梅花殿の宮女たちの朝は早い。専用の厨では日の出と同時に朝餉の準備が進められる。主である桃燕が目覚める前に朝餉、そして梅花殿の中にある庭園の手入れを行わなければならなかった。
その日も庭園の手入れをし、門を開け辺りの掃除を始めた。このあと朝餉を持っていくのがこの女官――林香雪の仕事だった。箒を手に持った香雪はふいに梅花殿の近くを通り抜ける人影に気付いた。袍衫を纏ってはいるが、あれは。
「主上?」
慌てて香雪は頭を下げ拱手の礼を取った。昨日、梅花殿を青藍が訪れたおかげで主である桃燕の機嫌は頗るよかった。翌日である今日も、それもこんな時間から青藍が訪れたと知ればきっと喜ぶだろう。
頭を下げる香雪に気付くことなく、侍従共々立ち去っていった。残念ながら梅花殿へ来たわけではなかったようだ。ため息を吐いていると、顔見知りの宦官が通りかかった。
「李大建!」
「ああ、なんだ香雪か」
香雪は左右を見回すと、大建に手招きをする。大建は不思議そうに首を傾げながら香雪の元へと向かってきた。
「どうした?」
「さっきここを主上が通りかかったの」
「後宮に主上がいたとしても不思議ではないだろ」
「そうではなくて! こんなに朝早くにいらっしゃるなんて変じゃない。まるで――」
その言葉の続きを香雪は口にすることを躊躇った。後宮からこんな時間に主上である青藍が立ち去るなど、理由は一つしかない。また、その相手が主である桃燕ではないことを香雪はよく知っていた。
こんな話を耳に入れればきっと桃燕は不機嫌になり、その苛つきをまた誰かにぶつけるのだろう。最近は梅花殿の宮女以外を標的にしているらしいが、何がきっかけでその標的が入れ替わるか、そして自分の方に向くかわからない。
変なことには首を突っ込まないに限る。
「ねえ。さっきの話、誰にも言わないでよ」
「なんで?」
「いいから。それが一番平和なの。わかった?」
「何がわかった、なのです?」
真後ろから聞こえた声に、香雪の喉がひゅっと鳴った。
この、声は。
恐る恐る振り返ると、そこにはこの梅花殿の主、黄桃燕の姿があった。
慌てて拱手の礼を取る香雪の頭上に、桃燕の冷たい声が降り注がれる。
「何が『わかった』なのかと聞いているのです」
「それ、は」
そもそもどうして桃燕がこんなところにいるというのか。いつもであれば自分の部屋で香雪たち女官が準備した朝餉を食べて――。その瞬間、自分のした失態に気付いた。桃燕も香雪が思い出したことに気付いたのか「ふう」と困ったようにため息を吐いた。
「いつもであれば準備されるはずの朝餉はなく、何故か女官たちはそわそわして落ち着かない様子。何があったのかと聞けば掃除に行ったはずの香雪が戻ってこないと。心配してきてみれば」
冷たい視線を香雪と、そして大建に向けた。その視線の意味を理解するまでに数秒かかり、わかった瞬間香雪は慌てて声を上げた。
「ち、違います。大建は偶然、先程通りかかって、その」
「香雪、あなたも女官とはいえ後宮の妃嬪の一人。何をしていたか今回は咎めませんが、身持ちをきちんとなさい。私の女官が宦官と逢瀬をしていたなど、ああ恥ずかしい」
「で、ですから」
香雪は泣きそうになりながら必死に否定する。このまま誤解されるぐらいなら、先程青藍を見かけたことを言ってしまおうか。しかし、そうすればこのあと桃燕の機嫌が悪くなることは目に見えている。しかも香雪が黙っていたことがわかり、叱責されること間違いない。
どうするのが正解なのか。香雪が悩んでいると、大建のしらっとした声が聞こえた。
「そういうのではございません。先程、そこを主上が通られたので、何があったのか確認しようと思って香雪は俺に声を掛けただけです」
「主上が? 嘘だったら承知しないわよ」
「本当ですよ。ただ、どこに行かれたのか自分にもわからず、香雪は不確定なことを黄昭儀様にお伝えする訳にもいかないと悩んでおりました」
大建の言葉に桃燕は少し考えるような表情を浮かべたあと、そばに控えていた桃燕の侍女の周笙鈴に耳打ちをした。
おそらく青藍が何処に向かったのか、何のために後宮に来ていたのかを探らせるのだろう。笙鈴は桃燕に頷くと梅花殿を出て行った。そして。
「香雪」
「は、はい」
桃燕の自分を呼ぶ声に香雪は姿勢を正した。
「今、この者が言ったことは本当?」
香雪の背中を冷たい汗が伝う。
嘘ではないが、全てが本当ではない。大建は香雪が桃燕に咎められないように、と真実に嘘を混ぜた。主に嘘をつくなど、有り得ない。有り得ないけれど。
「……はい」
「そう」
ぎゅっと握りしめた掌に爪が食い込んだのがわかった。桃燕は香雪の返答に少し考えてから言った。
「……次があれば自分で判断せず、誰かに報告しなさい」
「は、はい」
「それから」
桃燕は香雪に背中を向ける。襦裙の裾が翻り、裾に刺繍された蓮の花が舞い上がったように見えた。
香雪がそれに見惚れている間に桃燕は言葉を続ける。
「早く仕事に戻りなさい」
それだけ言うと桃燕は正殿へと戻っていった。呆けている香雪に「さっさと行け」と大建が声を掛ける。その声に慌てて立ち上がると、香雪は桃燕を追いかけた。
持ち場に戻ると先輩女官たちに頭を下げる。みんな「気にしなくていいよ」とか「怠けるならもっと上手くやりな」などと笑うので「違いますよ!」と慌てて否定した。
そのまま朝餉の片付けをして少し休憩していると、桃燕と笙鈴が庭を歩いているのが見えた。どこかに行くようで楽しそうに話している。拱手の礼を取り二人が通り過ぎるのを待っていると香雪の頭上で声がした。
「ねえ、香雪」
「は、はい」
その声は妙に機嫌良く聞こえた。恐る恐る顔を上げた香雪に桃燕は話を続ける。
「今朝のこと、あなたは本当に私に伝えようとしたのよね? まさかと思うけれど、主上が通りかかったことを私に言わずにおこうと思った、なんてことはないわよね」
香雪の頬を冷や汗が伝った。「違い、ます」と震える声で言うと、桃燕は納得したのかしないのか「ふーん?」とクスクス笑っていた。
「ねえ、私たち今から華鳳池に行くの」
「そう、なのですか」
「ええ。ちょっと楽しいことをしようと思ってね。香雪、あなたもどうかしら?」
本能的に一緒に行ってはいけないと、そう感じたが、主の命を一介の女官である香雪が断ることなんてできるわけがない。
「お供、致します」
香雪の返事に、桃燕は嬉しそうに口角を上げた。
梅花殿から程近くにある華鳳池。一周回るのに数刻はかかるその池の真ん中には島があり、華鳳亭が建っている。池の周りには花々が咲いていることもあり、ここで花見をすることもあるが、今日の桃燕たちは何の準備もしていない。ならば、そこで何をしようとしているのだろう。疑問はあるが、香雪には尋ねる権利などない。
暫く歩くと、桃燕の嬉しそうな声が聞こえた。
「いたわ」
その声に、何がいたのかと視線を動かす。もしかして、動物でも迷い込んでいたのだろうか。しかし、桃燕の視線の先にいたのは動物ではなく華鳳池の畔に座り込む女官の姿だった、あれは、確か。
「姜宝林をあなたは知っているかしら」
桃燕の言葉に香雪は頷いた。そうだ、姜水月だ。尚服局に属していて服飾を担当していた水月に、何度か桃燕の襦裙のことで相談に行ったことがあった。
「姜宝林様とお親しいのですか?」
楽しげにその名を口にする桃燕に香雪は尋ねた。
昭儀である桃燕と宝林である水月、二人の間に関係があるとも思えないが、もしかすると位階とは関係なく、親しくなるような何かが二人の間にはあったのかもしれない。
香雪の言葉に桃燕は可笑しそうに笑ってみせる。
「私が、姜宝林と? そんなことあるわけがないでしょう」
ならば何故、先程あんなふうに水月のことを見ていたのだろう。
不思議に思う香雪の疑問に答えることはなく、桃燕は言う。
「あの人に罪はないの。でも、友の罪はその人の罪も同然でしょう?」
その言葉に、水月が青藍のお気に入りである楊春麗と懇意にしていると耳に挟んだことを思い出した。
