彩~清か色の日常、言葉のリボン

(春音side)

わたしは電話を切った。
看護師さんに車椅子を押してもらって病室へ向かう。

「どこへ電話してたのでしょうか。
楽しそうでしたよ」

「秘密です」

彼女が問いかけてきても、わたしは秘密としか答えられません。
だって自分の好きな場所なのだから。

喫茶店は今日もやっていて嬉しかった、退院したらまた行けるといいな。

艶のあるロングヘアー。
形の良い唇。
指輪がない細い指先。
夏のお姉さんはどれをとっても素敵な人だと思う。

でも、私がかけた一本の電話がわたしたちの関係を結びつけるとは思わなかった。

 ・・・

それからしばらく経った日。
今日の病室はなんだか肌寒い日だった。

午後になると、夏のお姉さんがお見舞いに来てくれた。
今日はお店の定休日だからだろう。
彼女はよほど慌てていたのか、病室のドアの前で膝に手をついて肩で息を切るように息をしていました。

「春ちゃん、大丈夫?」

わたしは少しはにかんだように大丈夫だと答えた。

彼女は力が抜けたように、その場にへなへなと座り込んだ。
まるでこちらが心配しちゃう。


お姉さんはお土産に紅茶を持ってきてくれた。
それは高級なお店で買ってきてくれたもので、果実を思わせるような不思議で甘い香りがする。

「君の好きそうな香りを選んだのですよ。
これなら気分も落ち着きますね」

彼女は近くの丸椅子に腰かけた。
温かい紅茶の香りが、そばに居る人物が私の心を落ち着かせてくれる。

そういえば、彼女の仕事着以外の服装を見るのははじめてだった。
白いカーディガンを中に着込んだ、淡い水色のジャケットの組み合わせ。
なんとまあ、お洒落だった。

いつものように色んな話をした。
取るに足らないようなものまで話題はどんどん流れていった。
久しぶりに感じるのは、どれもが楽しくて宝物のようだった。

キリトリして残しておきたいって思わせるんだ。


お姉さんが、あの質問をしてくるまでは……。


彼女もどう聞けば良いか不安だから。
できる限り、さり気なく尋ねるしかなかったのでしょう。

「あのう……。
家族とかお見舞いに来てくれているのですか」

「あ……」

わたしは一瞬真顔になって。
顔を窓の外に向けると、切なさをまとう表情が窓ガラスに映る。

……いつかは訊かれると思っていたんだ。

「わたし、数年前に事故で家族を失いました……。
ずっと一人で暮らしてるんです」

わたしは仕方なく、自分の真実を話してしまった。

お姉さんはわたしのほうにに腕を伸ばしてくれて。
ベッドの上に寄り添うよう、抱きしめてくれた……。

「よく頑張ったね」

彼女の温かな鼓動が、優しさが、わたしに伝わってきたような気がした。
それはこないだ見た真っ白な夢の中のように。

「私で良ければ、相談に乗るからね」

「……うん、ありがとう」

わたしは瞼に暖かいものを感じた。

彼女が淹れてきた紅茶は<オータムナル>のブレンドでした。

秋の気候によって甘い香りが凝縮されるのだそう。
円熟した深いコクとほっこりした甘みは、まるでお姉さんの優しさを表しているみたいだった。

 ・・・

でも、しばらくしてから彼女は身体を離してしまいました。
なにがあったのだろう。

そのまま表情を覗いていると、お姉さんは青ざめていました。
震えながら、まるでうわ言のように口を開いた。

「もしかして、春ちゃんの事故ってさ……。
海の近くの交差点だったりしないよね。
そう、初夏の一日」

その通りだから、わたしは静かに頷いた。
お姉さんは崩した表情のまま、その場にうなだれてしまいました……。

「……私の家族が、運転してたの」

お姉さんの言葉はバラードのように流れていて。
その中に残った、たったひとつの言葉が。
音が反響するようにわたしの頭の中に残された……。


一瞬の偶然こそが、わたしたちをつなぐ命のリボン。


ごめんなさいという彼女の謝罪は頭の中で拒絶してしまう。
瞼に溜まったものは、冷たい涙となってわたしの頬を流れていく。
……わたしははじめて人に怒りを表した。

「もう帰ってよ!」

そう叫んだわたしは枕を投げつけてしまった。
(春音side)

