ある日のこと、有馬は昼間に風花の店にやってきた。まだ座敷は開いていない。
「風花、有馬様がお呼びだよ! 出かける仕度をして降りてきな」
下の階から女将さんの声が響いた。
「風花は大人気だねぇ、有馬様と北条様、どっちがいいか悩んじゃうね」
「悩まないよ、そんなの」
あの人に決まっているじゃない。
この頃、有馬とあの日の少年が重なることがあるのである。そんあはずはない、約束を交わした少年が、伯爵家の子息であるなどありえない話である。
そもそも有馬は親の仇かもしれないのだ、惹かれることなどありえない。
風花は「そうだよねぇ、決められないよねぇ」と可愛らしい笑みを浮かべる桜花に見送られて、風花は下の階に降りる。北条を迎える時のような愛想はみじんも見せずにぶすっとした顔のまま有馬に対峙した。
「ひどい顔だな」
「もとからです」
「そうじゃない、いつも思うけれど、もっと愛想良くした方が客がつくんじゃないか。君は仮にも芸妓だろう?」
「芸妓は芸を売るもの。無駄に愛想を振りまいたりは致しません」
「そうか。まぁ、俺的にはその方がありがたい。君を他の男に取られたら取り返しに行かなきゃいけない」
こういうやり取りには慣れていない。風花は何と言ったらいいのか困って更に不機嫌な声を出した。有馬に好意を持ってしまいそうな自分を叱るように。
「ご用がないならお引きとりください。それとも印籠を返してくださりに来たのですか?」
「いいや、今日は君と出かけようと思って来た。連れ出す代金は女将にすでに払っている。多少の色を付けておいたから少々長く連れ出しても問題ないだろう」
言うなり有馬は風花の手を引いて店を出て行く。
「どこに行こうというのですか」
「柳町の西側だ」
「あちらはすっかり廃れてなにもありませんよ。さては、人のいないところに連れ出して私を殺めるおつもりですね」
「物騒なことを言うな。俺と出かけた君が殺されたら俺が真っ先に疑われるだろう? 俺ならそんな馬鹿な真似はしない」
「ならどうするっていうんですか」
「そうだなぁ、俺だったら他のやつと君が一緒にいたって誰かが知っている状態で犯行に及ぶよ」
「そういう話ではありません、これからどうするのかを聞いているんですよ」
「なんだそっちか。それなら内緒だ。安心してくれ、きっと君も喜ぶところだ」
切れ長の目を細めた有馬は、風花の手をしっかりと握って歩いていく。その力強い手のぬくもりに、風花の心は僅かに高鳴った。そんな自分を必死に諫める。
両親の仇かもしれない人に、何を絆されているのかと風花はブンと強く頭を振る。幾度となく風花のもとを訪れ、琴の音を聞きながら穏やかに酒を飲む姿を見てすっかり気が緩んでしまったのだ。これはよくない、しっかりしろ、と自分を叱咤する。
「どうした虫でもまとわりついているのか?」
などと呑気に有馬か聞いてくるものだから、風花は涼やかなその顔を思い切り睨んでやった。早く、有馬に自分は違うのだと言ってほしいと思っている自分がいる。親の仇ではないと、有馬に認めてもらいたかった。
かつて大きな花町であった柳町は今となってはその規模を縮小し、東側だけが栄えている。そう思っていたのは風花の思い違いであった。この十年の間に、町はすっかり様変わりしたようである。
西側は西洋の文化が入り込んだ場所であり、庶民ではとても足を運べるような場所ではなかった。
立ち並ぶレンガ造りの建物を、風花は生まれて初めて見た。木造の店よりもずっと丈夫そうだ。風は吹いたって揺れることはないのだろう。
「この先にある店でアイスクリームが食べられる」
「あいす、くりーむとはなんでしょうか?」
「説明しづらいな。食べたらわかる」
道行く人の格好は、風花が今まで見たこともないくらいきらびやかだった。世の中で洋装というものが流行っているのは知っていたけれど、見るのは有馬や北条のような男性の格好ばかりで、洋装の女性を見るのは初めてだ。
