その傘はもういらない

「先生。私、手術はしません。」

耳を疑った。

「手術をしないと、治りませんよ。」

「それで構いません。」

彼女は、穏やかな顔で、そう答えた。

「余生は、穏やかに過ごしたいと思います。その為の薬を出して下さい。」

直ぐに、解りましたと言えない自分がいた。


医者は、患者の病気を治す仕事だ。

治る病気を治せないなんて、医者として、矛盾を感じる。


「もう一度、考え直しませんか?」

俺は、なるべく冷静に話しかけた。

「世の中には、治りたくても治らなくて、亡くなって行く人もいます。だがあなたはそうじゃない。治る病気だ。それを治らないと決めつけて、治療を拒否するなんて、勿体ないとは思いませんか?」

「思わないです。」

俺は手をぎゅっと握った。

冷静に、冷静に。

だがちょうど、手術の日程も、早くて2週間後だ。

「解りました。痛み止めを出しますから、それを飲んで下さい。」

「はい。」

「次の診察は、2週間後でどうですか?」

「はい、解りました。2週間後ですね。」

そう言う事は、物分かりがよいのだと知った。


「それでは先生、失礼します。」
「お大事に。」

藤間さんが帰った後、パソコンに今日の診察結果を入力した。

「先生、よく冷静でいられましたね。」

「まあね。怒っても仕方ないだろう。」

「そうじゃなくて。あの患者さん、女優の藤間美生ですよ。」

看護師は、きゃっきゃっと騒ぎ立てた。


女優の藤間美生?

あの人気女優の?


「でも、長い間付き合っていたアイドルの宮古朝陽が、最近ずっと年下のモデルと結婚したんですよね。それで自暴自棄になってるのかしら。」

「それにしても、変った患者だよ。」

これが、美生との出会いだった。
2週間後に来た藤間さんは、まるで何の病気も持っていないように、元気だった。

「体調はどうですか?」

「はい。薬のおかげで、楽に過ごしています。」

そしてニコニコと笑う彼女。


そんな笑っている場合じゃないだろう。

君は、癌患者なんだぞ。

胸の中で呟いた言葉を、彼女は知らない。

俺もニコニコしているからだ。

そして本題は、ここからだ。


「藤間さん。この前のお話なんですが。」

「この前の?」

「手術の話です。」
「ああ……」

まるで無関係のように、藤間さんは髪を掻き上げた。

「今日、付き添いの方は、いらっしゃいますか?」

「います。」

「呼んで来て頂けませんか?」

「はい。」

割と素直に、付き添いの人を、呼びに行ってくれた。


手術を拒否していても、付き添いの人から言われたら、また考え直すだろう。


「失礼します。」

付き添いの人は、年の離れた女性だった。

母親なのだろうか。
「どうぞ、お座り下さい。」

「はい。」

さて、どこから切り崩せばいいか。

「ええ……ご家族の方ですか?」

「いえ。美生のマネージャーです。」


マネージャー。

付いたばかりかな。

だとしたら、誤算かもしれない。


「マネージャーさんは、藤間さんの病名を知っていますか?」

「ええ。早期の胃癌だと。」

「手術すれば、治る病気だと言う事も。」

「そうですね。癌でも早期発見なら、治る可能性も高いと聞いた事があります。」
「では、藤間さんがその手術を断っていると言う事も。」

「はい。美生から聞いています。」


うーん。

とりあえず、一通りは知っているんだな。

しかも、手術を拒否している事も知っているって事は、かなり親しい間柄かもしれない。

分はあるかもしれないな。


「率直に申し上げて、どうお考えになりますか?」

「本心を言えば、前向きに治療してほしいです。美生はまだ、ウチの事務所のトップ女優ですから。」

「それを藤間さんに、説得した事は?」

「ありません。美生にはこれまで、苦労ばかりかけましたから、彼女が最後にしたいと言うのであれば、それを受け入れるだけです。」

しまった。

あくまで、女優とマネージャーという関係だけだったか。

「あの、藤間さんのご家族は?」

「いますけれど、あちらもお忙しいみたいで。」


その時だった。

藤間さんが苦しみだした。


「大丈夫ですか?藤間さん!」

「美生!?」

彼女を抱え、ストレッチャーに乗せると、急いで検査をした。

その結果は、最悪だった。

「ステージ3……」

彼女の胃癌は、はるかに早く進行していたのだ。

藤間さんが目を覚ましたのは、検査の後だった。

ステージ3では、今直ぐ入院してもらうしかない。

マネージャーの久慈さんの指示で、病院の最上階にある、個室に入ってもらった。


「藤間さん。大丈夫ですか。ここがどこだか、解りますか?」

「……病室ですか?」

藤間さんは、まだぼーっとしていた。

「藤間さん。検査の結果なんですが、胃がんはステージ3まで進行していました。このまま、入院してください。」

「入院……」

それを聞いても、まだ他人事のように、ぼーっとしている。


その時だった。

マネージャーの久慈さんが、藤間さんの荷物を持って、やってきた。