土岐がこの財団法人に勤務するようになったのは大学院の指導教授の紹介だった。博士課程後期課程を終えて、研究生として大学院に残り、論文を発表しながら、大学の教職に応募し続けたが、どこも五十倍を超す倍率で、論文業績の不足から最終面接までたどり着けなかった。地方であれば、倍率の低いポストも散見されたが、都落ちのような敗北感があって、踏ん切りがつかなかった。それに、同居の糖尿病と白内障をわずらっている母を一人にするわけにもいかないし、見知らぬ土地に同行させることもはばかられた。研究生を一年でやめ、この財団に勤務して三年目で、三十歳を超えてしまった。博士論文の提出を目指し、土日に開催されるさまざまな学会や研究会に積極的に参加して、論文業績を増やすモチベーションを維持しようと努めているが、お茶を濁すような論文しか書けず、自らの将来に対して次第に不安を抱くようになっていた。
(この程度の能力で、研究者としてやっていけるのかどうか)
と自問自答の日々が続いている。

 土岐が浜松町駅で山の手線に乗り込み、有楽町駅で途中下車したのは五時十五分過ぎだった。JRのホームから望めるパレスサイド・パークビルの5階までは5分もあれば充分だった。有楽町駅を出て、晴海通りをお堀に向かって歩いた。歩いただけで、額にうっすらと汗がにじんだ。背広の上着を肩にひっ掛けた半袖の腕に初秋の陽光が高速道路の高架を越えて照りつけてきた。残暑の太陽が傾きかけた分、ビルの谷間をすり抜けてくる日差しが、西空を見上げる目を時折直撃した。勤務時間中の室内照明に慣れた眼にひどく眩しく感じられた。歩きながら土岐は軽い動悸を感じていた。土岐にとって好ましい話である確率が八割、そうでない確率が二割と予想された。その二割が土岐の心臓の鼓動を速めているようだった。