そうか、それで。ようやく得心がいった。友の罪、と桃燕は言った。つまり、春麗の無礼さを友である水月に償えとそういうことなのだ。
桃燕はにたりと笑うと、香雪の顔を覗き込んだ。
「今朝のこと、私はもう気にしていないのだけれど、女官たちの中にはあなたのことを疑っている者もいるわ。宦官と逢瀬をしていただけでなく、主である私に対し何かよからぬことを企んでいるのではないかって」
「そ、そんな! 私は何も!」
「わかっているわ。あなたがそんなことを思うわけがないって。あなたは私の忠実な女官だってね」
言外の意味がわかってしまった。香雪は震える手を反対の手で押さえつけると、桃燕に頭を下げた。
「何をすれば、よろしいでしょうか」
「ふふ、賢い子は好きよ。そうねえ。香雪、姜宝林を見て。あの人の頭に分不相応な簪がついていると思わない?」
言われてよく見ると、確かに水月の頭には何かの玉が埋め込まれた綺麗な簪があった。分不相応かどうかは別として、あの玉が本物だとすればかなり高価な簪だ。
「宝林の頭にあんなものいらないわよね」
「そう、ですね。桃燕様に献上するように伝えましょうか」
「私はあんなものいらないわ」
吐き捨てるように言われ、香雪は答えを間違えたことに気付く。そうだ、桃燕はあれが欲しいわけではない。水月があの簪をつけていることが気に食わないのだ。
「失礼致しました。それでは、あの簪を二度と付けることができないようにする、というのはいかがでしょうか」
「ふうん? どうするの?」
嬉しそうに言う桃燕の姿に、香雪は昔見た光景を思い出した。
下級官吏の娘である香雪の実家は庶民と大差ない暮らしをしていた。山に入り、庶民の子供たちと一緒に山菜採りをすることもあった。
山には山菜だけでなく野ウサギや雉もいて大人たちが狩りをしていたため、至る所に罠が仕掛けられていた。
ある日、いつものように香雪たちが山に入ると、罠の中に一匹の仔ギツネがいた。あまりの可愛さに香雪は罠から出してやりたくなったほどだ。しかし、周りの子供たちの反応は違っていた。一人が木の枝を取ってくると、罠の隙間から仔ギツネに突き刺した。嫌がる様子を見て子供たちは笑う。一人、また一人と枝を持ってきては仔ギツネを枝で突き刺す。避ければ怒り、悲鳴のような鳴き声を上げれば手を叩いて笑う。抵抗できないモノを甚振り笑う姿に、香雪は幼いながらに人間の恐ろしさを学んだ。
目の前にいる桃燕は、その時の子供たちと同じ表情を浮かべていた。そして情けないことに、あの時もそしても今も、香雪は止めることができないままだった。
「簪を、華鳳池に投げてしまおうかと思います」
それどころか、率先して甚振る役をやろうとしているのだ。自分の意思ではないと、逆らえないのだと言い訳までして。
「まあ、神聖なる華鳳池に簪を投げ込むなんて」
「あ、も、申し訳ございません」
お気に召さなかったのか、と慌てて謝罪する香雪に、桃燕は満面の笑みを浮かべた。
「なんて楽しそうなことを思いつくのかしら」
「え?」
「取りに入りでもしたら、一大事だわ。内侍に言って処分して頂かなければならないわね」
そうなれば嬉しいと言わんばかりの反応に、香雪は胸をなで下ろした。
「私はここで見ているわ」
桃燕はいつの間に準備をさせたのか、笙鈴が用意した敷物の上に腰を下ろした。木陰のそこは、ちょうど水月のいる場所が一望できる場所だった。
もう後には引けない。ごくりと唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえた。小さく息を吐き出すと、香雪は水月のいる場所に向かって歩き出した。
「姜宝林様」
「え?」
香雪の声に、水月は驚いたように顔を上げた。
一瞬、考えるような表情を浮かべたあと「林香雪様、でしたかしら?」と香雪の名を呼んだ。
「ええ、そうです。こんなところでどうされたのですか?」
「あ、いえ。その、華鳳池を見ていました」
質問と答えがかみ合っていない気がするが「そうですか」と香雪は微笑んだ。隣にしゃがみ込むと、水月と視線の高さを合わせ華鳳池を見る。
「何か面白いものでもありましたか?」
「面白いもの……。いえ、魚が泳いでいたぐらいです」
「魚……」
そんなものを見て何が楽しいのか香雪にはわからない。そっと視線を元いた場所に向けると、笑顔を浮かべる桃燕の姿が見えた。笑っているはずなのにどうしてだろう。「さっさとやりなさい」と言われている気になるのは。
香雪は水月の頭に視線を向けると、不自然にならないように口を開く。
「あら。姜宝林様、素敵な簪をつけていらっしゃいますね」
「え、あの」
「ご実家からですか?」
香雪の問い掛けに、少し躊躇ったあと、水月は首を振った。
「いえ、あの、頂き物、なのです」
「そう、なのですね」
意外だった。水月に簪を送るような相手がいただなんて。遠目で見ていた時も玉が高価そうだと思ったけれど、近くで見ると玉だけでなく施された細工まで美しいそれは、香雪はもちろん、水月が持つにも分不相応なものだ。
そこまで考えて、もしかしたらこれは春麗と仲がいいということで青藍から賜ったのではないかと思いついた。
だからこそ、桃燕の怒りを買ったのだと。付き合う人を選ばないからこんなことになってしまうのだ。
――だから、私は悪くない。これは仕方ないことなのだ。
香雪は自分に言い聞かせると、笑顔を浮かべた。
「そんな素敵な簪をくださるなんて素敵な方ですね」
わざとらしい香雪の言葉にも水月は嬉しそうに「はい」とはにかんだ。
「でも本当に素敵ですね。私には一生かかっても手にできないような簪です」
悲しそうに言う香雪に、水月は戸惑いを隠せない。基本的に水月はいい人なのだ。
知り合うきっかけとなったあの時も、桃燕の襦裙の汚れが落とせないと落ち込んでいた香雪に、「手伝いましょうか?」と、水月は声を掛けてくれた。他の女官たちは、同じ宮の者でさえ見て見ぬふりをしていたというのに、それまで一度も話したことのなかった水月だけが優しかった。。
だから香雪はわかっていた。
「一度でいいから、手に取って見てみたい……」
悲しげに言う香雪に対して、水月がどういう答えを返すかを。
「……手に取って、みますか?」
「いいのですか?」
「はい」
パッと顔を輝かせて見せた香雪に、水月は器用に簪を外すとその手に載せてくれた。
簪は金でできており、先端に薄い桃色の玉が埋め込まれている。飾りにしてある細工を見ても、玉を見てもそれがどれほど高価なものか一目でわかった。
簪を持つ香雪の手が震える。これを今から、華鳳池に投げ込むのだ。
「香雪様?」
簪を見つめたまま黙り込んでしまった香雪に、どうしたのかと水月は首を傾げる。それは、簪がどうかされるのではという不安ではなく、純粋に香雪を心配してのものだった。
香雪の胸に罪悪感が広がる。けれどもう、後戻りはできない。
簪をぎゅっと握りしめると、勢いよく香雪は立ち上がった。そして――。
「っ――」
力一杯、腕を振り上げると簪を華鳳池に投げ込んだ。
隣で、水月が息を飲んだのがわかったが、香雪はそちらを見ることができなかった。
***
もう一度、桃燕と話をしよう。青藍が槐殿をあとにし、一人になった春麗は佳蓉に結ってもらった頭に刺さる簪に触れた。
水月に渡したものと対になる簪。薄い水色の玉がついたこれを、本来であれば水月に贈るはずだった。それが、とっさに渡したことで簪が逆になってしまったのだが、これはこれでいいのではないかと思っていた。
水月を連想させる玉のついた簪を春麗が、春麗を連想させる玉のついた簪を水月が持つ。これほど素敵なこともないだろう。
水月は渡した簪を使ってくれているだろうか。
「使ってくれているといいなぁ」
きっとあの簪は水月に似合うと思う。桃燕のことを解決して、また前のように水月と共に過ごせるように、今は頑張らなければ。
佳蓉と共に梅花殿へと向かう道すがら、華鳳池を通りかかった時のことだった。どこからか誰かの笑い声が聞こえた。
