残業は滅多にないが、以前、残業のないことを勝手に想定して友人と会う約束をして、痛い目にあったことがある。今晩、残業があるかどうか福原に確認しようとしたがやめた。(いずれわかることだから)
と思いつつ、
(なんの用事だろう?)
と鈴村の用件を想像してみた。一昨年の三月まで、シンクタンクの扶桑総合研究所で経済産業省委託の調査報告書作成のアルバイトをしていた。
(たぶん、そんなようなものだろう)
と推察した。それ以外には、OB会を除くと,鈴村との接触は今日までなかった。
 事務局長の金井は天井まであるはめ殺しの窓を背に、パソコンの画面に数字を打ち込んでは、左手を半袖ワイシャツの脇の下にはさみ、右手の人差し指を頬に当てて考えごとをしている。背景の窓外にうす鼠色の海面にきらめく銀糸をちりばめた東京湾が広がる。外海は曇り空のようで、金井の丸いなで肩に重なる水平線と空の境目がはっきりしない。
(金井さんはたぶん、来年度の予算案を作成しているのだろう)
と土岐は想像する。金井の仕事の大半は監督官庁である経済産業省から、補助金を引き出すための事業案の作成だった。アジア諸国との経済文化交流の促進が事業の謳い文句だが、土岐の素人目にも、あってもなくてもどうでもいい事業に見えた。
 いま土岐に与えられている仕事は事務室に隣接している東亜サロンのリーフレットの校正だった。夕方には印刷屋が取りに来るので、それまでには仕上げなければならない。おもな内容は東亜サロンの設立趣旨、ロケーション、アクセス、メニュー、料金、予約の方法、シェフの紹介、入会の方法などだった。
 出入りの印刷屋に終業時刻の5時に来られると、鈴村との約束に遅れるおそれがあるので、河本印刷に電話を入れ、営業マンがここに立ち寄る時間を確認することにした。
「河本印刷さんですか?東亜クラブの土岐です。今日、東亜サロンのリーフレットの校正をお渡しすることになっているんですが、何時ごろこられるか、分かりますか?」
 すこし間があった。印刷機が稼動している雑音がはいる。
「どうも毎度お世話になっています。土岐さんですね。外回りの者にそちらに電話を入れさせますので・・・」
と取り込み中のようで、周囲の雑音にまぎれて、ぞんざいな言い方だった。
「はあ、お願いします」