その傘はもういらない

「どうぞ、お座り下さい。」

「はい。」

さて、どこから切り崩せばいいか。

「ええ……ご家族の方ですか?」

「いえ。美生のマネージャーです。」


マネージャー。

付いたばかりかな。

だとしたら、誤算かもしれない。


「マネージャーさんは、藤間さんの病名を知っていますか?」

「ええ。早期の胃癌だと。」

「手術すれば、治る病気だと言う事も。」

「そうですね。癌でも早期発見なら、治る可能性も高いと聞いた事があります。」
「では、藤間さんがその手術を断っていると言う事も。」

「はい。美生から聞いています。」


うーん。

とりあえず、一通りは知っているんだな。

しかも、手術を拒否している事も知っているって事は、かなり親しい間柄かもしれない。

分はあるかもしれないな。


「率直に申し上げて、どうお考えになりますか?」

「本心を言えば、前向きに治療してほしいです。美生はまだ、ウチの事務所のトップ女優ですから。」

「それを藤間さんに、説得した事は?」

「ありません。美生にはこれまで、苦労ばかりかけましたから、彼女が最後にしたいと言うのであれば、それを受け入れるだけです。」

しまった。

あくまで、女優とマネージャーという関係だけだったか。

「あの、藤間さんのご家族は?」

「いますけれど、あちらもお忙しいみたいで。」


その時だった。

藤間さんが苦しみだした。


「大丈夫ですか?藤間さん!」

「美生!?」

彼女を抱え、ストレッチャーに乗せると、急いで検査をした。

その結果は、最悪だった。

「ステージ3……」

彼女の胃癌は、はるかに早く進行していたのだ。

藤間さんが目を覚ましたのは、検査の後だった。

ステージ3では、今直ぐ入院してもらうしかない。

マネージャーの久慈さんの指示で、病院の最上階にある、個室に入ってもらった。


「藤間さん。大丈夫ですか。ここがどこだか、解りますか?」

「……病室ですか?」

藤間さんは、まだぼーっとしていた。

「藤間さん。検査の結果なんですが、胃がんはステージ3まで進行していました。このまま、入院してください。」

「入院……」

それを聞いても、まだ他人事のように、ぼーっとしている。


その時だった。

マネージャーの久慈さんが、藤間さんの荷物を持って、やってきた。
「美生。ちょうどドラマの撮影も、終わったところだし。入院しても大丈夫よ。」

「うん……」

恐ろしいな。

こんな体で、仕事をしていたのか。

「解りました。しばらく入院します。」

俺は、内心ほっとした。

入院すれば、きっと気持ちも前向きになるはず。

治療も、考えてくれるかもしれない。

「では久慈さん。入院の手続きを。」

「はい。」

一旦、藤間さんの元を離れた。

病室を出る時の、藤間さんのやつれた顔が、なんとも痛ましくて、しばらく心に残っていた。
翌日。藤間さんに手術の話をした。

けれど、彼女の意志は、変っていなかった。

「前にも言ったはずです。治療はしないと。」

相手に気づかれないように、ため息をついた。

「それは、お腹に傷ができるのが、嫌だからですか?」

「いいえ。私はもう苦しい思いをしてまで、生きていたくないんです。」

藤間さんは無表情だった。

安らかに微笑むでもなく、激しく怒るでもなく。

こう言っては何だけど、まるで観音様のようだ。

まだ、そんな事を言っているのか。

周りの患者は、助かりたくて、辛い治療を懸命に受けているというのに。

「藤間さん。何とか、手術は考えてくれませんか?」
すると藤間さんは、俺の事をちらっと見た。

「どうして盛岡先生は、そんなに手術を勧めるんですか?」

「あなたに、後悔して欲しくないからです。」

「後悔するかどうかは、私が決める事だわ。」

「病気はもう、ステージ3まできてるんです。助かりたいと思った時には、既に手遅れになるかもしれないんですよ?」

「安心してください。助かりたいなんて、思わないので。」

その軽く突っぱねる藤間さんの態度に、少しだけ人間味を感じた。

もしかして彼女。

自分の言った事に、引くに引けなくなってるのかな。

「藤間さん、余生を考える事はいい事だと思います。ただ、少し早すぎはしないですか?」

「そう言って、私に手術を受けさせようとしているんでしょ。」

俺はイライラするのを、必死に抑えていた。
しばらく経って、俺に珍しい客がやってきた。

「宮古朝陽と申します。」

「藤間さんの担当医の盛岡です。」

その名前に聞き覚えがあった。

確か、藤間さんと長年交際していたという、アイドル歌手だ。

「早速なんですが、先生にお願いがあるんです。」

「何でしょう。」

「美生を……助けて欲しいんです。」

彼の目には、涙が溜まっていた。

「俺は、美生の言う通り、家族を作りました。でも、美生は癌だって言うじゃないですか。俺は、美生に不幸になって欲しくない。誰よりも幸せになってほしいんです。」

藤間さんが、どういう気持ちで、彼に家族を作ってと言ったのかは分からない。

でもそれは、藤間さんも彼に誰よりも幸せになってほしいからなのではないかと、少しだけ思った。
藤間さんの元恋人だという宮古さんは、ポツポツと昔の事を話し始めた。

「美生とは、ドラマの撮影で知り合ったんです。俺が主人公で、美生がヒロインで……」

ありきたりな配役だなとは思ったけれど、そのドラマを観ていないのだから、とやかく言う事ではない。

「美生は、明るくて優しくて。俺は、すぐ彼女を好きになりました。ウチの事務所は、恋愛にうるさいんですけどね。直ぐに仲良くなって、勢いで告白したんです。そうしたら美生も嬉しいって……」

そう話たら、宮古さんは涙ぐんだ。

「なんで、あの時の気持ちを、思い出さなかったんですかね。お互い好き同士で付き合ったのに。なんで……」

その手の話は、俺は疎い。

彼女も、大学時代に付き合って、医者という仕事の忙しさにかまけて別れてしまった。

二人の言う長い春など、俺は味わった事がなかった。