聞き覚えのあるその声に辺りを見回すと、木陰に桃燕とその侍女の姿があった。敷物を敷いているところを見ると、華鳳池の畔で花見でもしているのだろうか。
梅花殿まで向かわなければ、と思っていたので、その手前にある華鳳池で会えたのはちょうどよかった。
「黄昭儀様」
どうやら桃燕は春麗に気付いていなかったようで、声を掛けると驚いた表情でこちらを振り返った。何かを言おうとするかのように口を開いた桃燕は、何故か満面の笑みを浮かべた。
「あら、楊春麗様。こんなところでどうされたのですか?」
「えっと」
今から桃燕に会いに行くところだった、と言えば桃燕は機嫌を損ねるかもしれない。何が理由かはわからなかったが、せっかく機嫌がいいのだ。このまま穏便に話を進めたい。
「黄昭儀様は何をなさっていらっしゃったのですか?」
「私? ふふ、私は見ての通りここで花見をしていました。今日は風が涼しいので、こうやって木陰で過ごすのが心地いいのです」
おかしい。今日の桃燕は徹底的に機嫌がいいようだ。そしてそれは、春麗にとって好都合だった。このまま水月への嫌がらせの件に話を移してやめてもらうように頼もう。青藍の言った三日目は今日なのだ。これ以上の猶予はない。
「あの」と、春麗が話を切り出した時、可笑しそうに桃燕は華鳳池の畔を指さした。
「ほら、他にもいらしてる方がおられますわ。ですが、あの方は少し羽目を外しすぎているようですわ」
「え?」
その言葉に導かれるようにして春麗は華鳳池の畔に視線を向けた。そこには口元を押さえ呆然と華鳳池を見つめる女官とそれから――。
「水月、様……っ」
襦裙姿のまま、華鳳池の中央へと進んでいく水月の姿があった。水の中に入っていく姿にも驚きを隠せなかったが、それ以上に水月の顔に浮かぶ死の文字を見て春麗は言葉を失った。
「どうして……」
昨日会った時は水月に死の文字は見えてはいなかった。それなのに今は黒々とした文字で『水死』と書かれているのが見える。このままでは水月は、あの冷たい池の中で、死ぬ。
春麗の『どうして』という言葉を、何故水月が華鳳池へと入っているのか、という意味に受け取ったのだろう。
心配そうな口調ではあるが、冷笑を浮かべた頬に指を当て、首を傾げながら桃燕は言う。
「どうやら先程、何かを池に落とされたようです。大事なものだったのでしょうか」
「何かって……」
一体何を落とせば、あんなふうに池の中に入っていってしまうのか。いや、それよりも落としただけならあんなに中まで入っていく必要はない。手を滑らせただけであれば浅瀬に落ちているはずだ。
「頭を押さえていたので何か装飾品を落とされたのかもしれませんね。櫛、もしくは――簪、とか」
「……まさか」
さすがにそこまでのことをするわけがない。そう思いたかったが、桃燕の表情を見た瞬間、春麗の手は震えた。その表情を春麗はよく知っている。そう、それは花琳が春麗を嬲る時と同じ、意地悪くけれど楽しくてしょうがないというような表情だった。
「嘘、ですよね」
「何のことでしょう? 私にはさっぱりわかりませんが」
「あなたがやったのですか?」
「ですから何のことでしょう? それ以上は不敬ですよ」
咎めるような桃燕の言葉を無視すると、春麗は震える手を握りしめ水月の方へと向かった。
池の畔に立つ女官は「お戻りください!」と泣きそうな声で水月に呼び掛けていた。
「何があったの⁉」
「よ、楊春麗様……」
「水月様に何があったの!」
「わ、私は……何も……」
「もういい!」
「春麗様! いけません!」
佳蓉の静止を無視すると、春麗は水月を追いかけて華鳳池の中へと入った。浅く見えたがすぐに水嵩は春麗の胸元まで達した。足下は滑りやすく笏頭履では歩きにくくて仕方がなかった。それでも、春麗は水月の元へと必死に歩いた。
「水月様! 戻ってきてください! 水月様!」
一瞬、水月の動きが止まった気がしたが、振り返ることなく水月は進んでいく。春麗もそのあとを必死に追いかけた。
足下に何かが触れ、身の毛がよだつ。水を吸った襦裙はあまりに重く歩きにくい。それでも今ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
池の中央辺りまできた頃、ようやく水月が歩みを止めた。いや、歩みを止めたというより、あれは――。
「水月様!」
力尽きたのか、それとも何かに足を取られたのか、水月の身体が力なく水中へと沈んでいった。
「あ……あぁ……っ」
背筋が凍り付き、全身が震えて足が動かなくなった。水月の顔面に見えた死の文字が頭を過った。
このままではきっと、水月は水死してしまう。そしてそれを春麗は、何もできないまま、この場所からただ見ているだけ――。
『お前のおかげだ』
瞬間、春麗の耳に、青藍の言葉が聞こえた気がした。
そうだ、この力は人の死を予言するためだけじゃなくて、死を回避することも、できる。
「待ってて下さい……っ」
春麗はどうにか必死に水月の沈んだ場所までたどり着くと、躊躇うことなく水中に身体を沈めた。
どこ……。水月様、どこに……。
「……っ!」
春麗の手が、水月の肩を掴んだ。
「水月様!」
「げほっ……ごほっ……。ぐっ……はっ……」
「水月様! 大丈夫ですか!? 水月様!」
「しゅん、れ、い……さ、ま……」
「よか……った……」
びしょ濡れになり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で水月は春麗を見上げる。その顔からは、死の文字は消えていた。春麗はほうっと息を吐いた。どうやら水月の死は回避できたようだった。
春麗の腕を必死に掴む水月の手には、春麗の髪に刺さる簪と対になるものがあった。
やはり桃燕はこれを華鳳池に投げたのだ。いや、投げたのは池の畔に立ち尽くしていた女官かも知れない。
けれど、命令し投げ入れさせたのは間違いなく桃燕だ。
「水月様、戻りましょう」
春麗の言葉に水月は無言のまま頷いた。震える肩をそっと抱き、春麗は水月と共にゆっくりと畔へと戻っていく。
「申し訳、ありま、せん」
「水月様は何も悪くありません」
「ですが……私は……」
水月の濡れた頬に涙が伝う。その姿に春麗は怒りを覚えた。これほどまでに誰かを憎いと思ったことは初めてだった。
父や義母、花琳にどれほどのことをされても、これほどの怒りを感じたことはなかった。
佳蓉に手を引いてもらい、春麗と水月はなんとか池から這い上がった。そこにはもう、あの女官の姿はなかった。
「ありがとう」と佳蓉に伝え、水月に付き添うよう頼んだ。
「春麗様は……」
「私にはまだしなければいけないことがあるから」
春麗は真っ直ぐに桃燕たちの元へと向かった。
「黄桃燕」
「誰に口を――」
きいているのです、そう続けるつもりだったのだろう。しかし、桃燕が言うよりも早く、春麗はその頬を叩いた。ヒリヒリとした痛みを右の掌に感じた。
叩かれた桃燕は、自分自身に何が起きたのか理解できていないようで、左の頬を押さえ、呆然と春麗に視線を向けた。
「なに、を」
「何をするの、ですか? それはこちらの言葉です」
「桃燕様!」
侍女が慌てて桃燕と春麗の間に立ち塞がろうとしたが、春麗はその身体を押しのけ、桃燕の真正面に立った。
「あなたは自分が何をしたか、何をさせたかおわかりではないのですか? 一歩間違えば、水月様は死ぬところだったのですよ。私に文句があるのであれば、直接私に言ったらいいでしょう! 関係のない水月様を巻き込まないで! 次に水月様に何かしたら、私はあなたを決して許さない!」
怒鳴る春麗に「な、なによ」と桃燕は言い返そうとしたが、騒ぎを聞きつけ女官や宦官が集まってくるのに気付いた侍女は、分が悪いと思ったのか「戻りましょう」と桃燕を連れその場をあとにした。
「春麗様……」
初めての怒りに興奮が冷めやらないまま立ち尽くす春麗に、水月が声を掛けた。その声に春麗は、ようやく我に返った。
「水月、様」
「春麗様、私……」