わたしは毎日のことながら病院のベッドの上で外を眺めている。
今日は朝から大ぶりの雨が窓を濡らしていた。

夏のお姉さんとケンカしてから、何日経ったんだっけ。

彼女の家族が運転していた車がこちらの車に衝突した。
夏の暑さが春の陽気を奪っていくように、すべて失ってしまった。
結局わたしは親戚中を転々とすることになった。

わたしは両親のことを思い出していた。

 ・・・

お誕生日のプレゼントだよ、って裁縫してくれたワンピースはわたしの一番お気に入りの洋服だった。
晴れた春の日、わたしはお母さんとお買い物をしていた。
手をつないでわたしに声をかけたんだ。

「陽気で気持ち良い日だから、回り道して帰りましょう」

すると白いツツジの花壇が見えてきた。
わたしは純白の世界に感動したのを覚えている。

お父さんは家でも仕事している人だったから、どちらかと言えば近寄りがたい印象だった。

「仕事が落ち着いたら海に行こう」

わたしは一瞬でお父さんが好きになった。
絶対に行こうね、その場で硬い指切りをしたんだ。

 ・・・

絶対に行こうね、か……。
わたしはお父さんと交わした言葉を改めて口にしてみた。

約束なんてしなければ良かったのだろうか。
雷が鳴っていても、海で駄々をこねたわたしのせいだろうか。
……いくら考えても。
慕情の想いは自分に残酷だという結末しか与えなかった。

頭の中に、あの日の雷鳴が響いている。

わたしは何だか疲れてきた。
後から思うと、何がどうなっても良かったんだろうな。
すべてのものを失ってでも。
クラスメイトのみんなにサヨナラを言うことになっても。

叶えたいものを見つけたんだよ。

「お母さんに会いたい」

わたしはポツリと呟いた。
それは、何よりも叶えたい、たったひとつの願い……。

このベッドからはきれいな花壇は見つけられないけれど。
夢の中で、きれいな花の咲くところで過ごしたいな。

わたしは流れている一筋の涙を気に留めることはなかった。

 ・・・

わたしは足を引きずりながら屋上にたどり着いた。

ドアを開けるといつの間にか雨は止んでいた。
夕方の冷たい風が髪を撫でる。

縁から手を放して少し歩いてみと、片足だけで何とか立つことができた。
ありがとう、わたしの身体はここまで治ったんだね。

目の前いっぱいに広がる空。
マンダリンみたいな少し赤みを帯びた色だった。

空気を胸いっぱいに溜め込む。


……わたしはこの景色を最後にするんだ。


さあ、永遠の春を過ごそう。

 ・・・
(ゆうside)

