……信じても、いいよね。
 龍神様は、私をお迎えに来てくださったんだ、って。

 なんにもない、どころか、――苦しみと痛みを受け続けるだけの人生だった。
 そんな私の人生の最期に……ひとつくらい、とっても嬉しいことが、……優しいことが起きたって、いいよね。
 たとえ、蜃気楼みたいな夢でも……妄想でも……。

 涙があふれる――水のなかなのに、ぽろぽろ、ぽろぽろと、……私の涙はふしぎなかたちの透明なしずくになる。
 やっぱり、ここは、ただの水中ではない――龍神様のご加護が働いている、ふしぎな空間なんだ。

 水のなかなのに、身体のぬくもりも、感じる。

 龍神様が、いらっしゃる……。

「本当に……いらっしゃったのですね……すみません、こんな失礼なことを……でも、でも……私、ずっと、なんにもなくて……龍神様しか、いなくてっ……」

 涙も、抑えられなかった。

「龍神様……龍神様……!」

 龍神様は。
 こんな私がすがりつくのを止めることもなく、ただただ優しく抱きとめて、背中を撫でてくれるのだった。それはそれは、優しく。

「わかっている。ひな。……わかっているから」

 私が落ち着くまで、そうしてくれていた。
 時がとまったかのような、ふしぎな水中の空間で――。

 ……ずっと、優しくしてもらったことなど、なかった。
 肌にふれられることはあっても……それは、残酷な目的のためだけで……。

 私は、はじめて知るあたたかさに、……おぼれてしまいそうだった。

 ……私の嗚咽も落ち着いて、すこし落ち着いてくると、急に恥ずかしくなった。

「……申し訳ありません。赤子みたいに泣いてしまって」

 もう、私も良い年なのに……。
 けれど龍神様は目を細めて笑い、私の頭をよしよしと撫でる。

「いいんだよ。ひなが心のままに泣いてくれたことが、俺は嬉しいよ。……俺は龍神だ。ひなの願いもわかっている。……ひなはずっと、まわりの人間のように生きてみたかったんだよね? 泣いたり、笑ったり、ときには甘えてみたり――」
「あ、その……」

 自分の意志を尋ねられたことなどほとんどないから、口ごもってしまった。
 でも、龍神様は。村のひとたちみたいに怒ることもなく、ただただ柔らかく、私の返事を待ってくれている。

「ひなが、もっとも幸福でいたかった時代に、これからは戻ることができるよ」

 ……どこか熱のこもった、けれど粘ついてはいなくて不快ではない、宝物を見るような慈愛に満ちた目で。

「もっとも、自分らしくいたかった姿?」
「先代の巫女も、その先代の巫女も、幼子のすがたに戻った。……その時代に、もっとも幸せでいたかったんだろうね」
「先代の、巫女……」

 それって……私が巫女に選ばれる年に犠牲になった、私が勝手に親近感を覚えていた先代の巫女のことだろうか……?

 どういうことだろう。

 龍神様のお言葉の意味を、理解したい。
 でも、うまく尋ねられない。
 自分の思ったことをうまく尋ねる練習なんて――これまで、させられてこなかったから。

 けれど、龍神様はそんな私の気持ちなどすべて見透かしたみたいに、愛おしそうに小さく笑った。

「龍神の郷では、最も自分が幸せでいたかった姿に、みんななるんだ。自然と、そのすがたになる。もちろん、ひながいくつの歳になっても、俺はひなのことが大好きだから、心配しないで」

 龍神さまは、それはそれは優しく微笑む。

「ああ、そうだ。大事なことを訊き忘れていたよ」

 龍神様は、にっこりと笑った。

「俺と、結婚してくれるね――ひな」
「けっこん……」

 ずっとずっと、村では言われ続けてきた。
 おまえは龍神様の嫁だから。
 だから、だれとも結婚してはならない定めなんだと――。

 言われ続けてきたのに。

「……いやか?」

 龍神様は、不安そうにこちらを見てくる。
 私はあわてて首を横に振った。

「いやなんて、そんなこと……あるわけ、ございません」

 龍神様の顔が、ぱっと輝く。

「では、俺の花嫁となってくれる?」
「もちろん、もちろんです、こんな私でよろしければ」
「ひなじゃないと嫌なんだ」

 龍神様は、格好いいのに、……悪戯っぽくて。

「よかった……断られなくて」

 それでいて、安堵して煌めいていて。
 ……ふしぎ。
 私なんかの答えに一喜一憂されるなんて、いままでなかったから。

「もう、ひなを悲しませるこんな村にいる必要はない。行こう。龍神の(さと)へ」
「龍神の郷――」
「俺にしっかり捕まってて!」

 尋ねる間もなく。
 龍神様は私を抱きしめると、――ものすごい勢いで、水のなかを上昇しはじめた。

 水中から、地上へ。
 濁っていたはずの龍神様の湖は、龍神様が降り立ったからなのか――信じられないほど透き通っていた。

 じっくりと、見つめている()もなく。
 龍神様の飛翔は、地上からさらに天空へ。
 生涯を過ごした結重神社が、どんどん小さくなっていく。

「わあ……!」

 私は思わず、歓声を上げていた。
 空から一面見下ろせる、畑、田んぼ、山々――。

 どこまでも、壮大で。
 とても、美しかった。

「どうだい? 天から見下ろす、人の里は」
「……すごいです、すごいです……!」

 私の拙い言葉では、それだけ言うのが精いっぱいだったけれど。

「ひなが喜んでくれて、よかったよ」

 龍神様には、伝わってくださったようだった。

 龍神様は私を抱きかかえたまま、山の向こうを目がけて飛んでいく。

 結重神社も、村も。
 どんどん、どんどん、遠ざかっていく。

 ついには、豆粒のようになって――見えなくなった。

 そして私は、若き龍神様とともに、龍神様たちの暮らす郷へと向かうのだった。