今にも泣き出しそうな春麗と、涙を流し続ける水月。そんな二人に佳蓉は微笑みながら言った。
「ここでは目立ちすぎますので、姜宝林様に槐殿へとお越し頂く、というのはいかがでしょうか」
佳蓉の提案に春麗は「来て頂けますか?」と自信なさげに水月に言う。水月は躊躇いながらも「ありがとうございます」ともう一度涙を流した。
槐殿に戻った春麗たちは、佳蓉が準備した湯に順番に入った。先にどうぞ、という春麗に対し水月は頑なに「私はあとで大丈夫です」と譲ることはなかった。
水月が沐浴を終え、二人で小卓に向かい合った。こうやって二人で向かい合うのはいつぶりだろう。そんなに日は経っていないはずなのに、随分と久しぶりに思えた。
無言のまま、茶に手を付けることもなく俯き続ける水月に、春麗は頭を下げた。
「水月様、申し訳ございませんでした」
「え、な、何をなさっているのですか。おやめください」
「私のせいで水月様の身を危険にさらしてしまって……。黄昭儀様からの嫌がらせも……。本当に申し訳ございません」
こんなことなら、最初から青藍に任せておけばよかった。春麗が取った勝手な行動のせいで桃燕からの嫌がらせを悪化させ、ついには……。
「水月様の身に、何かあったらと思うと……」
「……私の方こそ、素直に頼ることができず申し訳ございませんでした」
「そんな! 水月様は何も悪くないです!」
「いえ、春麗様が何かあったのかとおっしゃってくださった時に素直に言っておけがこんな……。私が不用意な行動をとったせいで、春麗様まで危険な目に遭わせてしまって……。何かあったらと思うと、私は……」
「水月様……」
春麗は顔を上げると、小卓の上で指を組む水月の手にそっと自分の手を重ねた。水月の手は沐浴後とは思えない程冷たかった。
春麗の行動に、驚いたように水月は春麗の顔を見つめた。
「私は大丈夫です。……水月様が、ずっと守ってくださったから」
「私は……何も……」
「私のことを守るために、ずっと黄昭儀様からの嫌がらせに、耐えてくださってたんですよね」
春麗の言葉に、水月は項垂れた。
「黄昭儀様から春麗様に言いつければ標的を私から春麗様に変えると言われておりました。それであんなふうな態度を……。本当に申し訳ありません」
やはり水月は脅されていた。そして春麗を守るために今まで一人で耐えてきたのだ。
重ねた手をギュッと握りしめると、春麗は涙が溢れそうになるのを必死に堪え、水月に微笑みかけた。
「守ってくださって、ありがとう」
春麗の言葉に少し驚いたような表情を浮かべ、それから水月も涙を拭うと頬笑んだ。
「わた、し……こそ、ありがとう」
桃燕のしたことは絶対に許せないが、ようやく水月と本当の意味での友達になれた気がする。
冷たかったはずの水月の手は、今では春麗と同じぐらい温かかった。
その日、夕餉を終えた頃、槐殿を青藍が訪れた。長椅子に座ると、青藍はおかしそうに笑った。
「今日、黄桃燕と一悶着あったんだって?」
「ご存じなのですか?」
青藍の言葉に春麗は驚いたが、青藍は当然とばかりに言った。
「ここ後宮は俺のものだ。知らないわけがないだろう」
「あ……」
「と、いうのは半分嘘だ。先程、黄桃燕が俺のところにやってきた」
長椅子の背に身体をもたれ掛かけると、隣に座れと言うように春麗の手を引いた。誘われるまま、春麗は青藍の隣に腰を下ろした。
「黄昭儀様が、ですか?」
青藍の元に行くためには許可を取る必要がある。許可を取ってまで行くほどの理由と言えば。
「お前に殴られたと。後宮内にあんな乱暴者を置いておくなど信じられない。今すぐ追い出して欲しいと。凄い剣幕だったぞ」
「すみません……。叩いたのは本当のことです。処分は如何様にも」
後宮で暴力沙汰を起こしたのだ。謹慎や下手をすれば追い出されることもあるだろう。あの時は頭に血が上っていてそこまで考えられなかったが、今思えばそうなっても仕方のないことをしたと思う。しかし。
「処分されるとわかっていたとしても、同じことをしたか?」
青藍は真っ直ぐに春麗を見ると尋ねた。青藍の問い掛けに、春麗は迷いなく頷いた。
「はい」
「そうか」
春麗の答えに、青藍は喉を鳴らして笑った。その態度の意味がわからず、春麗は恐る恐る青藍に尋ねた。
「あの、それで、私の処分は……」
しかし、青藍は何をおかしなことを言っているのだと言わんばかりに平然と答えた。
「処分などあるわけがないだろう」
「で、ですが、後宮内を騒がせたことも、それから黄昭儀様に狼藉を働いたことも事実で」
「ああ、それだがな。叩かれても仕方がないことをした黄桃燕が悪いと言っておいた」
「な、え?」
「それに春麗がしたことを咎めるのであれば、黄桃燕が今までにしてきたことも咎める必要があるなと言ったら何も言えなくなっていたぞ」
言われてみれば確かにそうだが、位階が上の者が下の者に対してしたことと、その逆とでは大きく意味合いが変わってくる。無位の春麗が桃燕に対してしたことがお咎めなしというのは周りからしても受け入れられないのではないか。たとえ桃燕がしたことがきっかけだとしても、だ。
不安そうな表情を浮かべる春麗の肩をそっと抱くと、青藍は自分の方に引き寄せた。
「俺が何も言わせないから大丈夫だ」
「主上……」
青藍が大丈夫だと言えば、本当に大丈夫なのだろう。
「…………」
「どうした?」
ふいに黙り込んだ春麗に、青藍は眉をひそめた。
「結局、主上に助けてもらわなければ、私一人では何もできませんでした」
偉そうなことを言ったわりに、桃燕を説得することも改心させることもできず、水月を傷つけ、最終的には青藍にも迷惑をかけることになってしまった。
それなら最初から全てを青藍に任せておけば、あんなふうに水月を危険な目に遭わせることもなかったのだ。
「私の自己満足のせいでみんなに迷惑をかけてしまいました」
「それがどうした」
「え?」
思いも寄らない青藍の言葉に、春麗は顔を上げた。そこには不思議そうに春麗を見下ろす青藍の姿があった。
「迷惑をかけたからなんだというのだ。お前はお前なりに友を守ろうとした。自分の意思で行動した。それの何が悪い」
「で、ですが私が何もせず、主上にお任せしていれば……」
「確かにその方が早くことは解決したかもしれない。姜水月も華鳳池の中に入らずとも済んだかもしれない。だが、俺は何もしなかった。何故かわかるか?」
「私が、自分で解決することを、選んだから」
「そうだ。春麗、自分の意思で動くということは、必ず責任も伴う。だがな、責任を恐れるが故に自分の意思で何もしないような人間は俺は嫌いだ。失敗してもいい。生きているのだから失敗したとしても必ず挽回できる。死んだように何もしないで生きているより、心配し足掻くことになってもその方がよほど人間らしいと俺は思う」
青藍の言葉に、春麗の頬をいつの間にか涙が伝い落ちていた。
後宮に来るまでの春麗は、ただ生きているだけだった。自分の意思もなく死んだように生きていた。それでいいと思っていた。
「責任は、どうやって取れば、いいのでしょうか」
春麗が取った行動により、水月はたくさんの嫌がらせを受けた。
その責任を、春麗はどうやって取ればいいのかわからない。
春麗の言葉に、青藍は笑う。
「姜水月が何を望んでいるのか、それはお前が一番よくわかっているのではないか」
「水月様の、望むこと?」
「質問を変えるぞ。お前は姜水月に何を望む? 今回のことで姜水月が責任を感じ、心を痛めているとしたらどうして欲しい」
春麗が助けたことで、水月が責任を感じているとしたら。責任なんてを感じて欲しくない。ただ――。
「笑っていて、欲しいです。悲しい顔をさせたいわけじゃない。ただ一緒に笑い合って、それで」
「同じことを、姜水月も思っているのではないか?」
「え?」
青藍は優しい瞳で春麗を見つめた。翡翠色の瞳に映る自分自身の姿が見えた。
「友は合鏡なのだと、老師は言っていた。お前がそう望むのなら、きっと姜水月もそう思っているはずだ」
「そうなの、でしょうか」
