と土岐は河本を事務室奥の窓際の黒革の応接セットに誘導した。いつもは土岐の机で用件を済ませるが、応接セットの脇の席に事務局長の金井がいないので、自然と足が向いた。金井に気兼ねせずに打ち合わせができる。土岐は先に腰掛けて、校正原稿を手渡した。
「確認までに、ちょっと、見てください」
と土岐は言い添えた。
「はい」
と言いながら、河本は使い古した黒いアタッシュケースを傍らに置き、手渡した原稿に簡単に目を通した。
「とくに、大きな訂正はないですよね」
と男にして異様に長い睫毛をパチクリさせて、眼を落としたまま事務的に確認してくる。
「これから、サロンの価格とかメニューに若干の訂正があるかもしれませんが、・・・それは、こちらで手直ししますから・・・」
「そうですか。・・・最近、印刷ソフトとプリンターが良くなっちゃって、こっちの商売はあがったりですよ」
と河本はすぐ立ち上がる風情もなく、どうでもいい世間話を始める。
「まあでも、特殊用紙とか、特殊印刷とか、込み入った網掛けとか、・・・そちらもサービスの高度化で対応できるんじゃないですか」
と土岐も当たり障りのない話で応じる。
「それも限界があるでしょう。この仕事は、わたしらの代で終わりかもしれないです」
と言いながら、金井が席にいないことを確認するようにして印刷屋は席を立った。
 土岐が出口まで見送りに行くと、
 「来月末ごろで、よかったんですよね」
 と河本は振り返りながら念を押してくる。
「納品ですか?」
と土岐は確認したが、河本は聞いていない。
「そうだとすると、これは校了でよろしいですか?」
と河本はまるで土岐からの、(ノー)という答えを想定していないように聞いてくる。
「とくに急いではいないんですが、リーフレットの在庫がなくなっちゃったんで、責了でお願いします」
と言うと、河本は受付のカウンターでカラのアタッシュケースに校正原稿を投げ入れて、事務室を出て行った。男物の安手の香水のにおいが残された。
 自席に戻ると、事務局長の金井が理事長室から戻っていた。目があうと、手招きされた。
「ちょっといいかな」
と命令するような口調だった。
「はい」
と土岐が答えると、応接セットに座るように手振りで指示された。先刻、印刷屋が腰掛けて、座った跡とぬくもりがまだ残っているところに腰を下ろした。
「福原さんもちょっと・・・」