたりまで切りそろえた流行の髪型をしている。私服は着物であることがほとんどなので、流行りの服でざんぎり頭の店長とは真逆だわ、と思ったのが最初の印象だった。
トキは千代の顔を一瞬見た後、伝票を受け取った。
「さすが、ご令嬢は肌が白いね」
「これは、白粉で」
「そんなことはわかってるよ、こっちだってね。ただ、そんなもん庶民は手に入らんからさ」
貧富の差は美醜の差、とはよく言われることだ。令嬢は常に白粉をつけて質のいい服を纏い、優雅に生活するよう幼い頃から教育されている。容姿が美しくないものは、令嬢扱いされないこともある。だから皆必死に白粉をはたき、高価な服を纏い、指先までに気を配って生きているのだ。
先程の客も、容姿で人を判断する人間だった。目線を合わせた瞬間にわかる。
この世の美醜に差があると知ったのは、働きはじめてからだった。自分が優れている側であろうことも。そしてそれが、あまり良い方向に働かないこともだ。
「すみません」
「謝ってほしいわけじゃないさ、でもね……まあ、いいか。社会勉強なんだから、すぐいなくなるんだものね。もういいよ、早く他の注文とっておくれ」
トキは鼻を鳴らして奥に下がっていった。その背中を見送る。他の料理人からは、クスクスと嘲笑する声が聞こえた。
社会勉強、なんて嘘だ。うちは没落寸前の華族の一つで、その噂はもうこの町には知れ渡っているはず。それでも華族にしがみついているのは、まだ幼い弟のためだった。それを知っているのに、トキは嘲るように毎度、“どうせいなくなるんだから”と口にする。
――泣いてはいけない。絶対に。
涙の代わりにため息を吐き出し、ホールに戻っていく。「千代ちゃん」と呼ばれる声がする。あれはお得意のお客様だ。早くいかなければ。こんなところで、泣いてはいけない。
糊付けされた真っ白いエプロンは、母の割烹着よりも身軽で、現代的。
鏡を見る。家を出る前につけた白粉は、まだしっかりと付いている。この白い肌が、令嬢としての最後の誇りだった。
「令嬢は泣いてはいけない。庶民の憧れなのだから。美しく、常に笑みを浮かべて」
幼い頃に亡くなった母の言葉を、頭の中で唱える。どんなに辛くても、みじめでも、令嬢である限り泣いてはいけない。
没落寸前だとしても、“社会勉強”なんてみえみえの嘘をついていても、物珍しさに客が増えても、同僚に哀れみの目で見られても。
泣いてはいけない。
パリ、と指に小さな痛みがはしる。働いたことのない手はすぐにあかぎれて、水の冷たさに耐えられず、ぱっくりと割れた。赤い涙がにじみ出す。舌の先で舐めて、自分で自分を慰める。錆びた鉄のような塩辛い味だ。涙の味と、よく似ている。
もう一度鏡を見る。目の端も、頬も、大丈夫。令嬢の誇りはそのままだ。
鏡に、偽りの笑顔をうつしてから部屋を出た。今日も、一日が始まる。
「おはようございます」
コーヒーを入れていた背の高い男に挨拶をする。スーツに蝶ネクタイとサスペンダーをつけた、西洋の服装だ。髪型は流行と反対でざんぎりに切られており、ポマードで固めていない分雰囲気が柔らかい。
彼はこのコーヒーサロンの若き店長である。
「千代ちゃん、今日もよろしくね」
店長は、切れ長の目が閉じるくらいに、ニッコリと細めて微笑んだ。この笑顔を見ると、先ほどまであった焦燥感が凪いていく。
流行りの洋装、ざんぎりな頭に精悍な顔立ち。それが緩むと、小動物のようにやわらかくなる。このチグハグな雰囲気が、コーヒーサロンを賑わせている要因のひとつともいえるだろう。
もちろん、西洋の家具を取りそろえながら、褐色に染めた落ち着きのある店の雰囲気もあるだろうが。目まぐるしく洋に変わる世の中に、まだついていけない人間も多い。特に女性は。
どこかの貴婦人や女学生が、彼目当てにここに通っている。そのせいか、噂は様々耳にすることも多い。実はどこかの華族であるとか、西洋からの間諜であるとか。宣教師、人売り、名家の跡取り、密売人……と良いも悪いも様々だった。
千代はこの店長が好きだった。恋としてではない。人間として、だ。没落寸前の伊角家の長女であると知っても、唯一哀れみを見せない人間だった。
「何か、お手伝いしましょうか」
「いいや、こっちはいいよ。それよりも、あの隅のお客さん、注文を聞いてくれるかい?待たせているんだ」
「承知しましたわ」
「すまないね」
店長はコーヒーに目線を移したあとに、カウンターに座る女学生に目配せをした。彼女はうっとりと笑みを含んで、もう湯気のないカップに口づける。その白い手には、傷ひとつなかった。
「いらっしゃいませ」と、隅に座る紳士に微笑みかける。
しかめた表情で顔を上げた彼は、千代の顔を見るなりたちまち満足そうに微笑んだ。温かいコーヒーと、オムライス。ケチャップライスを卵でくるんだ西洋料理は、ここの看板メニューだ。
伝票に書き記したあともう一度微笑み、反転して奥に下がる。誰かの好気的な目線が刺さっている。小さくささやく声も聞こえる。聞き取れないが、良い話でないことは確かだ。
「失礼します。オムライスをおひとつ、お願いします」
裏のキッチンに声をかけると、中から中年の女性、トキが顔を出した。
「はいはい、オムライスね」
「よろしくお願いします」
黒い髪をひっつめてひとつに縛った彼女は、コーヒーサロンの開店からいる料理人だ。調理の時は結い上げているが、髪は肩下あたりまで切りそろえた流行の髪型をしている。私服は着物であることがほとんどなので、流行りの服でざんぎり頭の店長とは真逆だわ、と思ったのが最初の印象だった。
トキは千代の顔を一瞬見た後、伝票を受け取った。
「さすが、ご令嬢は肌が白いね」
「これは、白粉で」
「そんなことはわかってるよ、こっちだってね。ただ、そんなもん庶民は手に入らんからさ」
貧富の差は美醜の差、とはよく言われることだ。令嬢は常に白粉をつけて質のいい服を纏い、優雅に生活するよう幼い頃から教育されている。容姿が美しくないものは、令嬢扱いされないこともある。だから皆必死に白粉をはたき、高価な服を纏い、指先までに気を配って生きているのだ。
先程の客も、容姿で人を判断する人間だった。目線を合わせた瞬間にわかる。
この世の美醜に差があると知ったのは、働きはじめてからだった。自分が優れている側であろうことも。そしてそれが、あまり良い方向に働かないこともだ。
「すみません」
「謝ってほしいわけじゃないさ、でもね……まあ、いいか。社会勉強なんだから、すぐいなくなるんだものね。もういいよ、早く他の注文とっておくれ」
トキは鼻を鳴らして奥に下がっていった。その背中を見送る。他の料理人からは、クスクスと嘲笑する声が聞こえた。
社会勉強、なんて嘘だ。うちは没落寸前の華族の一つで、その噂はもうこの町には知れ渡っているはず。それでも華族にしがみついているのは、まだ幼い弟のためだった。それを知っているのに、トキは嘲るように毎度、“どうせいなくなるんだから”と口にする。
――泣いてはいけない。絶対に。
涙の代わりにため息を吐き出し、ホールに戻っていく。「千代ちゃん」と呼ばれる声がする。あれはお得意のお客様だ。早くいかなければ。こんなところで、泣いてはいけない。