着物よりもふわりと裾の広がった奇妙な形の服を着ている。その奇妙さが、なんとも素敵なのだ。目にすれば一度は自分も着るてみたいと思ってしまう。対して自分の着物がひどくボロボロで古臭く、みすぼらしく感じた。
店で着る着物は借金をして買わらなければいけない。店に拾われた風花の儲けは、全て店の物だった。新しい着物など、なかなか新調してもらえるわけがない。
自分はあまりに場違いだ、などと考えていると有馬が口を開く。
「君は着物も似合うけど、アイスクリームを食べる前に着替えてもらおうか。この店がいい」
そう言うと重そうな硝子の扉を開けて、有馬は店の中に風花を連れて入った。
「この娘を着飾ってやってくれ」
店に入るなり有馬が店員に声をかけた。するとあっという間に風花の周りを数人の従業員が取り囲む。
瞬く間に風花は道行く洋装の女性たちと同じ格好になった。目の前にある巨大な姿見に自分の姿が映り、思わず顔が熱くなる。
「よくお似合いですよ、いってらっしゃいませ」
綺麗な笑顔の女性店員に見送られ、風花は有馬のもとに戻る。
「思った通り、よく似合う」
「なんだか足元がスースーします」
なにより足にある痣を有馬に見られるのが嫌だった。風が吹いて見られでもしたらどうしようかと思ってしまう。
「直に慣れるさ、さあ行こう」
有馬に手を引かれて、風花は歩みを進めようとするけれど、履きなれない靴なのでなかなか前に進まない。
「靴は履きなれないか、もう少しゆっくりと歩くから、歩くのが辛くなったら言ってくれ。なんなら抱きかかえてもいいのだけれど」
「自分の足で歩けます」
有馬の親切さを歯がゆく感じた。この男は親の仇かもしれない、印籠だって取られたままだ。それなのに、どうしてこんなにも胸が高鳴ってしまうのだろう。
言葉の端々から伝わる温かさが心を揺らしてくる。
「風花、有馬様がお呼びだよ! 出かける仕度をして降りてきな」
下の階から女将さんの声が響いた。
「風花は大人気だねぇ、有馬様と北条様、どっちがいいか悩んじゃうね」
「悩まないよ、そんなの」
あの人に決まっているじゃない。
この頃、有馬とあの日の少年が重なることがあるのである。そんあはずはない、約束を交わした少年が、伯爵家の子息であるなどありえない話である。
そもそも有馬は親の仇かもしれないのだ、惹かれることなどありえない。
風花は「そうだよねぇ、決められないよねぇ」と可愛らしい笑みを浮かべる桜花に見送られて、風花は下の階に降りる。北条を迎える時のような愛想はみじんも見せずにぶすっとした顔のまま有馬に対峙した。
「ひどい顔だな」
「もとからです」
「そうじゃない、いつも思うけれど、もっと愛想良くした方が客がつくんじゃないか。君は仮にも芸妓だろう?」
「芸妓は芸を売るもの。無駄に愛想を振りまいたりは致しません」
「そうか。まぁ、俺的にはその方がありがたい。君を他の男に取られたら取り返しに行かなきゃいけない」
こういうやり取りには慣れていない。風花は何と言ったらいいのか困って更に不機嫌な声を出した。有馬に好意を持ってしまいそうな自分を叱るように。
「ご用がないならお引きとりください。それとも印籠を返してくださりに来たのですか?」
「いいや、今日は君と出かけようと思って来た。連れ出す代金は女将にすでに払っている。多少の色を付けておいたから少々長く連れ出しても問題ないだろう」
言うなり有馬は風花の手を引いて店を出て行く。
「どこに行こうというのですか」
「柳町の西側だ」
「あちらはすっかり廃れてなにもありませんよ。さては、人のいないところに連れ出して私を殺めるおつもりですね」
「物騒なことを言うな。俺と出かけた君が殺されたら俺が真っ先に疑われるだろう? 俺ならそんな馬鹿な真似はしない」