「え、一人で行くの?」

僕は<おやつタイム>の彼らの顔を交互に見ながら言った。

だって、みんな部活があるもの。
ナギサはさも当然という風に胸を張って答えた。

「お前が行くのがいいんだよ」

彼女はそう言って、僕に花束を押し付ける。
……春ちゃんにはお前がお似合いなんだから、という彼女の言葉は聞こえなかった。

みんなとは商店街の花屋の前で分かれる。

これでも、春ちゃんに会いに行く口実になるか。
皆でお金を出し合って買った花束を片手に、病院へ歩いて行った。

病院のロビーで受付を済ませた。

でも、エレベーターはなかなか来なかった。
それでも僕は気長にのんびりと待っていた。

どんな話をしようか……。
怪我の調子はどうだろうか、学校の近況を報告しようか、先ほど見た猫の話をしようか。

緊張して勝手に喉が渇いてくる。


彼女の病室に入った。
しかし、誰一人として居ない上に、おまけに車椅子は置いてある。
人気のない不思議な光景だった。

しばらく首をかしげて考えていた。
……そんなこと、おきてはいけない。

冷たいものが背筋を通り抜けていった。

反射的に走り出す。
花束をその場に落としてしまったのはまったく気に留めなかった。

近くに居たナースが病院内では走らないで!と言っていたけど気に留めなかった。

なぜ僕が彼女の行動について気づいたのかはわからない。
それは直感としか言えなかった。

 ・・・

屋上へ続くドアが開いている……。
見覚えのある少女が視界の先に立っていた。

「春ちゃん!」

僕は彼女に向けて精一杯叫んだ。

春の女の子はフェンスを背に振り返った。
その表情は硬く、氷のように冷たかった。

「……君、なんでここにいるの? 帰ってくれないかな」

良かった、なんとか胸をなでおろす。
でも、ふたりの間には緊張の風が吹いていた。

冷たい風が彼女の髪を揺らしている。

「駄目だよ。
わたしは誰にも会わない、家族と一緒に過ごすんだ」

おやつ食べられて嬉しかったよ、と彼女が告げる。

僕は思わず駆け出し、春ちゃんの手首を掴んだ。
彼女の手首は思っていた以上に細く、血の気を感じられなかった。

僕の口は勝手に動いていた。

「そんなんじゃ駄目だよ!
みんなに会いたくないなんて、悲しいことを言わないで」

「わたしの願いを、叶えなきゃいけないんだ!」

……その瞳にはうっすら煌めくものがあった。
彼女はすぐに振りほどそうとするが、さすがに男子の握力が勝った。

そのまま一瞬の隙を付き -こないだ柔道の授業でやったからできたけど-
彼女の足を払い、屋上にたたきつけた。

はじめて彼女の反抗を見た気がする。
離してよ、と叫びながら暴れだしてしまった。

だから、彼女を押さえつけるように乗っかる格好になるのは仕方なかった。

こういう時、なんて言葉をかければ良いのだろう、
分からないから思いのまま口にした。

「君が居ない世界なんて、写真に撮りたくないよ」

その言葉が通じたかどうか、彼女は力尽きたように動かなかった。
いつの間にか涙がこぼれていた……。

 ・・・

僕たちはその場で大の字になって、横になっていた。
瞳はきれいな夕焼け空を見つめている。

真っ赤な空が不思議と生きている、と感じさせた……。

春の女の子はすでに泣き止んでいた。
僕にしか聞こえないような声で、小さく呟く。

「ありがとう……」

そういえば、
騒ぎの中でいつしか手を繋ぎ合っていた。

彼女は温かく小さな手をそのまま離さず、握り返してくる。

……その結び方はたしか恋人つなぎというのだっけ。
最後まで気づかなかった。
(ゆうside)

春の女の子と一緒に病院の廊下を歩く。

僕の肩に回す彼女の腕は安心の気持ちを込めているように。
一歩ずつ踏み出す足は生きることを改めて感じさせるように。
その歩みはゆっくりだけど、たしかに前に向かっていた。

