寿永二年。この夏、平家が三種の神器を持ったまま幼い安徳帝を連れて西国へ落ちていったことで、天皇が京からいなくなってしまった。
 その後まもなく、後白河法皇があらたに四の宮を即位させ、わずか四歳の後鳥羽帝が誕生したが、京と西国とでふたりの天皇がいるという異様な事態は霜月に入ったいまも続いている。
 東国、鎌倉で征夷大将軍に命じられた源頼朝が率いる源氏の兵が平家討伐に向けて上洛してくるという噂はきこえてくるものの、京の治安は悪いままだ。
 それもこれも平家を追い落とし京入りした源義仲とその軍が治安維持を怠りあまつさえ盗賊まがいの行為をしているからだ。
 ……と、後白河法皇をはじめとした公家たちはいまになって悪態をついている。おまけに自分を見限り、従兄であり仇敵である頼朝に自分を追討させるなどというふざけた話まで義仲の耳に届いている。
 追捕の宣旨を受け、備中水島で平家軍と壮絶な戦をしていた義仲だが、自分が京にいない間にそのような事態に陥っていたとは思いもしなかった。寝耳に水だ。
「あのタヌキめ、なんでもかんでも俺のせいにしやがって! おまけに俺を追討するだと? 何考えてるんだ……」
 慌てて京に戻った義仲は、自分がかなり不利な立場にいることを知り、愕然とする。
 事実、比叡山と三井寺の下衆に対して義仲を討てとの院宣がくだされていた。法皇側も武力行使を厭わないとのことだろう。
 ……もはや法皇にとって俺は邪魔ものでしかないのか?
 義仲は苛立ちを隠すことなく、地団太を踏みながら法皇御所の前へ急ぐ。
「おい義仲。ほんとうに、法皇軍とやりあうのか?」
「あたりまえだ。法皇の野郎、これほどの大軍を持っていながら兵糧や秣を俺たちに融通しなかったんだぜ。略奪が悪いっていうなら最初から用意すりゃいいんだ。俺らが平家を京都から追っ払ったんだぞ! だというのに俺たちの軍を悪逆非道だ、退治してしまえと法皇の奴らは企てていやがる。完全に喧嘩を売られてるのはこっちだ。なぁ兼平、こりゃ買うっきゃねーだろ?」
 どっちにしろ、法皇がいる法住寺(ほうじゅじ)殿に義仲の乳兄弟である今井兼平(いまいのかねひら)もついてきているのだ。義仲が法皇とやりあうのを諫めはしたものの、怒り心頭の彼を止められるとは思ってはいないのだろう。苦笑を浮かべながらも結局義仲の言葉に頷き、配置につく。
「それに、ここで法皇を落とさねーと、迎えに行けないからな……」
 ようやく見つけたのだ、京都に隠れていた初恋の少女を。
「邪魔ものは排除する。それだけだ」
 彼女を手に入れるためなら政権だって奪ってやる。義仲はにっこりと場違いな笑みを浮かべ、鋭く鬨の声をあげる。
「火矢を放て!」
 そして、義仲軍は怒声を上げながら法住寺を焼き立て、突き進んでいく。
 迎え撃つ法皇軍はその勢いに圧倒され、逃げ惑うものが多数にのぼった。戦意を喪失しているものもいれば、味方同士でやりあっているものもいる。
 法皇軍とはいえしょせん僧兵や無頼漢の集まりだ。戦闘が始まれば統制も取れずに自滅するのが目に見えてくる。どさくさにまぎれて公卿たちの死体も築かれていく。
 炎に囲まれながらも膨大な殺戮に血を滾らせ鬼のように刀剣を振るう義仲の姿に、敵だけでなく味方ですら恐れをなしている。
「俺に刃向う人間は、滅びろ」
 法住寺が制圧されるのに時間はかからなかった。
 義仲は涼しげな表情で、戦場の終焉を一瞥し、つまらなそうに呟く。
鬼神(おにがみ)と呼ばれるこの俺に楯突こうったって、無謀なんだよ」
 外が騒がしい。
「姫様、けしてそこから離れませぬよう」
「わかっているわ。どうせ逃げることすらできない身ですもの」
 女房が妻戸をあけっぱなしにして大慌てで外の様子を見にぱたぱたと足音をたてながら(へや)から姿を消すのを見送り、少女はふぅと溜め息をつく。
 きっと彼女はもうここへは戻ってこないだろう。
 だって自分は多くの生き物を死に至らせる、鬼に憑かれた冬姫だから。
「でも、それでよかったのかも……」
 親しくなっていたら、来る冬に命を落とすのはきっと彼女だっただろうから。