「俺の言うことが信じられないのか?」
慌てて首を振る春麗に、青藍は唇の端を上げて笑った。
その日も庭園の手入れをし、門を開け辺りの掃除を始めた。このあと朝餉を持っていくのがこの女官――林香雪の仕事だった。箒を手に持った香雪はふいに梅花殿の近くを通り抜ける人影に気付いた。袍衫を纏ってはいるが、あれは。
「主上?」
慌てて香雪は頭を下げ拱手の礼を取った。昨日、梅花殿を青藍が訪れたおかげで主である桃燕の機嫌は頗るよかった。翌日である今日も、それもこんな時間から青藍が訪れたと知ればきっと喜ぶだろう。
頭を下げる香雪に気付くことなく、侍従共々立ち去っていった。残念ながら梅花殿へ来たわけではなかったようだ。ため息を吐いていると、顔見知りの宦官が通りかかった。
「李大建!」
「ああ、なんだ香雪か」
香雪は左右を見回すと、大建に手招きをする。大建は不思議そうに首を傾げながら香雪の元へと向かってきた。
「どうした?」
「さっきここを主上が通りかかったの」
「後宮に主上がいたとしても不思議ではないだろ」
「そうではなくて! こんなに朝早くにいらっしゃるなんて変じゃない。まるで――」
その言葉の続きを香雪は口にすることを躊躇った。後宮からこんな時間に主上である青藍が立ち去るなど、理由は一つしかない。また、その相手が主である桃燕ではないことを香雪はよく知っていた。
こんな話を耳に入れればきっと桃燕は不機嫌になり、その苛つきをまた誰かにぶつけるのだろう。最近は梅花殿の宮女以外を標的にしているらしいが、何がきっかけでその標的が入れ替わるか、そして自分の方に向くかわからない。
変なことには首を突っ込まないに限る。
「ねえ。さっきの話、誰にも言わないでよ」
「なんで?」
「いいから。それが一番平和なの。わかった?」
「何がわかった、なのです?」
真後ろから聞こえた声に、香雪の喉がひゅっと鳴った。
この、声は。
恐る恐る振り返ると、そこにはこの梅花殿の主、黄桃燕の姿があった。
慌てて拱手の礼を取る香雪の頭上に、桃燕の冷たい声が降り注がれる。
「何が『わかった』なのかと聞いているのです」
「それ、は」
そもそもどうして桃燕がこんなところにいるというのか。いつもであれば自分の部屋で香雪たち女官が準備した朝餉を食べて――。その瞬間、自分のした失態に気付いた。桃燕も香雪が思い出したことに気付いたのか「ふう」と困ったようにため息を吐いた。
「いつもであれば準備されるはずの朝餉はなく、何故か女官たちはそわそわして落ち着かない様子。何があったのかと聞けば掃除に行ったはずの香雪が戻ってこないと。心配してきてみれば」
冷たい視線を香雪と、そして大建に向けた。その視線の意味を理解するまでに数秒かかり、わかった瞬間香雪は慌てて声を上げた。
「ち、違います。大建は偶然、先程通りかかって、その」
「香雪、あなたも女官とはいえ後宮の妃嬪の一人。何をしていたか今回は咎めませんが、身持ちをきちんとなさい。私の女官が宦官と逢瀬をしていたなど、ああ恥ずかしい」
「で、ですから」
香雪は泣きそうになりながら必死に否定する。このまま誤解されるぐらいなら、先程青藍を見かけたことを言ってしまおうか。しかし、そうすればこのあと桃燕の機嫌が悪くなることは目に見えている。しかも香雪が黙っていたことがわかり、叱責されること間違いない。
どうするのが正解なのか。香雪が悩んでいると、大建のしらっとした声が聞こえた。
「そういうのではございません。先程、そこを主上が通られたので、何があったのか確認しようと思って香雪は俺に声を掛けただけです」
「主上が? 嘘だったら承知しないわよ」
「本当ですよ。ただ、どこに行かれたのか自分にもわからず、香雪は不確定なことを黄昭儀様にお伝えする訳にもいかないと悩んでおりました」
大建の言葉に桃燕は少し考えるような表情を浮かべたあと、そばに控えていた桃燕の侍女の周笙鈴に耳打ちをした。
おそらく青藍が何処に向かったのか、何のために後宮に来ていたのかを探らせるのだろう。笙鈴は桃燕に頷くと梅花殿を出て行った。そして。
「香雪」
「は、はい」
桃燕の自分を呼ぶ声に香雪は姿勢を正した。
「今、この者が言ったことは本当?」
香雪の背中を冷たい汗が伝う。
嘘ではないが、全てが本当ではない。大建は香雪が桃燕に咎められないように、と真実に嘘を混ぜた。主に嘘をつくなど、有り得ない。有り得ないけれど。
「……はい」
「そう」
ぎゅっと握りしめた掌に爪が食い込んだのがわかった。桃燕は香雪の返答に少し考えてから言った。
「……次があれば自分で判断せず、誰かに報告しなさい」
「は、はい」
「それから」
桃燕は香雪に背中を向ける。襦裙の裾が翻り、裾に刺繍された蓮の花が舞い上がったように見えた。
香雪がそれに見惚れている間に桃燕は言葉を続ける。
「早く仕事に戻りなさい」
それだけ言うと桃燕は正殿へと戻っていった。呆けている香雪に「さっさと行け」と大建が声を掛ける。その声に慌てて立ち上がると、香雪は桃燕を追いかけた。
持ち場に戻ると先輩女官たちに頭を下げる。みんな「気にしなくていいよ」とか「怠けるならもっと上手くやりな」などと笑うので「違いますよ!」と慌てて否定した。
そのまま朝餉の片付けをして少し休憩していると、桃燕と笙鈴が庭を歩いているのが見えた。どこかに行くようで楽しそうに話している。拱手の礼を取り二人が通り過ぎるのを待っていると香雪の頭上で声がした。
「ねえ、香雪」
「は、はい」
その声は妙に機嫌良く聞こえた。恐る恐る顔を上げた香雪に桃燕は話を続ける。
「今朝のこと、あなたは本当に私に伝えようとしたのよね? まさかと思うけれど、主上が通りかかったことを私に言わずにおこうと思った、なんてことはないわよね」
香雪の頬を冷や汗が伝った。「違い、ます」と震える声で言うと、桃燕は納得したのかしないのか「ふーん?」とクスクス笑っていた。
「ねえ、私たち今から華鳳池に行くの」
「そう、なのですか」
「ええ。ちょっと楽しいことをしようと思ってね。香雪、あなたもどうかしら?」
本能的に一緒に行ってはいけないと、そう感じたが、主の命を一介の女官である香雪が断ることなんてできるわけがない。
「お供、致します」
香雪の返事に、桃燕は嬉しそうに口角を上げた。
梅花殿から程近くにある華鳳池。一周回るのに数刻はかかるその池の真ん中には島があり、華鳳亭が建っている。池の周りには花々が咲いていることもあり、ここで花見をすることもあるが、今日の桃燕たちは何の準備もしていない。ならば、そこで何をしようとしているのだろう。疑問はあるが、香雪には尋ねる権利などない。
暫く歩くと、桃燕の嬉しそうな声が聞こえた。
「いたわ」
その声に、何がいたのかと視線を動かす。もしかして、動物でも迷い込んでいたのだろうか。しかし、桃燕の視線の先にいたのは動物ではなく華鳳池の畔に座り込む女官の姿だった、あれは、確か。
「姜宝林をあなたは知っているかしら」
桃燕の言葉に香雪は頷いた。そうだ、姜水月だ。尚服局に属していて服飾を担当していた水月に、何度か桃燕の襦裙のことで相談に行ったことがあった。
「姜宝林様とお親しいのですか?」
楽しげにその名を口にする桃燕に香雪は尋ねた。
昭儀である桃燕と宝林である水月、二人の間に関係があるとも思えないが、もしかすると位階とは関係なく、親しくなるような何かが二人の間にはあったのかもしれない。
香雪の言葉に桃燕は可笑しそうに笑ってみせる。
「私が、姜宝林と? そんなことあるわけがないでしょう」
ならば何故、先程あんなふうに水月のことを見ていたのだろう。
不思議に思う香雪の疑問に答えることはなく、桃燕は言う。
「あの人に罪はないの。でも、友の罪はその人の罪も同然でしょう?」
その言葉に、水月が青藍のお気に入りである楊春麗と懇意にしていると耳に挟んだことを思い出した。
そうか、それで。ようやく得心がいった。友の罪、と桃燕は言った。つまり、春麗の無礼さを友である水月に償えとそういうことなのだ。
