その夜、店が開くと風花は遠くの店の座敷に呼ばれた。琴を持って移動するだけでも億劫な距離である。
「災難だねぇ、あ、でも、素敵なお客さんに会えるかもしれないじゃない! 私のお座敷にも素敵な人がいたらいいなぁ」
いつだって明るい思考の桜花のことが羨ましくなる。自分も桜花のように考えることができたら、昼間の夢のような出来事も素直に喜ぶことができたのかもしれない。
風花の洋装を誰よりも羨んだのも桜花だった。「いいなぁ、とってもよく似合う! あぁ、私にも誰か洋装を贈ってしてくれないかなぁ」と夢でも見るような表情を浮かべた。
桜花なら、有馬の喜ぶ反応ができただろう。自分のような仏頂面が、急に申し訳なくなった。
有馬は親の仇などではありえない。そういう確信が欲しかった。自分の中で、北条よりも、有馬の存在が大きくなっていることに驚く。
結局、高価な洋装は店に取り上げられてしまった。有馬に会ったらなんと詫びたらいいだろうかと思うと悲しかった。
明るい夜の町を足早に駆け抜けて、風花は呼ばれた店を目指す。少しでも足を止めたら遅刻しそうなのだ。
ふと、表通りから一本わきに入ったところに、洋装の男の姿が見えた。背の高さからして、どことなく雰囲気が有馬に似ている。
通りの向こうは柳川だ。あんな場所で何をしているのだろうと頭の端で気になりながらも、風花は歩みを進めるしかなかった。
仕事を終え、夜遅くに店に戻った風花に「ねぇねぇ」と桜花がささやいてくる。
「今日のお座敷、藍染屋さんと高利貸しの片目とかいう人が来たのよ」
藍染屋と片目と聞いてゾワリと鳥肌が立つ。二人は何を話していたのだろう。
「ふぅん、他には誰かいた?」
極力、ただの世間話であるように声音に気を付ける。もしも、一緒に有馬がいたら、有馬が両親の死に関わっている線がいよいよ濃厚になってくる。
いや、有馬がいるはずはない、柳川の近くで有馬に似た洋装の男を見たではないか。
風花は固唾を飲んで桜花の言葉を待った。
「ううん、誰も。二人だけ」
そう言われて一瞬息が止まる。それからよかった、とため息のような深い息が出た。
その場に有馬がいなかったことに胸をなでおろしている自分がいることには気が付かないふりをする。
「幻がどうとか、花がどうとか、なんだか難しい話をしていたわ。でも話しているのは藍染屋さんばっかりで、端に座っていた片目とかいう人は少しも話さないのよ、顔を隠すように布を巻いてるからどんな顔をしているのかもよくわからなくてすごく不気味だったよぉ」
桜花に尋ねたところで詳しい話はわからないだろう。風花が聞いているのかはお構いなしに、桜花はいつも通り穏やかな口調で話を続ける。
「そうそう、それからね、その二人が帰ってから北条様も来たのよ。風花はいなんだって言ったらひどくがっかりしていたわ」
「そっか、会えなくて残念だったな」
「北条様ったら珍しくお着物で来られたのよぉ。洋装もお似合いだけど、お着物もとっても素敵だったわ。風花と話したいことがあったのにって言っていたらしいわよ」
次に北条に会ったらなにか話が聞けるかもしれない。風花は淡い期待を抱いた。
翌朝、柳川に藍染屋の主人の遺体が浮かんでいたという噂が風花の耳にも届いた。それだけではない、藍染屋が川の近くで洋装の男と会っているのを見たという話もあるのだ。その洋装の男が藍染屋の死に関わっているだろうという話は、噂に尾ひれが付いたものではないだろう。
洋装と聞いて頭に浮かぶのは二人、有馬と北条である。桜花の話では昨夜の北条は着物だったというではないか。となると一人に絞られる。そもそも北条が藍染屋を殺す理由がない。他にも、洋装の男はきっとたくさんいる。
でも――と不安がよぎった。
仕事先に出かける途中に見かけた洋装の男のことが気になった。柳川の近くに、有馬に似た姿の男がいるのを他でもない自分が見ているのである。
「大丈夫、違うよ」
風花は自分に言い聞かせたかった。
だが、人の口に鍵などかかるはずもない、あっという間に藍染屋の主人を殺したのは有馬家の子息で間違いないという話が、柳町中に広がった。
