その傘はもういらない

翌日。藤間さんに手術の話をした。

けれど、彼女の意志は、変っていなかった。

「前にも言ったはずです。治療はしないと。」

相手に気づかれないように、ため息をついた。

「それは、お腹に傷ができるのが、嫌だからですか?」

「いいえ。私はもう苦しい思いをしてまで、生きていたくないんです。」

藤間さんは無表情だった。

安らかに微笑むでもなく、激しく怒るでもなく。

こう言っては何だけど、まるで観音様のようだ。

まだ、そんな事を言っているのか。

周りの患者は、助かりたくて、辛い治療を懸命に受けているというのに。

「藤間さん。何とか、手術は考えてくれませんか?」
すると藤間さんは、俺の事をちらっと見た。

「どうして盛岡先生は、そんなに手術を勧めるんですか?」

「あなたに、後悔して欲しくないからです。」

「後悔するかどうかは、私が決める事だわ。」

「病気はもう、ステージ3まできてるんです。助かりたいと思った時には、既に手遅れになるかもしれないんですよ?」

「安心してください。助かりたいなんて、思わないので。」

その軽く突っぱねる藤間さんの態度に、少しだけ人間味を感じた。

もしかして彼女。

自分の言った事に、引くに引けなくなってるのかな。

「藤間さん、余生を考える事はいい事だと思います。ただ、少し早すぎはしないですか?」

「そう言って、私に手術を受けさせようとしているんでしょ。」

俺はイライラするのを、必死に抑えていた。
しばらく経って、俺に珍しい客がやってきた。

「宮古朝陽と申します。」

「藤間さんの担当医の盛岡です。」

その名前に聞き覚えがあった。

確か、藤間さんと長年交際していたという、アイドル歌手だ。

「早速なんですが、先生にお願いがあるんです。」

「何でしょう。」

「美生を……助けて欲しいんです。」

彼の目には、涙が溜まっていた。

「俺は、美生の言う通り、家族を作りました。でも、美生は癌だって言うじゃないですか。俺は、美生に不幸になって欲しくない。誰よりも幸せになってほしいんです。」

藤間さんが、どういう気持ちで、彼に家族を作ってと言ったのかは分からない。

でもそれは、藤間さんも彼に誰よりも幸せになってほしいからなのではないかと、少しだけ思った。
藤間さんの元恋人だという宮古さんは、ポツポツと昔の事を話し始めた。

「美生とは、ドラマの撮影で知り合ったんです。俺が主人公で、美生がヒロインで……」

ありきたりな配役だなとは思ったけれど、そのドラマを観ていないのだから、とやかく言う事ではない。

「美生は、明るくて優しくて。俺は、すぐ彼女を好きになりました。ウチの事務所は、恋愛にうるさいんですけどね。直ぐに仲良くなって、勢いで告白したんです。そうしたら美生も嬉しいって……」

そう話たら、宮古さんは涙ぐんだ。

「なんで、あの時の気持ちを、思い出さなかったんですかね。お互い好き同士で付き合ったのに。なんで……」

その手の話は、俺は疎い。

彼女も、大学時代に付き合って、医者という仕事の忙しさにかまけて別れてしまった。

二人の言う長い春など、俺は味わった事がなかった。
「世間には、バレないように注意してたんです。その方が美生がいいって言うから。グループのメンバーや、仲間、友達家族にも、美生と付き合ってるって、言いませんでした。」

本当に好きなら、ポロッと言ってしまいそうだけれど、そこは大人同士だったのかなと、俺は勝手に思った。

「本当に好きだったんです。美生の事。18年も付き合ってたんです。嘘じゃありません。」


けれど、何だろう。

俺は、異様に腹が立った。

それだけ好きで、長い間付き合ってたんだったら、なぜ結婚しなかったんだと。

彼女を待たせるだけ待たせて、遂に捨てられたんじゃないかと思った。

「誕生日とか、クリスマスとか、イベントを一緒にいられない時はありましたけど、何気ない日が俺は好きでした。彼女の素の部分を見ているようで。結婚も考えていました。」
なんだ。一応考えていたのか。それは俺の検討違いだったな。

「でもある日、美生が言ったんです。『もう私には子供は産めない。』って。」

胸が苦しくなった。

その言葉を言った藤間さんは、どんな気持ちだったんだろう。

「もし、子供が欲しいのなら、私と別れて若い人と結婚してって。どうしてそんな事を言うのかって、何度も聞き返しました。結婚したいから、そんな事を言ってるのかって。俺、馬鹿みたいに。」

同じ状況だったら、俺も同じ事を言うと思う。

結婚したい女の、上等手段だって。

「違かったんです、美生は。俺の幸せを願ってだって。私はもう子供を持てないけれど、今のあなたなら間に合う。若い人と結婚して、子供を持ってと。」

俺は首を垂れた。

胸が痛かった。痛くて痛くて、仕方がなかった。
「俺はその言葉を鵜呑みにして、美生と別れてしまった。後悔しました。美生は俺の人生そのものだと、別れて知ったんです。」

何も言えなかった。何も。

励ます言葉や、藤間さんの気持ちを代弁するような、そんな言葉、何一つ言えなかった。

「その時に出会ったのが、妻の仁湖なんです。彼女はどこか、美生に似ていて……間違っていると思いながら、俺は仁湖と結婚しました。」

許せない。

けれど、仕方がない。

この人だって、別れたくて別れたんじゃない。

藤間さんだって、そうだ。

お互いの幸せの為に、別れを選んだんだ。

そうだ。

そうなんだ。
「だから先生。美生をどうか、助けて下さい。お願いです。お願いします。そうじゃなかったら、俺は、美生を……」

そう言って、宮古さんは泣き崩れた。


いつもだったら、ここで治してみせますとでも、言うんだ。

でも、この時は違った。

何より藤間さんの気持ちが、痛い程解って。

解かってしまって、彼女の虚しさとか。

無くしてしまった毎日だとか。希望だとか。

どうにもこうにも、俺は泣き崩れる宮古さんを、羨ましく見つめるしかなかったんだ。

「先生……」

「解ってます。」

藤間さんを、美生を本気で助けたいと思ったのは、この時だった。
その日は、久しぶりに眠れなかった。

ベッドの上で目を閉じても、藤間さんの顔が思い浮かんで、振り払っては浮かんできた。

「くそっ!」

どうしても眠れない俺は、キッチンに行って、水を一杯飲んだ。

一人の患者の為に、眠れないなんて。


胸が軋むように痛くて、手でシャツを握りしめた。

相手の人生を思う為に、自己を犠牲にして、その挙句に胃癌になるなんて。

悲しい。悲しすぎる。


そして、解っている。解っているんだ。

藤間さんの事を、いつの間にか、一人の女性として、俺が見ているという事実を。