桃燕はにたりと笑うと、香雪の顔を覗き込んだ。
「今朝のこと、私はもう気にしていないのだけれど、女官たちの中にはあなたのことを疑っている者もいるわ。宦官と逢瀬をしていただけでなく、主である私に対し何かよからぬことを企んでいるのではないかって」
「そ、そんな! 私は何も!」
「わかっているわ。あなたがそんなことを思うわけがないって。あなたは私の忠実な女官だってね」
言外の意味がわかってしまった。香雪は震える手を反対の手で押さえつけると、桃燕に頭を下げた。
「何をすれば、よろしいでしょうか」
「ふふ、賢い子は好きよ。そうねえ。香雪、姜宝林を見て。あの人の頭に分不相応な簪がついていると思わない?」
言われてよく見ると、確かに水月の頭には何かの玉が埋め込まれた綺麗な簪があった。分不相応かどうかは別として、あの玉が本物だとすればかなり高価な簪だ。
「宝林の頭にあんなものいらないわよね」
「そう、ですね。桃燕様に献上するように伝えましょうか」
「私はあんなものいらないわ」
吐き捨てるように言われ、香雪は答えを間違えたことに気付く。そうだ、桃燕はあれが欲しいわけではない。水月があの簪をつけていることが気に食わないのだ。
「失礼致しました。それでは、あの簪を二度と付けることができないようにする、というのはいかがでしょうか」
「ふうん? どうするの?」
嬉しそうに言う桃燕の姿に、香雪は昔見た光景を思い出した。
下級官吏の娘である香雪の実家は庶民と大差ない暮らしをしていた。山に入り、庶民の子供たちと一緒に山菜採りをすることもあった。
山には山菜だけでなく野ウサギや雉もいて大人たちが狩りをしていたため、至る所に罠が仕掛けられていた。
ある日、いつものように香雪たちが山に入ると、罠の中に一匹の仔ギツネがいた。あまりの可愛さに香雪は罠から出してやりたくなったほどだ。しかし、周りの子供たちの反応は違っていた。一人が木の枝を取ってくると、罠の隙間から仔ギツネに突き刺した。嫌がる様子を見て子供たちは笑う。一人、また一人と枝を持ってきては仔ギツネを枝で突き刺す。避ければ怒り、悲鳴のような鳴き声を上げれば手を叩いて笑う。抵抗できないモノを甚振り笑う姿に、香雪は幼いながらに人間の恐ろしさを学んだ。
目の前にいる桃燕は、その時の子供たちと同じ表情を浮かべていた。そして情けないことに、あの時もそしても今も、香雪は止めることができないままだった。
「簪を、華鳳池に投げてしまおうかと思います」
それどころか、率先して甚振る役をやろうとしているのだ。自分の意思ではないと、逆らえないのだと言い訳までして。
「まあ、神聖なる華鳳池に簪を投げ込むなんて」
「あ、も、申し訳ございません」
お気に召さなかったのか、と慌てて謝罪する香雪に、桃燕は満面の笑みを浮かべた。
「なんて楽しそうなことを思いつくのかしら」
「え?」
「取りに入りでもしたら、一大事だわ。内侍に言って処分して頂かなければならないわね」
そうなれば嬉しいと言わんばかりの反応に、香雪は胸をなで下ろした。
「私はここで見ているわ」
桃燕はいつの間に準備をさせたのか、笙鈴が用意した敷物の上に腰を下ろした。木陰のそこは、ちょうど水月のいる場所が一望できる場所だった。
もう後には引けない。ごくりと唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえた。小さく息を吐き出すと、香雪は水月のいる場所に向かって歩き出した。
「姜宝林様」
「え?」
香雪の声に、水月は驚いたように顔を上げた。
一瞬、考えるような表情を浮かべたあと「林香雪様、でしたかしら?」と香雪の名を呼んだ。
「ええ、そうです。こんなところでどうされたのですか?」
「あ、いえ。その、華鳳池を見ていました」
質問と答えがかみ合っていない気がするが「そうですか」と香雪は微笑んだ。隣にしゃがみ込むと、水月と視線の高さを合わせ華鳳池を見る。
「何か面白いものでもありましたか?」
「面白いもの……。いえ、魚が泳いでいたぐらいです」
「魚……」
そんなものを見て何が楽しいのか香雪にはわからない。そっと視線を元いた場所に向けると、笑顔を浮かべる桃燕の姿が見えた。笑っているはずなのにどうしてだろう。「さっさとやりなさい」と言われている気になるのは。
香雪は水月の頭に視線を向けると、不自然にならないように口を開く。
「あら。姜宝林様、素敵な簪をつけていらっしゃいますね」
「え、あの」
「ご実家からですか?」
香雪の問い掛けに、少し躊躇ったあと、水月は首を振った。
「いえ、あの、頂き物、なのです」
「そう、なのですね」
意外だった。水月に簪を送るような相手がいただなんて。遠目で見ていた時も玉が高価そうだと思ったけれど、近くで見ると玉だけでなく施された細工まで美しいそれは、香雪はもちろん、水月が持つにも分不相応なものだ。
そこまで考えて、もしかしたらこれは春麗と仲がいいということで青藍から賜ったのではないかと思いついた。
だからこそ、桃燕の怒りを買ったのだと。付き合う人を選ばないからこんなことになってしまうのだ。
――だから、私は悪くない。これは仕方ないことなのだ。
香雪は自分に言い聞かせると、笑顔を浮かべた。
「そんな素敵な簪をくださるなんて素敵な方ですね」
わざとらしい香雪の言葉にも水月は嬉しそうに「はい」とはにかんだ。
「でも本当に素敵ですね。私には一生かかっても手にできないような簪です」
悲しそうに言う香雪に、水月は戸惑いを隠せない。基本的に水月はいい人なのだ。
知り合うきっかけとなったあの時も、桃燕の襦裙の汚れが落とせないと落ち込んでいた香雪に、「手伝いましょうか?」と、水月は声を掛けてくれた。他の女官たちは、同じ宮の者でさえ見て見ぬふりをしていたというのに、それまで一度も話したことのなかった水月だけが優しかった。。
だから香雪はわかっていた。
「一度でいいから、手に取って見てみたい……」
悲しげに言う香雪に対して、水月がどういう答えを返すかを。
「……手に取って、みますか?」
「いいのですか?」
「はい」
パッと顔を輝かせて見せた香雪に、水月は器用に簪を外すとその手に載せてくれた。
簪は金でできており、先端に薄い桃色の玉が埋め込まれている。飾りにしてある細工を見ても、玉を見てもそれがどれほど高価なものか一目でわかった。
簪を持つ香雪の手が震える。これを今から、華鳳池に投げ込むのだ。
「香雪様?」
簪を見つめたまま黙り込んでしまった香雪に、どうしたのかと水月は首を傾げる。それは、簪がどうかされるのではという不安ではなく、純粋に香雪を心配してのものだった。
香雪の胸に罪悪感が広がる。けれどもう、後戻りはできない。
簪をぎゅっと握りしめると、勢いよく香雪は立ち上がった。そして――。
「っ――」
力一杯、腕を振り上げると簪を華鳳池に投げ込んだ。
隣で、水月が息を飲んだのがわかったが、香雪はそちらを見ることができなかった。
***
もう一度、桃燕と話をしよう。青藍が槐殿をあとにし、一人になった春麗は佳蓉に結ってもらった頭に刺さる簪に触れた。
水月に渡したものと対になる簪。薄い水色の玉がついたこれを、本来であれば水月に贈るはずだった。それが、とっさに渡したことで簪が逆になってしまったのだが、これはこれでいいのではないかと思っていた。
水月を連想させる玉のついた簪を春麗が、春麗を連想させる玉のついた簪を水月が持つ。これほど素敵なこともないだろう。
水月は渡した簪を使ってくれているだろうか。
「使ってくれているといいなぁ」
きっとあの簪は水月に似合うと思う。桃燕のことを解決して、また前のように水月と共に過ごせるように、今は頑張らなければ。
佳蓉と共に梅花殿へと向かう道すがら、華鳳池を通りかかった時のことだった。どこからか誰かの笑い声が聞こえた。
聞き覚えのあるその声に辺りを見回すと、木陰に桃燕とその侍女の姿があった。敷物を敷いているところを見ると、華鳳池の畔で花見でもしているのだろうか。
