その傘はもういらない

なんだ。一応考えていたのか。それは俺の検討違いだったな。

「でもある日、美生が言ったんです。『もう私には子供は産めない。』って。」

胸が苦しくなった。

その言葉を言った藤間さんは、どんな気持ちだったんだろう。

「もし、子供が欲しいのなら、私と別れて若い人と結婚してって。どうしてそんな事を言うのかって、何度も聞き返しました。結婚したいから、そんな事を言ってるのかって。俺、馬鹿みたいに。」

同じ状況だったら、俺も同じ事を言うと思う。

結婚したい女の、上等手段だって。

「違かったんです、美生は。俺の幸せを願ってだって。私はもう子供を持てないけれど、今のあなたなら間に合う。若い人と結婚して、子供を持ってと。」

俺は首を垂れた。

胸が痛かった。痛くて痛くて、仕方がなかった。
「俺はその言葉を鵜呑みにして、美生と別れてしまった。後悔しました。美生は俺の人生そのものだと、別れて知ったんです。」

何も言えなかった。何も。

励ます言葉や、藤間さんの気持ちを代弁するような、そんな言葉、何一つ言えなかった。

「その時に出会ったのが、妻の仁湖なんです。彼女はどこか、美生に似ていて……間違っていると思いながら、俺は仁湖と結婚しました。」

許せない。

けれど、仕方がない。

この人だって、別れたくて別れたんじゃない。

藤間さんだって、そうだ。

お互いの幸せの為に、別れを選んだんだ。

そうだ。

そうなんだ。
「だから先生。美生をどうか、助けて下さい。お願いです。お願いします。そうじゃなかったら、俺は、美生を……」

そう言って、宮古さんは泣き崩れた。


いつもだったら、ここで治してみせますとでも、言うんだ。

でも、この時は違った。

何より藤間さんの気持ちが、痛い程解って。

解かってしまって、彼女の虚しさとか。

無くしてしまった毎日だとか。希望だとか。

どうにもこうにも、俺は泣き崩れる宮古さんを、羨ましく見つめるしかなかったんだ。

「先生……」

「解ってます。」

藤間さんを、美生を本気で助けたいと思ったのは、この時だった。
その日は、久しぶりに眠れなかった。

ベッドの上で目を閉じても、藤間さんの顔が思い浮かんで、振り払っては浮かんできた。

「くそっ!」

どうしても眠れない俺は、キッチンに行って、水を一杯飲んだ。

一人の患者の為に、眠れないなんて。


胸が軋むように痛くて、手でシャツを握りしめた。

相手の人生を思う為に、自己を犠牲にして、その挙句に胃癌になるなんて。

悲しい。悲しすぎる。


そして、解っている。解っているんだ。

藤間さんの事を、いつの間にか、一人の女性として、俺が見ているという事実を。
翌日。俺は、藤間さんの病室を訪れた。

「先生。」

初めて会った時よりも、藤間さんは痩せていて、頬がこけ始めているのは、何とも痛々しかった。

そして俺はわざと、藤間さんの側に椅子を移動させて、怪しまれないように、そっと座った。

「どうですか?体調は。」

「先生がくださった薬のおかげで、何とか過ごせています。」

俺はうんうん頷きながら、藤間さんの顔を見つめていた。


「先生?」

それに気づいた藤間さんは、首を傾げている。

その仕草がまた可愛らしくて、胸が苦しくなった。

本当にこのまま、死んでいくしかないのか。
もっと、生きるべき人生が、藤間さんにはあるんじゃないか。

そう思ったら、勝手に涙が出た。


「やだ、どうしたんですか?何かあったんですか?」

「ん?」

目頭を押さえて、とぼけた振りをした。

「仕事のし過ぎじゃないですか?お医者さんって、なかなか休みも取れないって言うし。」

そう言って、コロコロと笑っている。


ああ、この笑顔を独り占めしたい。

僕だけのモノにしたい。

僕だけを見て欲しい。


もっと、俺と一緒に生きて欲しい。
そんな事を考えていたら、想いが溢れ出した。

「藤間さん。今からでも、治療を考えてくれないか。」

藤間さんは、息が止まったように、俺を見ている。

「今ならまだ間に合う。考え直してくれないか。」

今まで、患者さんの前では、感情的にならないようにしてきた。

でも今は、それも抑えきれない。


だが藤間さんは、俺の言葉なんて聞き流して、外を見ていた。

「藤間さん!」

「今日は、やけに日差しが強いですね。」

俺は振り返って、窓の外を見た。

今日はこの季節には珍しく、太陽の光が照り付けるような、そんな暑い日だった。

「女優はね。こんな時はずっと傘を差していなきゃならないの。日焼けできないから。もう、やんなっちゃう。」
藤間さんはそう言うと、ため息をついた。

「残りの人生は、思いっきり日差しを浴びて、生きて行きたいって決めたの。だから、治療はしません。」

俺は顔を歪ませた。


「君はまだ、その傘を差しているんだね。」

「えっ?」

俺は改めて、藤間さんを見つめた。

「傘を差すと人間、周りが見えなくなる。悲しい涙の雨も、日差しのような強い愛情も。」

「何言って……」

「君は、もっと生きるべきなんだ。自分を犠牲にして、相手を幸せにしたんだ。幸せになるべきなんだよ!」

藤間さんは、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「俺が幸せにする。『やっぱり生きてるって最高ね。』って、君に言わせたい。」

「どうして先生が?治療が終われば、私達の関係も終わるじゃないですか。」

「そんな事させない!」

俺は立ち上がって、藤間さんの顎をクイッと上げた。

「愛してる、美生。俺と結婚してくれ。」

そう言って俺は、美生にキスをした。

当然だけど、美生は茫然としていた。


「返事はいつでもいい。これからの人生、俺と一緒に生きて欲しいんだ。」

「先生……」

「本心だよ。心からそう思っている。美生も、そう思ってくれると嬉しいな。」

そう言って俺は、美生に背中を向けた。