「災難だねぇ、あ、でも、素敵なお客さんに会えるかもしれないじゃない! 私のお座敷にも素敵な人がいたらいいなぁ」
いつだって明るい思考の桜花のことが羨ましくなる。自分も桜花のように考えることができたら、昼間の夢のような出来事も素直に喜ぶことができたのかもしれない。
風花の洋装を誰よりも羨んだのも桜花だった。「いいなぁ、とってもよく似合う! あぁ、私にも誰か洋装を贈ってしてくれないかなぁ」と夢でも見るような表情を浮かべた。
桜花なら、有馬の喜ぶ反応ができただろう。自分のような仏頂面が、急に申し訳なくなった。
有馬は親の仇などではありえない。そういう確信が欲しかった。自分の中で、北条よりも、有馬の存在が大きくなっていることに驚く。
結局、高価な洋装は店に取り上げられてしまった。有馬に会ったらなんと詫びたらいいだろうかと思うと悲しかった。
明るい夜の町を足早に駆け抜けて、風花は呼ばれた店を目指す。少しでも足を止めたら遅刻しそうなのだ。
ふと、表通りから一本わきに入ったところに、洋装の男の姿が見えた。背の高さからして、どことなく雰囲気が有馬に似ている。
通りの向こうは柳川だ。あんな場所で何をしているのだろうと頭の端で気になりながらも、風花は歩みを進めるしかなかった。
仕事を終え、夜遅くに店に戻った風花に「ねぇねぇ」と桜花がささやいてくる。
「今日のお座敷、藍染屋さんと高利貸しの片目とかいう人が来たのよ」
藍染屋と片目と聞いてゾワリと鳥肌が立つ。二人は何を話していたのだろう。
「ふぅん、他には誰かいた?」
極力、ただの世間話であるように声音に気を付ける。もしも、一緒に有馬がいたら、有馬が両親の死に関わっている線がいよいよ濃厚になってくる。
いや、有馬がいるはずはない、柳川の近くで有馬に似た洋装の男を見たではないか。
風花は固唾を飲んで桜花の言葉を待った。
「ううん、誰も。二人だけ」
そう言われて一瞬息が止まる。それからよかった、とため息のような深い息が出た。
その場に有馬がいなかったことに胸をなでおろしている自分がいることには気が付かないふりをする。
「幻がどうとか、花がどうとか、なんだか難しい話をしていたわ。でも話しているのは藍染屋さんばっかりで、端に座っていた片目とかいう人は少しも話さないのよ、顔を隠すように布を巻いてるからどんな顔をしているのかもよくわからなくてすごく不気味だったよぉ」
桜花に尋ねたところで詳しい話はわからないだろう。風花が聞いているのかはお構いなしに、桜花はいつも通り穏やかな口調で話を続ける。
「そうそう、それからね、その二人が帰ってから北条様も来たのよ。風花はいなんだって言ったらひどくがっかりしていたわ」
「そっか、会えなくて残念だったな」
「北条様ったら珍しくお着物で来られたのよぉ。洋装もお似合いだけど、お着物もとっても素敵だったわ。風花と話したいことがあったのにって言っていたらしいわよ」
次に北条に会ったらなにか話が聞けるかもしれない。風花は淡い期待を抱いた。
翌朝、柳川に藍染屋の主人の遺体が浮かんでいたという噂が風花の耳にも届いた。それだけではない、藍染屋が川の近くで洋装の男と会っているのを見たという話もあるのだ。その洋装の男が藍染屋の死に関わっているだろうという話は、噂に尾ひれが付いたものではないだろう。
洋装と聞いて頭に浮かぶのは二人、有馬と北条である。桜花の話では昨夜の北条は着物だったというではないか。となると一人に絞られる。そもそも北条が藍染屋を殺す理由がない。他にも、洋装の男はきっとたくさんいる。
でも――と不安がよぎった。
仕事先に出かける途中に見かけた洋装の男のことが気になった。柳川の近くに、有馬に似た姿の男がいるのを他でもない自分が見ているのである。
「大丈夫、違うよ」
風花は自分に言い聞かせたかった。
だが、人の口に鍵などかかるはずもない、あっという間に藍染屋の主人を殺したのは有馬家の子息で間違いないという話が、柳町中に広がった。