梅花殿まで向かわなければ、と思っていたので、その手前にある華鳳池で会えたのはちょうどよかった。
「黄昭儀様」
どうやら桃燕は春麗に気付いていなかったようで、声を掛けると驚いた表情でこちらを振り返った。何かを言おうとするかのように口を開いた桃燕は、何故か満面の笑みを浮かべた。
「あら、楊春麗様。こんなところでどうされたのですか?」
「えっと」
今から桃燕に会いに行くところだった、と言えば桃燕は機嫌を損ねるかもしれない。何が理由かはわからなかったが、せっかく機嫌がいいのだ。このまま穏便に話を進めたい。
「黄昭儀様は何をなさっていらっしゃったのですか?」
「私? ふふ、私は見ての通りここで花見をしていました。今日は風が涼しいので、こうやって木陰で過ごすのが心地いいのです」
おかしい。今日の桃燕は徹底的に機嫌がいいようだ。そしてそれは、春麗にとって好都合だった。このまま水月への嫌がらせの件に話を移してやめてもらうように頼もう。青藍の言った三日目は今日なのだ。これ以上の猶予はない。
「あの」と、春麗が話を切り出した時、可笑しそうに桃燕は華鳳池の畔を指さした。
「ほら、他にもいらしてる方がおられますわ。ですが、あの方は少し羽目を外しすぎているようですわ」
「え?」
その言葉に導かれるようにして春麗は華鳳池の畔に視線を向けた。そこには口元を押さえ呆然と華鳳池を見つめる女官とそれから――。
「水月、様……っ」
襦裙姿のまま、華鳳池の中央へと進んでいく水月の姿があった。水の中に入っていく姿にも驚きを隠せなかったが、それ以上に水月の顔に浮かぶ死の文字を見て春麗は言葉を失った。
「どうして……」
昨日会った時は水月に死の文字は見えてはいなかった。それなのに今は黒々とした文字で『水死』と書かれているのが見える。このままでは水月は、あの冷たい池の中で、死ぬ。
春麗の『どうして』という言葉を、何故水月が華鳳池へと入っているのか、という意味に受け取ったのだろう。
心配そうな口調ではあるが、冷笑を浮かべた頬に指を当て、首を傾げながら桃燕は言う。
「どうやら先程、何かを池に落とされたようです。大事なものだったのでしょうか」
「何かって……」
一体何を落とせば、あんなふうに池の中に入っていってしまうのか。いや、それよりも落としただけならあんなに中まで入っていく必要はない。手を滑らせただけであれば浅瀬に落ちているはずだ。
「頭を押さえていたので何か装飾品を落とされたのかもしれませんね。櫛、もしくは――簪、とか」
「……まさか」
さすがにそこまでのことをするわけがない。そう思いたかったが、桃燕の表情を見た瞬間、春麗の手は震えた。その表情を春麗はよく知っている。そう、それは花琳が春麗を嬲る時と同じ、意地悪くけれど楽しくてしょうがないというような表情だった。
「嘘、ですよね」
「何のことでしょう? 私にはさっぱりわかりませんが」
「あなたがやったのですか?」
「ですから何のことでしょう? それ以上は不敬ですよ」
咎めるような桃燕の言葉を無視すると、春麗は震える手を握りしめ水月の方へと向かった。
池の畔に立つ女官は「お戻りください!」と泣きそうな声で水月に呼び掛けていた。
「何があったの⁉」
「よ、楊春麗様……」
「水月様に何があったの!」
「わ、私は……何も……」
「もういい!」
「春麗様! いけません!」
佳蓉の静止を無視すると、春麗は水月を追いかけて華鳳池の中へと入った。浅く見えたがすぐに水嵩は春麗の胸元まで達した。足下は滑りやすく笏頭履では歩きにくくて仕方がなかった。それでも、春麗は水月の元へと必死に歩いた。
「水月様! 戻ってきてください! 水月様!」
一瞬、水月の動きが止まった気がしたが、振り返ることなく水月は進んでいく。春麗もそのあとを必死に追いかけた。
足下に何かが触れ、身の毛がよだつ。水を吸った襦裙はあまりに重く歩きにくい。それでも今ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
池の中央辺りまできた頃、ようやく水月が歩みを止めた。いや、歩みを止めたというより、あれは――。
「水月様!」
力尽きたのか、それとも何かに足を取られたのか、水月の身体が力なく水中へと沈んでいった。
「あ……あぁ……っ」
背筋が凍り付き、全身が震えて足が動かなくなった。水月の顔面に見えた死の文字が頭を過った。
このままではきっと、水月は水死してしまう。そしてそれを春麗は、何もできないまま、この場所からただ見ているだけ――。
『お前のおかげだ』
瞬間、春麗の耳に、青藍の言葉が聞こえた気がした。
そうだ、この力は人の死を予言するためだけじゃなくて、死を回避することも、できる。
「待ってて下さい……っ」
春麗はどうにか必死に水月の沈んだ場所までたどり着くと、躊躇うことなく水中に身体を沈めた。
どこ……。水月様、どこに……。
「……っ!」
春麗の手が、水月の肩を掴んだ。
「水月様!」
「げほっ……ごほっ……。ぐっ……はっ……」
「水月様! 大丈夫ですか!? 水月様!」
「しゅん、れ、い……さ、ま……」
「よか……った……」
びしょ濡れになり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で水月は春麗を見上げる。その顔からは、死の文字は消えていた。春麗はほうっと息を吐いた。どうやら水月の死は回避できたようだった。
春麗の腕を必死に掴む水月の手には、春麗の髪に刺さる簪と対になるものがあった。
やはり桃燕はこれを華鳳池に投げたのだ。いや、投げたのは池の畔に立ち尽くしていた女官かも知れない。
けれど、命令し投げ入れさせたのは間違いなく桃燕だ。
「水月様、戻りましょう」
春麗の言葉に水月は無言のまま頷いた。震える肩をそっと抱き、春麗は水月と共にゆっくりと畔へと戻っていく。
「申し訳、ありま、せん」
「水月様は何も悪くありません」
「ですが……私は……」
水月の濡れた頬に涙が伝う。その姿に春麗は怒りを覚えた。これほどまでに誰かを憎いと思ったことは初めてだった。
父や義母、花琳にどれほどのことをされても、これほどの怒りを感じたことはなかった。
佳蓉に手を引いてもらい、春麗と水月はなんとか池から這い上がった。そこにはもう、あの女官の姿はなかった。
「ありがとう」と佳蓉に伝え、水月に付き添うよう頼んだ。
「春麗様は……」
「私にはまだしなければいけないことがあるから」
春麗は真っ直ぐに桃燕たちの元へと向かった。
「黄桃燕」
「誰に口を――」
きいているのです、そう続けるつもりだったのだろう。しかし、桃燕が言うよりも早く、春麗はその頬を叩いた。ヒリヒリとした痛みを右の掌に感じた。
叩かれた桃燕は、自分自身に何が起きたのか理解できていないようで、左の頬を押さえ、呆然と春麗に視線を向けた。
「なに、を」
「何をするの、ですか? それはこちらの言葉です」
「桃燕様!」
侍女が慌てて桃燕と春麗の間に立ち塞がろうとしたが、春麗はその身体を押しのけ、桃燕の真正面に立った。
「あなたは自分が何をしたか、何をさせたかおわかりではないのですか? 一歩間違えば、水月様は死ぬところだったのですよ。私に文句があるのであれば、直接私に言ったらいいでしょう! 関係のない水月様を巻き込まないで! 次に水月様に何かしたら、私はあなたを決して許さない!」
怒鳴る春麗に「な、なによ」と桃燕は言い返そうとしたが、騒ぎを聞きつけ女官や宦官が集まってくるのに気付いた侍女は、分が悪いと思ったのか「戻りましょう」と桃燕を連れその場をあとにした。
「春麗様……」
初めての怒りに興奮が冷めやらないまま立ち尽くす春麗に、水月が声を掛けた。その声に春麗は、ようやく我に返った。
「水月、様」
「春麗様、私……」
今にも泣き出しそうな春麗と、涙を流し続ける水月。そんな二人に佳蓉は微笑みながら言った。