ベッドの上に腰を下ろした彼女は改めて、僕の方を向いて感謝を告げた。

「……ありがとう」

その表情ははにかんでいるようにも困っているようにも見えて、何だか不思議な様子に見えた。
頬は赤く染まっている。
だから、僕は恥ずかしくなりながら答えた。

「いや、たまたま思い当っただけで……。
なんていうか、うん。
君が無事で良かったよ」

僕の直感が、屋上に向かうように告げたのだ。
それ以外にどう説明しようか。

それきり、彼女は窓の方を向いてしまった。
しばらく沈黙がふたりを包む。
空の朱色が流れていくのが、病室の窓から見えた。

「ゆう君って自分で分かってないんだよね」

春ちゃんは窓の外を見ながら話し始めた。
抑揚はあまり感じられない、低く小さな声だった。
急に何の話題だろうか。

「君って、自分のこと分かってくれたら嬉しいな」

どういうことだろうか。
彼女が話を続けるのを待った。

「いつもみんなのことを一歩下がって見てて。
自分は後回しで、常にみんなのことを考えているの。
……それだから、わたしのこと気づけたんだと思うよ」

そういうものだろうか。

「絶対そうだよ、優しい君だからさ。
屋上に居る時に、ゆう君の顔がよぎったんだよ。
そしたら本当に来てくれた」

……だから、わたしは死ねなくなっちゃった。
そう言う彼女は相変わらず抑揚を感じさせないで話す。
ここから顔は見えないけれど、内心では喜んでいるのだろう。

きっと、そうだ。

 ・・・

肩が上下に動いて、春の女の子は一息ついた。
安心したということかな、そう僕が解釈していると彼女はパジャマのボタンに手をかけていた。

慌てて顔を背ける僕に、彼女は左腕だけをむき出しにした。
こちらに少し向きながら、身体の前の方を隠しながら彼女は語りだした。

「わたし、もう死のうとは考えないけれど。
この傷をひとりで抱えていくには重すぎるんだ」

それだから、空に舞うことを考えた。
すべてを失っても、家族に会いたくなった。

僕は驚くことしかできなかった。

まるで写真を撮るような。
一瞬の景色を切り取るような。
ひとつの偶然が一瞬の出来事が、彼女の運命を壊してしまうなんて。

「まさか喫茶店のお姉さんとはね」

その一言は偶然の出会いを物悲しく語ってくれる。
左腕にある古い傷をずっと抱えて、春の女の子はずっと生きてきたんだ。
それもあろうか、あの人も心に荷物を背負っていたのだろう。

「同情してほしいとは言わないけどさ」

……ほんとみじめ。
彼女は窓の方を向いて、そうつぶやいた。

いつの間にか宵の口という時間になっていて、空は暗くなりつつある。
病室の中の様子が窓に反射するようになっていた。
彼女が一筋の涙を流したことが分かって、余計に僕も辛くなる。

「ずっと親戚の家とか周ってきたけど、内心は一人で生きているって思っていた。
それはたぶん、これからもそうなんだと思う」

彼女が語っていることは生きる意思を思わせる一言だ。
でも、なんだかそれには希望を感じさせない。
これまで一緒に居たのに、何だか遠いところに行ってしまいそうな。
そんな寂しさを感じさせる。

「君が生きていてくれるだけで、僕はうれしい」

粋な一言も言えずに、平凡な言の葉だけをその背中に告げた。

 ・・・

帰り道に、一枚のCDアルバムを買った。

<401ストリート>という名前で、待ちに待っていた何年振りの新譜だ。
きちんと発売日に限定盤を買うのがファンというものだろう。

レジに並んでいるときも。
金と銀の2枚組の円盤に収められているリストも。
わくわくしていたのに。

どういう訳か切なくなってしまう。
愛しい人の手を握り締めたい、その歌詞は春の女の子を思い起こさせた。

ポップな曲も、ロックも。
今の僕には自然と涙へ変換されていく。
部屋の中でひとり涙をこらえていた。

やがて、勇気をつける曲と出会う。

<明日生きるための 一言>

その一文だけで僕は自分の気持ちに気づいた。
そうだ、元気になるんだ。
彼女が出会った残酷な運命を僕は受け止めてあげたい。
お日様のような温かい笑顔をもっと見たい。

大切な人を想うことのできる、素晴らしいアルバムだろう。
お互いに頑張って過ごせますように。

君も、そして僕も。
(秋華side)

