一 ある調査依頼

 肘掛のない事務椅子をすこしきしませて腰を浮かす。背伸びをするとウォーター・フロントの灰白色のビルとビルの隙間から東京湾の海水がまばたきをしているように見える。ときどき陽の光をはじいてレインボーブリッジに仕切られた海面がラメのようにきらめく。ブリッジの先にマッチ箱のようなお台場のビルが見える。オフィスの窓から眺められる潮風の風景は、文書のワープロ文字に疲れ果てた眼をほんのひととき和ませてくれる。
 岩槻ゼミナールの土岐の先輩で、民間経済シンクタンクで産業経済部の部長を務める鈴村から一年半ぶりの電話があった。昼食を終えて十一階の事務所に戻ってきたときだった。経理の福原が下膨れの頬をすこし横にひろげて、いつものように取り次いでくれた。
「土岐さん、3番に外線です。扶桑総合研究所の鈴村さんからです」
「はい」
と答えて鼠色の受話器をとり、点滅する3番の内線ボタンを押す。
「土岐です。どうもご無沙汰してます」
とすこし期待を抱きながら事務的に答えると、受話器からはみ出しそうな野太い声がした。
「あ、土岐君、鈴村です。今晩時間ある?」
と大きな飴玉をしゃぶっているような懐かしい声がする。眼鏡からはみ出しそうな肉厚の丸い頬が眼に浮かぶ。
「五時以降でしたら・・・」
と土岐は探りを入れるように言ってみる。
「そう。そこ浜松町でしょ。5時半までに来られるかしら・・・」
と断られることを想定していないような抑揚で言う。
「有楽町のパレスサイド・パークビルですよね」
と言いながら、駅前の古びたビルの佇まいを思い出していた。
「うん」
と言う声音に、
(イエス)
という返答を待っているような余韻がある。
「残業はないと思うので、・・・たぶん行けると思います」
と言ったあと、
(もしも残業があったらどうしよう)
という軽いあせりが土岐の脳裏をかすめた。
「あ、そう。じゃあ、パレスサイドビルの5階で待ってるよ」
と用件だけ手短に言うと、鈴村からの電話はすぐに切れた。電話を取り次いでくれた福原の方を見ると、うす桃色の頬を下に向けて、素知らぬふりをしている。電卓を苛立たしそうに叩いている。彼女の性癖からして聞き耳を立てていたはずだ。土岐の視線には気がつかないように振舞っている。長い睫毛の奥で瞳がせわしなく動いている。