「ここでは目立ちすぎますので、姜宝林様に槐殿へとお越し頂く、というのはいかがでしょうか」
佳蓉の提案に春麗は「来て頂けますか?」と自信なさげに水月に言う。水月は躊躇いながらも「ありがとうございます」ともう一度涙を流した。
槐殿に戻った春麗たちは、佳蓉が準備した湯に順番に入った。先にどうぞ、という春麗に対し水月は頑なに「私はあとで大丈夫です」と譲ることはなかった。
水月が沐浴を終え、二人で小卓に向かい合った。こうやって二人で向かい合うのはいつぶりだろう。そんなに日は経っていないはずなのに、随分と久しぶりに思えた。
無言のまま、茶に手を付けることもなく俯き続ける水月に、春麗は頭を下げた。
「水月様、申し訳ございませんでした」
「え、な、何をなさっているのですか。おやめください」
「私のせいで水月様の身を危険にさらしてしまって……。黄昭儀様からの嫌がらせも……。本当に申し訳ございません」
こんなことなら、最初から青藍に任せておけばよかった。春麗が取った勝手な行動のせいで桃燕からの嫌がらせを悪化させ、ついには……。
「水月様の身に、何かあったらと思うと……」
「……私の方こそ、素直に頼ることができず申し訳ございませんでした」
「そんな! 水月様は何も悪くないです!」
「いえ、春麗様が何かあったのかとおっしゃってくださった時に素直に言っておけがこんな……。私が不用意な行動をとったせいで、春麗様まで危険な目に遭わせてしまって……。何かあったらと思うと、私は……」
「水月様……」
春麗は顔を上げると、小卓の上で指を組む水月の手にそっと自分の手を重ねた。水月の手は沐浴後とは思えない程冷たかった。
春麗の行動に、驚いたように水月は春麗の顔を見つめた。
「私は大丈夫です。……水月様が、ずっと守ってくださったから」
「私は……何も……」
「私のことを守るために、ずっと黄昭儀様からの嫌がらせに、耐えてくださってたんですよね」
春麗の言葉に、水月は項垂れた。
「黄昭儀様から春麗様に言いつければ標的を私から春麗様に変えると言われておりました。それであんなふうな態度を……。本当に申し訳ありません」
やはり水月は脅されていた。そして春麗を守るために今まで一人で耐えてきたのだ。
重ねた手をギュッと握りしめると、春麗は涙が溢れそうになるのを必死に堪え、水月に微笑みかけた。
「守ってくださって、ありがとう」
春麗の言葉に少し驚いたような表情を浮かべ、それから水月も涙を拭うと頬笑んだ。
「わた、し……こそ、ありがとう」
桃燕のしたことは絶対に許せないが、ようやく水月と本当の意味での友達になれた気がする。
冷たかったはずの水月の手は、今では春麗と同じぐらい温かかった。
その日、夕餉を終えた頃、槐殿を青藍が訪れた。長椅子に座ると、青藍はおかしそうに笑った。
「今日、黄桃燕と一悶着あったんだって?」
「ご存じなのですか?」
青藍の言葉に春麗は驚いたが、青藍は当然とばかりに言った。
「ここ後宮は俺のものだ。知らないわけがないだろう」
「あ……」
「と、いうのは半分嘘だ。先程、黄桃燕が俺のところにやってきた」
長椅子の背に身体をもたれ掛かけると、隣に座れと言うように春麗の手を引いた。誘われるまま、春麗は青藍の隣に腰を下ろした。
「黄昭儀様が、ですか?」
青藍の元に行くためには許可を取る必要がある。許可を取ってまで行くほどの理由と言えば。
「お前に殴られたと。後宮内にあんな乱暴者を置いておくなど信じられない。今すぐ追い出して欲しいと。凄い剣幕だったぞ」
「すみません……。叩いたのは本当のことです。処分は如何様にも」
後宮で暴力沙汰を起こしたのだ。謹慎や下手をすれば追い出されることもあるだろう。あの時は頭に血が上っていてそこまで考えられなかったが、今思えばそうなっても仕方のないことをしたと思う。しかし。
「処分されるとわかっていたとしても、同じことをしたか?」
青藍は真っ直ぐに春麗を見ると尋ねた。青藍の問い掛けに、春麗は迷いなく頷いた。
「はい」
「そうか」
春麗の答えに、青藍は喉を鳴らして笑った。その態度の意味がわからず、春麗は恐る恐る青藍に尋ねた。
「あの、それで、私の処分は……」
しかし、青藍は何をおかしなことを言っているのだと言わんばかりに平然と答えた。
「処分などあるわけがないだろう」
「で、ですが、後宮内を騒がせたことも、それから黄昭儀様に狼藉を働いたことも事実で」
「ああ、それだがな。叩かれても仕方がないことをした黄桃燕が悪いと言っておいた」
「な、え?」
「それに春麗がしたことを咎めるのであれば、黄桃燕が今までにしてきたことも咎める必要があるなと言ったら何も言えなくなっていたぞ」
言われてみれば確かにそうだが、位階が上の者が下の者に対してしたことと、その逆とでは大きく意味合いが変わってくる。無位の春麗が桃燕に対してしたことがお咎めなしというのは周りからしても受け入れられないのではないか。たとえ桃燕がしたことがきっかけだとしても、だ。
不安そうな表情を浮かべる春麗の肩をそっと抱くと、青藍は自分の方に引き寄せた。
「俺が何も言わせないから大丈夫だ」
「主上……」
青藍が大丈夫だと言えば、本当に大丈夫なのだろう。
「…………」
「どうした?」
ふいに黙り込んだ春麗に、青藍は眉をひそめた。
「結局、主上に助けてもらわなければ、私一人では何もできませんでした」
偉そうなことを言ったわりに、桃燕を説得することも改心させることもできず、水月を傷つけ、最終的には青藍にも迷惑をかけることになってしまった。
それなら最初から全てを青藍に任せておけば、あんなふうに水月を危険な目に遭わせることもなかったのだ。
「私の自己満足のせいでみんなに迷惑をかけてしまいました」
「それがどうした」
「え?」
思いも寄らない青藍の言葉に、春麗は顔を上げた。そこには不思議そうに春麗を見下ろす青藍の姿があった。
「迷惑をかけたからなんだというのだ。お前はお前なりに友を守ろうとした。自分の意思で行動した。それの何が悪い」
「で、ですが私が何もせず、主上にお任せしていれば……」
「確かにその方が早くことは解決したかもしれない。姜水月も華鳳池の中に入らずとも済んだかもしれない。だが、俺は何もしなかった。何故かわかるか?」
「私が、自分で解決することを、選んだから」
「そうだ。春麗、自分の意思で動くということは、必ず責任も伴う。だがな、責任を恐れるが故に自分の意思で何もしないような人間は俺は嫌いだ。失敗してもいい。生きているのだから失敗したとしても必ず挽回できる。死んだように何もしないで生きているより、心配し足掻くことになってもその方がよほど人間らしいと俺は思う」
青藍の言葉に、春麗の頬をいつの間にか涙が伝い落ちていた。
後宮に来るまでの春麗は、ただ生きているだけだった。自分の意思もなく死んだように生きていた。それでいいと思っていた。
「責任は、どうやって取れば、いいのでしょうか」
春麗が取った行動により、水月はたくさんの嫌がらせを受けた。
その責任を、春麗はどうやって取ればいいのかわからない。
春麗の言葉に、青藍は笑う。
「姜水月が何を望んでいるのか、それはお前が一番よくわかっているのではないか」
「水月様の、望むこと?」
「質問を変えるぞ。お前は姜水月に何を望む? 今回のことで姜水月が責任を感じ、心を痛めているとしたらどうして欲しい」
春麗が助けたことで、水月が責任を感じているとしたら。責任なんてを感じて欲しくない。ただ――。
「笑っていて、欲しいです。悲しい顔をさせたいわけじゃない。ただ一緒に笑い合って、それで」
「同じことを、姜水月も思っているのではないか?」
「え?」
青藍は優しい瞳で春麗を見つめた。翡翠色の瞳に映る自分自身の姿が見えた。
「友は合鏡なのだと、老師は言っていた。お前がそう望むのなら、きっと姜水月もそう思っているはずだ」
「そうなの、でしょうか」
「俺の言うことが信じられないのか?」
慌てて首を振る春麗に、青藍は唇の端を上げて笑った。