私はナースセンターの椅子にもたれ掛かって瞳を閉じた。

今日の気分は物憂げだった。
この間のオートテニスでの出来事が尾を引いている。
体が全く動かなったのがショックで、日々の疲労感はあれほどのものかと思い悩んでいた。

たかがテニスで、という人もいるだろう。
でも私にとっては趣味のひとつで、ストレスを発散できる唯一の方法だ。
水の入った紙コップをテーブルに置いて、うとうとしてしまう。

色々と向いてないのだろうか……。

私の眠気を打ち飛ばしたのは、ナースコールのサインだった。
急いで病室へ向かうと、そこに居たのは同僚だった。
どういうことだろうか。

私は不謹慎ながらも首を横に傾けそうになった。
彼女は急いで言った。

「巡回に来たら、心拍数が乱れているのに気づきました。
反応も無いので命が危ないと思ったのです」

ナースコールを押したのは、その方が連絡が早かったということだ。
一瞬の間もなく、先輩が素早い判断をする。

「蘇生の準備をします、そこの貴方は医師を呼んできてください。
周りは準備をしてくださいね」

その場にいる皆が慌ただしく動き出した。

この患者は身寄りがいないのだ。

私も少し会話をしたことがある。
それを思い出してしまうと、可哀想という感情が先立ってしまった。
いつの間にか立ち尽くしてしまう。
先輩がピシャリと叱ってきた。

「ほら、秋ちゃん。
あなたも動きなさい」

そうだ、私も準備をしないと。
急いで動き出した。

蘇生の結果は意味を成さなかった。
脈拍は戻ることなく、心拍センサーの虚しい音だけが病室の中にこだましていた。
皆はそれに介することなくテキパキと作業を続ける。

どうしてだろう。

この方は亡くなったのに、弔わないのかなあ。
私はまたピシャリと叱られた。

「秋、しっかりとしなさい」

不甲斐ないことに、私は指示を仰ぐことしかできなかった。
やがて、患者さんの家族が来ても。
私は話をすることもできず、黙々と作業をこなすしかなかった。

こんな虚しい世界だとは思わなかった。
向いてないのだろうか……。

 ・・・

今日は夜勤だから、まだやるべき仕事がある。
コンビニで買ったレーズンパンを食べていても、まだ気分は晴れなかった。

「休めるときに休む、か……」

わたしは思い立った言葉を口にした。
今やっと、その意味を少しだけ分かった気がする。

「よく分かっているじゃないか」

声の方を見上げると、先輩がやってきた。
彼女はペットボトルのお茶を差し入れしてくれる。
お疲れ様、という意味だった。

「お茶は気分が休まるぞ」

私はペットボトルに視線を合わせた。
その視界の中で揺れた茶葉はまるで穏やかな海のように。
私の心をゆっくりと言葉にさせた。

「私、あんなこと初めてで……なにもできずにすみませんでした」

「いつ何をするのか分かればいいんだよ。
私の指示はこなしただろう」

それを聞いて私は先輩の方を見上げる。

「仕事が終わった後にでも、きちんと悲しんであげようね」

……それが命を守る人々の役目だよ。
その言葉を聞いて目から涙が溢れそうだった。
だから顔を隠すようにして立ち上がって、巡回してきますって答えたんだ。

 ・・・

顔を洗った私は春の女の子の病室へ向かった。

彼女の退院は遠のいている。
先日どういう訳か激しく足を動かしたらしく、リハビリの経過も悪くなっていた。
私にも原因についてか話してくれなかった。


消灯の時間だけど、その姿はまだ起きていた。
彼女のベッドに近づいて、布団をかけてあげようとする。

「ほらほら、早く寝なさいね」

「……ねえお姉さん、お話して」

え?
彼女は小さい声でお願いをしてきたのでした。

「眠れないんです、何かお話してください」

甘えられてしまった私は吹き出しそうになった。

いいわよ、と私は窓のガラスを背に向けて立った。
しばし考えを巡らせて、小さい頃の話でもしてあげようと思いついた。

