息を吸うのが心地よい、春の陽気となった。父のがん告知から2ヶ月。奇跡的に父の体調に異常はない。私の身辺にも変わりはない。
 結婚式で出会って約3週間経ったいまも、イシューさんとのメールは続いている。「これでいいのかな」と思うときもあれば、「もっと近くに…」と感じることもある。
 結婚期限まであと4ヶ月。イシューさんにおデートのお約束をしている場合ではない、大仕事が入ってしまった。

 社長室に呼ばれたのは私と佐藤さんだ。
 「貴光、結婚はどうなっている。」
父はデリカシーのかけらもなく、ぶっきらぼうにきいた。
「いや、その…。」
気になる人はできたが、結婚などほど遠いとは、まさか言える訳がない。
 「そうか。会社宛の縁談は、どうやらデマが多いみたいでな。母さんも必死に対応しているが、まだいい話は来ていないようだ。」
 ガン!
 佐藤さんがボールペンを落とした。私には父の意図がわからなかった。
 「話は、変わるが。」
父は低い声で、ゆっくりと話を切り出した。

 「貴光、仮に結婚できたとして、今のおまえが社長になれるか? 編集員として社員を引っ張っていける実力があると言えるか?」
私は「うっ」と言葉を飲んだ。父の質問は至極(しごく)真っ当で、天乃川出版社ではなくても、「社長」という立場に立つだけの力はあるのかということだった。

 私は正直、仕事ができる人間ではない。社内でも一番の若手で、任されている仕事も多くない。入社してから担当した作家は詩麻福朗のみ。『みんなの日用国語辞典』の執筆編集にも加わったが、この辞典は創立以来、社員総出で製作することになっており、私は端役に留まっていた。
 「そこで、だ。貴光が社長になるもならぬも、おまえに経験を残したいと思ったのだよ。社長としても、佐藤さんのもとで働くとしても、きっと力になるはずだ。」
 今更感は拭えぬが、社長、いや父の言い分はもっともだった。つまりは「社長教育をしたい」ということだ。父は大きく息を吸って、続けた。
 「佐藤さん。いまうちに来ているデビュー前の作家を1人、貴光に任せたいのだが。できれば詩麻福朗とは違うジャンルの作家を。誰が居るかね。」
佐藤さんは上を見て、「そうですね」とデビュー前の作家を次々とあげた。
 「詩麻福朗さんはノージャンルの『ザ・小説家』ですからね。ミステリーの奇縞(きじま)、漫画では牧田みるく。あと…。」
視線を父に戻して、最後の1人をあげた。

 「絵本作家としてデビュー予定の子が今日来ますね。福井さんのお嬢さん。」
 「よし。では、福井さんのお嬢さんにしよう。貴光、頼んだぞ。話は以上だ。」

 福井さんは佐藤さんの前の編集長で、幼い頃、非常にお世話になった社員だった。確か私と同じくらいのお嬢さんがいたが「職場に家庭は持ち込まない」と、一切連れてくることはなかった。40歳を前に大手出版社に転職して、それ以来会うことはなかった。娘をデビューさせるのに、大手ではなくこの天乃川出版社を選んでくれたのは、なんだか嬉しい。

 「貴光さん、これ、資料ね。午後から来るから、よろしく。」
社長室から引き上げると、早速佐藤さんから資料を引き継いだ。資料と言っても、たった1枚の受付メモだった。

 名前 福井さんの娘
 ジャンル 絵本
 希望 大人も楽しい絵本にしたい
 作品 ひかりのみこ(仮) 
 
 「こんにちは」
福井さんのお嬢さんは予定通り、午後2時にやってきた。福井さんも一緒だ。
「お久しぶりです、福井さん。天乃川貴光です。担当になりました。」
 3人とも立ち上がって挨拶をする。
 「はじめまして『あきらけいこ』と申します。」
お嬢さんは「あきらけいこ」と名乗った。