「ならどうするっていうんですか」
「そうだなぁ、俺だったら他のやつと君が一緒にいたって誰かが知っている状態で犯行に及ぶよ」
「そういう話ではありません、これからどうするのかを聞いているんですよ」
「なんだそっちか。それなら内緒だ。安心してくれ、きっと君も喜ぶところだ」
切れ長の目を細めた有馬は、風花の手をしっかりと握って歩いていく。その力強い手のぬくもりに、風花の心は僅かに高鳴った。そんな自分を必死に諫める。
両親の仇かもしれない人に、何を絆されているのかと風花はブンと強く頭を振る。幾度となく風花のもとを訪れ、琴の音を聞きながら穏やかに酒を飲む姿を見てすっかり気が緩んでしまったのだ。これはよくない、しっかりしろ、と自分を叱咤する。
「どうした虫でもまとわりついているのか?」
などと呑気に有馬か聞いてくるものだから、風花は涼やかなその顔を思い切り睨んでやった。早く、有馬に自分は違うのだと言ってほしいと思っている自分がいる。親の仇ではないと、有馬に認めてもらいたかった。
かつて大きな花町であった柳町は今となってはその規模を縮小し、東側だけが栄えている。そう思っていたのは風花の思い違いであった。この十年の間に、町はすっかり様変わりしたようである。
西側は西洋の文化が入り込んだ場所であり、庶民ではとても足を運べるような場所ではなかった。
立ち並ぶレンガ造りの建物を、風花は生まれて初めて見た。木造の店よりもずっと丈夫そうだ。風は吹いたって揺れることはないのだろう。
「この先にある店でアイスクリームが食べられる」
「あいす、くりーむとはなんでしょうか?」
「説明しづらいな。食べたらわかる」
道行く人の格好は、風花が今まで見たこともないくらいきらびやかだった。世の中で洋装というものが流行っているのは知っていたけれど、見るのは有馬や北条のような男性の格好ばかりで、洋装の女性を見るのは初めてだ。
着物よりもふわりと裾の広がった奇妙な形の服を着ている。その奇妙さが、なんとも素敵なのだ。目にすれば一度は自分も着るてみたいと思ってしまう。対して自分の着物がひどくボロボロで古臭く、みすぼらしく感じた。
店で着る着物は借金をして買わらなければいけない。店に拾われた風花の儲けは、全て店の物だった。新しい着物など、なかなか新調してもらえるわけがない。
自分はあまりに場違いだ、などと考えていると有馬が口を開く。
「君は着物も似合うけど、アイスクリームを食べる前に着替えてもらおうか。この店がいい」
そう言うと重そうな硝子の扉を開けて、有馬は店の中に風花を連れて入った。
「この娘を着飾ってやってくれ」
店に入るなり有馬が店員に声をかけた。するとあっという間に風花の周りを数人の従業員が取り囲む。
瞬く間に風花は道行く洋装の女性たちと同じ格好になった。目の前にある巨大な姿見に自分の姿が映り、思わず顔が熱くなる。
「よくお似合いですよ、いってらっしゃいませ」
綺麗な笑顔の女性店員に見送られ、風花は有馬のもとに戻る。
「思った通り、よく似合う」
「なんだか足元がスースーします」
なにより足にある痣を有馬に見られるのが嫌だった。風が吹いて見られでもしたらどうしようかと思ってしまう。
「直に慣れるさ、さあ行こう」
有馬に手を引かれて、風花は歩みを進めようとするけれど、履きなれない靴なのでなかなか前に進まない。
「靴は履きなれないか、もう少しゆっくりと歩くから、歩くのが辛くなったら言ってくれ。なんなら抱きかかえてもいいのだけれど」
「自分の足で歩けます」
有馬の親切さを歯がゆく感じた。この男は親の仇かもしれない、印籠だって取られたままだ。それなのに、どうしてこんなにも胸が高鳴ってしまうのだろう。
言葉の端々から伝わる温かさが心を揺らしてくる。