昔々、あるところにテニスが好きな女の子がいました……。

・・・

次の非番の日、私は再びオートテニスのコートに立っていた。

今日は勝負に来たつもりだ。
球を全部相手コートに返したら、春ちゃんは助かるんだ。

そう気持ちを込めて、ルーティンのポーズを取った。

テニスボールマシンが稼働して、ボールを投げてきた。
私は余裕で跳ね返す。

今日も身体が軽いわけではないようだ。
それでも次から次へボールを相手コートに返していく。

……さあ、どんどん来なさい。

そう思いながらも、身体が疲れて重くなってきている。
脚がもつれそうなのを無理して動かす。

それでも、あと一球を返したい! これですべてコンプリートできるんだ。

もう満身創痍だった……。
疲れて悲鳴を上げそうな身体を思いっきり動かしてみる。
最後の一球を相手コートに返すことができた、

私は達成することができたんだ。
すべてのボールを相手コートに打ち返していた。

やったあ!

汗ばんだ身体に吹く風が気持ち良かった。
(ゆうside)

僕は校門の前で空を見上げた。

空の色は青と朱色が混ざりあっていく。
これからは少しずつ赤く変わるだろう。

美しいグラデーションなのに。
その様子を写真に収めても、なんだか気分が乗らなかった。
溜まっている不安を出すような、大きなため息をついた。

春の女の子のことが思い種になっている。
彼女が思い込むことはもうないと思うけど、僕はまだ心配を捨てきれない。
ちなみに、こないだの出来事はみんなに秘密にしている。

「お待たせ」

振り返ると、待ち合わせしていたナギサがやってきた。
それじゃあ行こうか、と僕たちは並んで歩き出した。

会話がないまま黙々と歩いている。
特に話題も思いつかないので、彼女の歩幅に合わせていた。
隣に歩く姿をそっと横目で見てみた。
なんだか、彼女の背丈が少し伸びていたのは気のせいだろうか。

「ねえ」

呼び掛けられて、僕の瞳のピントは彼女の横顔に合った。

「なに私の顔をずっと見てるのよ。
どうだったの、この間」

この間。何かあったっけ。

「春ちゃんのお見舞い行ってくれたでしょ。
どうだった、何かあった」

僕は考えに詰まった。
花束は渡したけれど、春の女の子についてのことを話す気持ちにはなれなかった。
もちろん、屋上の出来事を話すわけにはいかない。

すると、彼女は笑いだした。
口のところに手をおいてからかうような目線を投げてくる。

「えー、イチャイチャしたんじゃないの」

この人はなんてことを言うのだろうか、否応なしに想像してしまう。
慌てて首を横に振って頭の中から追い出した。


空をハトが飛んでいた。
さっきからナギサの話は終わるところを知らない。
前を向いたまま語りだした。

「お前って、いつも落ち着いているというか」

そんなことはないと思う。
そして、ひとつ気になったことがあった。

「そういえば、その呼び方ってどうしたの。
いつもは名前で呼んでくれるのに」

「別にいいじゃない」

自由奔放な彼女のことだ。
僕をからかって楽しんでいるのだろう。

そして、彼女はコンビニの脇を曲がっていった。
僕は遅れないように歩幅を合わせた。
下り坂を遅れないように歩く。

「聞いてなかったんだけど、どこに行きたいのかな」

「駅の本屋に行くんだよ。
ルーズリーフ買いたい」

なるほど。
でも、商店街を歩くよりも表にあるバス通りの方が早いだろう。

「いいじゃない、ゆっくり行こうよ」

彼女は楽しそうに商店街の様子を伺っている。
ケーキ屋のクッキーを物欲しそうに見ていた。

僕はそっと財布の中身を確認して、彼女に声を掛けた。

「買ってあげるよ。
ただし安いやつだからね」

「さすが、話分かるねえ」

ナギサは僕の手を取って意気揚々に入っていった。
嬉しさを満面に見せた表情は、まるで主人に構ってもらえた犬のようだ。
でも、これは手懐けているわけではない。
シンパシーというやつだろう。