 その声に思わず瞳孔が開くのを感じた。イシューさんと初めて会った時と同じだ。
 例えるなら、無色透明な声だ。その奥にピンクのかすみ草が透けて見えるような、透明感、華やかさ、可愛らしさ、全てを詰め込んだような声に一目惚れしてしまった。

 髪型に飾り気がないのも好感がもてる。長い黒髪を一つにまとめ、前髪は眉のあたりで切りそろえられている。化粧は自然で、耳飾りとネックレスをしている。どちらもガラスを基調にしたシンプルなものだ。
 「あきらけいこ」。現代のファーストネームとしては、長い。おそらく本名ではないだろう。「明子」という歴史上の人物の読み仮名がそうだったような。なんにせよ、どこか古風な感じがする名前だ。

 「ペンネーム、ちょっと長いですかね?」
頬に手をあて、問いかける笑顔に、また、ドクンと瞳孔を開かせられた。どこまでチャーミングな人なんだ。
 「あ、あ、あ、あ(よろしくお願いします)…。」
一目惚れをした人間は、言葉が発せなくなるらしい。なんと言おうとしても、夢の中のごとく、言葉にならなかった。

 「ちょっと、貴光さん!」
しどろもどろな打ち合わせをかぎつけた佐藤さんが、慌てて謝罪に入ってくれた。
「ちょっと色々ありまして、今朝、あきらけいこさんの担当に任命したところだったんですよ。」
 颯爽と現れた佐藤さんは、私の代わりに、サクサクと打ち合わせを進めてしまった。

 あきらけいこさんとの打ち合わせは、相変わらず、佐藤さんにサポートしてもらいながら、父・福井さん同伴のもと行われていた。
 「ヒ、ヒョーシの校正ができました!」
 そして、相変わらず、私があきらけいこさんと話すときは、声の裏返りを止められなかった。もう3回目だというのに、緊張感は高まる一方で、心臓がどんどん大きく鳴る。

 「貴光くん、ちょっといいかな。」
3回目の打ち合わせの後、福井さんに呼び止められた。定めてお叱りいただかん、と思いつつ、「好きな人のお父さま」となった昔なじみのおじちゃんと、どう対峙していいものか、しどろもどろしていた。
 担当を降りろ、なんだあの打ち合わせは、君は編集に向いてない。考え得る福井さんのお叱りを想定して、福井さん1人を応接室にお通しした。

 「突然、すまない。実は、ちょっとお話ががあるんだ。」
福井さんはまったく叱る気がないようだ。ただ、「お話」というワードセンスが、今の私をさらにドキンとさせる。まさか、うちの娘をもらってくれとか?
「あきらけいこのタイトル、君はどう思う。」
 「へ?」
人は本当に想定外なことが起きると、声にならぬ空気しか出てこないらしい。

 要するに、福井さんは私に編集員としての意見を求めていた。『ひかりのみこ』は漢字にすると『光の御子』だが、「御」を「み」と読むのは、今や我々文学マニアしか知らない。「御子」を「王子さま」に変換できるのは、さらに限られた人間だ。そのようなマイナーな名前を、本のタイトルとして使って良いのか、という質問だった。

 「あきらけいこの父」というワードが頭をグルグルかき乱したが、私は、本の作り手として答えることにした。

 「私はいいと思います。あきらけいこさんがこの本の世界を伝えるために考えた名前であれば、それでいいと思います。ただ、伝わりにくいのも事実です。でも、わからないから読みたくなるとも思います。私は、すべてを知った上で、あきらけいこさんに決めてもらいたいです。」

 「そうか。」
 福井さんは私の答えを聞くと、顔からこわばりが消え、すでに冷めかけたコーヒーを口に含んだ。
 「やはり作家の意向が一番だよな。でも、私ではあきらけいこと会話にならないのだよ。」
福井さんは「父親」というよりは「厄介な作家を抱えた編集員」という感じで頭を抱えた。
 「お願いなんだが、明日の打ち合わせはあきらけいこ1人で来させるから、なんとかタイトルの意図を聞き出してはくれないか?」

 思いがけないカタチで、あきらけいこさんとの初デートが決まった。