有馬が連れてきたのは食事をするような場所ではなく、見れば化粧品を扱うような店だった。飾り棚に美しい形の香水瓶がいくつも並んでいる。桜花が見たら喜びそうだ。
 高価な化粧品の奥に、いくつか椅子と食卓が見える。といっても、風花は椅子というものを見たことがなかったので、目に見えているものがどんなものであるのかわからない。

「ここは何のお店ですか?」
「薬局さ、だけど菓子も食べられる。むしろこの界隈ではアイスクリームはここでしか食べることができない」

 薬局というのは、薬を取り扱うものではないのか。

 知らないことが多すぎると思った。風花が考えているよりもずっと、世の中の流れは早いらしい。いや、風花は知らなかっただけどずっと昔からこの店では変わった食べ物を提供していたのかもしれない。

 外国に来てしまったかのような気持ちで、風花は有馬に倣って椅子に腰かけた。

「アイスクリームを一つ、彼女の前においてくれ。俺は珈琲を一つ」

 風花は目に映るものが珍しく、思わずキョロキョロと店内を見回す。有馬はそんな風花の様子を楽しそうに眺めていた。

 目の前にアイスクリームの入った硝子の器が置かれたとき、風花は目を疑った。見たこともない滑らかな食品が、甘い香りを放ってくる。それも冷たい。冷めているというのではない、冷たいのだ。

「これが」
「アイスクリームだ、食べて見ろ、美味いぞ」

 匙を持ったまま手が止まる。目の前のアイスクリームも気になったが、有馬の目の前に置かれた黒い液体の方が更に気になる。

「それは、墨でしょうか。西洋では墨を飲むのですか?」

 風花の言葉に有馬は思わず破顔した。その顔があまりに無邪気で、風花の心を揺らす。

「君は本当に可愛らしい。これは珈琲という飲み物だ。南米大陸にある伯刺西爾(ブラジル)という国から運ばれてきた豆を炒って、湯で抽出したものだ、墨ではない。試しに一口飲んでみたらいい」

 好奇心に負け、風花は珈琲を口に含んだ。途端に口の中にひどい苦みが広がる。思わずむせ返った。

「だましましたね、これは毒ですよ!」
「おい、失礼なことを言うな。毒じゃない、しいて言うなら薬だ。これを飲むと頭が冴え、心が安らぐ」

 有馬がそういって美味しそうに黒い液体を飲んだものだから風花は目を見開いた。

「アイスクリームが溶けるぞ、早く食べろ」

 目の前のアイスクリームは火で炙られたように溶け始めている。風花は匙を手に取り、小さく掬い取って口に運んだ。

 脳天を直撃するような甘みと、鼻を抜ける柑橘の香りがあまりに衝撃的だった。

「美味しい!」

 目を輝かせてもう一匙アイスクリームを掬い取る。口に運ぶと再び夢のような味が口のなかに広がる。
 甘いものが大好きであったことを、十年ぶりに思い出した。

「口に合ったみたいだな」
「こんなに美味しいものは初めて食べました」
「それはよかった。言っておくが、それも毒なんかじゃないからな。言っただろう、もしも君を殺すつもりならもっと上手くやる」

 優しく微笑む有馬に、疑問を抱かずにはいられなくなる。

「では、どうして私に構うのですか。私は、なんの取り柄もない芸妓です」

 それに、あなたはあの日、お父様と一緒に出掛けておられたのではありませんか。私も殺すおつもりでしょう、お父様と、お母様のようにと、思わず言葉にしそうになる。口をついて飛び出そうとする音を、風花は必死に飲み込んだ。

「君の琴の音を気に入っただけだ。でも、それでは答えにならないのだろうな」
「なりませんよ。それに、早く印籠を返してください」
「まだ駄目だ。だが必ず返す。それまで君は俺の印籠を大切にしておいてくれよ。ほら、早く食べないと溶けてしまうぞ」

 アイスクリームが溶けないよう慌てて食べることに必死になって、それ以上何も聞くことができなかった。

 アイスクリームを食べ終えると、有馬は表の化粧品売り場で風花に紅を選んだ。淡い桃色の紅は、風花の店にはない色だ。

「強い赤は似合わないと思っていたんだ。俺に会う時はこれをつけてくれ」
「お店では他のお客さんも来ますから、再々紅を塗り直す暇なんかありませんよ」
「店の外で会う時さ、また来るから」

 有馬は風花の手を引いて、柳町の西側から店に戻った。

 店に着くのが寂しいと思う心を、消してしまわなければと風花は必死だった。