ずっと一緒にいるから、<おやつタイム>の皆が考えていることくらい分かる。

落ち着いているというのは、こういうところで発揮されているのだろうか。
正直言って、僕は自分で自分のことがわかっていない。
春の女の子にもこの間言われたな。

商店街の下り坂をまた歩いていく。

彼女は少し僕の方に近づきながら質問をしてきた。
揺れたポニーテールが僕の耳の辺りにふれる。

「ね、ね。
もしさ、二人きりになりたいって言ったらどうする」

まさしく今のシチュエーションのことを言っているのだろうか。
もちろん手をつないでいるわけじゃないけれど。
手が当たるか当たらないかの絶妙な距離で歩いている。

お互いに付き合ってはいないし、答えが詰まる質問だ。
これまでも二人でいるシーンとかあったと思うけどな、と考えつつ答えた。

「そうだなあ。
特に無いよ、君の行きたいところに行こうか」

「なにそれ、モテないよー」

彼女は足を止めて、その場で声を上げて笑ってしまった。
商店街中の視線が僕たちに集まったような気がした。
恥ずかしいからやめてほしい。

この回答は正解だったのだろうか。
例えば、春の女の子だったら、どういう風に捉えてくれたのかな。

 ・・・

信号待ちをしていと、ナギサはまた語りだした。
もうここまでで、クッキーのほとんどを食べてしまっている。
ちなみに、僕にもひとつくれた。

「お前ってさ、ほんとマイペースっていうか」

いつもの雑な会話が<おやつタイム>のテーマともいえる。
だけども、今日の彼女が口にすることのほとんどは分からない。
それに、会話のペースも何だか早いような気がした。
さっきのシンパシーは分かったのに。

歩きながら言った彼女の一言は、僕の心を捕まえるのだった。

「おまけに、優しいんだよ」

僕は思わず立ち止まった。

信号を渡り切ったナギサはその場で振り返った。
夕焼けになっても、彼女の照れている赤い表情が映えている。
うっすら涙が滲んでいた。

「何度も言わせないでよね。
ずっと見ているから、よく分かるんだ……」

僕はつい、彼女の顔をじっと見つめてしまった。
お互いに歩くこと無く立ち尽していてしまう。

「君は優しいから、私はずっといたいんだ」

ついに彼女は涙を溢れ出してしまう。
その表情は嬉しいとも困っているとも分からない、不思議な感情だった。

「春ちゃんだって、君に来てもらって嬉しかったと思うよ」

彼女の瞳から涙が流れ出していた。
僕の胸元に抱きつき、溜まりきった涙を流す。

「本当、お前ってバカなんだから」

僕は困り果てて、彼女を支えることしかできなかった。
その最後の一言は、僕の心に降りかかるようだった。

「君の気持ちを、もっと私に……。
どうして、私だけに向いてくれないの」

僕には返す言葉が見つからなかった。
秋の空みたいな彼女の繊細な感情が読めなかったのだから。

交差点の脇で寄り添うシルエットは、どういう風に見えるのだろうか。
(春音side)

わたしはついに退院の日を迎えた。
2ヶ月ちょっとだけど、なんだか長かったような気がする。

朝ご飯を残さずに食べて、最後のバナナを食べながら外を眺めてみる。
額縁の世界もお別れかななんて思ったりした。
変わりゆく空の景色を飽きることなく楽しませてくれた。

いつの間にか新調してくれた制服に袖を伸ばしたところで看護師さんが来てくれた。
さすがですね! とパチパチ手を叩いて祝ってくれた。

「おめでとうございます! 元気一杯で何よりです。
今日は天気も良いですし、記念にお散歩しませんか」

何が記念かは分からないけど、一緒に歩いてみることにした。

エレベーターの中で、看護師さんは何だかにこにこしている。
その様子は楽しそうだ。
なんだろうと思っていたら、そっと耳打ちして話しはじめた。

「見てみたかったな、あなたのナイト」

ナイト。
鎧を着た姿を想像してみた。

「戦う人じゃないよ。
白馬の王子様みたいなやつ」

彼女が面白可笑しく言うので、きょとんとしてしまった。
玄関の前で私は気づいた。

白馬の王子様。
手の甲にキスをしてくれる人のことだ。
つまり、わたしには彼氏がいて、その人が輸血したのだろうと。
そういう推理だ。

わたしの顔は耳まで真っ赤だったと思う。

 ・・・

外の空気はひんやりと澄んでいて、羽織っているカーディガンを撫でる。
病院の入り口に咲いていたオレンジ色の花は地面に伏せていた。
なんだか物悲しさを感じさせる。

病院の近くには小さいながらも公園があって、そこまでなら歩いて行けるだろう。
でも、すぐ行ける距離だというのに歩き疲れてしまった。
ベンチに座ったわたしに、彼女は温かいペットボトルのお茶を渡してくれた。

「リハビリお疲れ様でした」

「ありがとうございます」

わたしは少しはにかんで答えた。

「ほら、あそこでフリスビーしている少年たち楽しそうですね。
さすが、子供は風の子ですねえ」

その言葉は私の頭の中をかすめていく。
退院することはおめでたい筈なのに、なんだか心が晴れないのはなんでだろう。
ついため息を出してしまった。

「退院したら何をしたいですか。
自分だったらさ、身体を動かしたいかなー」

またテニス頑張ってみせるわ、とラケットを振るそぶりをしていた。
でも、私は答える気になれずに顔をうつむいてしまう。
あらあらと、看護師さんは話題を変えてみた。
まるで彼女が独壇場で話しているみたいだった。

「それじゃあ、せめて学校に行かないとね。
クラスのみんなと一緒にいるのは楽しいものよ」

だって、わたし……。

「わたし、友達なんか会いたくないんです」

私は自分の想いを口にした。
とても迷惑をかけたから、たったこれだけの理由だけどわたしの胸にのしかかっている。

 ・・・
(秋華side)

「そうなんだ」

私はこの子について考えを巡らせてみた。
いつも一人でいて、あまりお見舞いに来る人も見ていない気がする。
それでも、素敵なお友達がいることだろう。

羨ましいなって素直に思えるんだ。

ふと、私のことはどうだったか思い出してみた。
自分の口走った一言が胸の中を駆け巡る。
残響のように響くのは、とても馬鹿な一言。
あの出来事を反省したから、自分は看護師になったんだ。

この子には、自分たちみたいにはなってほしくない。

一時のにわか雨だろうか、私たちの身体を湿らしていく。
それでも私は構わず、春の女の子の方に腕を伸ばした。

彼女がこちらを向いて、首をかしげた。
私は一言ずつ、諭すようにはっきりと告げる。

「駄目だよ、そんな関係は。……ちゃんと向き合おう」

女同士の硬い握手をした。

 ・・・
(春音side)

病院を出る頃には雨は止んでいた。

タクシーから見える日差しは柔らかに、力強く降り注いでいた。
それに照らされる木々が輝いている。
こういうのを”光の春”って言うんだっけ。

涙が出そうでした……。
とってもきれいな、久しぶりに見る彩りのある世界が素敵だった。


アパートの鍵を開けて、わたしは玄関で両手を合わせた。
きちんと気持ちを込めて言葉を口にした。

「春、ただいまです」

靴箱の上に置かれた家族写真に写る両親の顔は、どういう訳か安堵しているように見えた。
わたしの状況は普通じゃないけれど。
ここに来れば家族に会えるんだ。

その嬉しさを噛みしめても良いのかなって思う。