「営業時間外なのに本当にありがとうございました。ぼ、ぼく、…あした、部長に相談してみようと思います。…ちゃんと辞められたら、また、ここに来ます」

「おう、待ってんよ」

「本当に、本当に…ありがとうございました」



日野さんは、ニコラシカ1杯分のお金を払い、丁重にお辞儀をして店を出た。

来店時より心なしか猫背がよくなったような気もする。決心がついたことによって心が解放された影響もあるのだろう。明日が、日野さんにとってよりよい一日になることを、こころの片隅で願った。


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西野さんと私の二人で日野さんを見送った後。カランカラン、ベルを鳴らして店内に戻ると、カウンターのいちばん端に突っ伏して眠る灰崎くんの姿が見えた。


時刻は3時半を回ったところ。灰崎くんは、30分前からこんな感じで、時折「ん“~…」と唸りながら眠りについている。


「トモちゃん、ごめんねーこんな遅くまで」
「いえ、問題ないです」
「灰崎《こいつ》の禁酒理由、どーよ。笑えるっしょ」
「笑える…と言うより、意外、でした」
「はは、そーかそーか」


灰崎くんが禁酒している理由は持病を持っている訳ではなかった。そして、西野さんはその理由を知っていた。バイト終わりにビールを差し出して断られたのも、「あーそんなん?」なんて言っておいて、早川くんに悟られないようにするためのカモフラージュだったと言う。



「……灰崎くん、お酒弱いんですね」





ハーバードクーラーを飲んで数分すると、灰崎くんは明らかに様子がおかしくなった。おかしくなった……と言うよりは、確実に『酔っている』人になったと言う方が正しいだろうか。

「なんなんすかもおー…」とか、「西野さんまじ意味わかんねえっす」とか「寝たい」とか。普段バイトしている時は ニコニコ笑って愛嬌を振りまいているはずの灰崎くんはどこにも居なくて、代わりに、全然笑わない灰崎くんが現れた。

意外だったのだ、本当に。勝手なイメージではあるけれど、灰崎くんはお酒が強いひとだと思っていた。



「普段ヘラヘラ笑って誤魔化してるくせに、酔うと自分のこと引くほど卑下して喋るんだよ。トモちゃんもさっき見たろ。俺最初見た時すげー悲しくなったもんな。聞いてるこっちが同情してもしきれないくらい、灰崎は自分のことを嫌ってる」

「……そうですね」

「灰崎は、多分この先もトモちゃんにはあんなん見せるつもり無かったんだと思うんだけど。俺はさ、トモちゃんには灰崎のこと知って欲しいって、勝手に思ってたわけよ」

「…それは、どうしてですか?」

「そりゃあれだよ、灰崎とトモちゃんが似たもの同士だから」



灰崎くんと私が似ている。具体的にどこが、とは 言われなかった。けれど確実に、たしかに、私たちは似ているらしい。





「灰崎起きろ。タクシー呼ぶから帰れ」
「ゔゔ〜…ん」
「ポンコツ酔っ払いめ」
「うぅぅん、ゔっざいでず、にしのさん」
「ウザイだぁ?森に捨ててやるかコラ」
「ん"う……」
「そんでまた寝んのかおまえ……」



目覚めたらきっと灰崎くんはいつもの彼に戻っていて、早川くんに何を言われてもどんな態度を取られても、笑っているのだろう。

大学には行かず、女性関係にだらしないと噂を立てられ、バイトに来たらグラスを割る。それが普通だとされても尚、彼は笑っている。


私は、明日からもまたいつも通りできるだろうか。似たもの同士だなんて、空っぽな私と同じにされて灰崎くんは嫌じゃないだろうか。



『全部中途半端でゴミみたいな生活してて、心ん中でいっぱい黒いこと思ってて、俺ばっかりなんでこんなことしなきゃなんないんだっても思う。言うこと聞かない俺の手からグラスが落ちて、破片を片付ける度に これが刺さって血だらけになって指ごと無くなっちゃえばいいのにって思うし、知らない人とのセックスは苦痛だし、酒飲んでいい気分になって全部どうでも良くなりたいのに弱いから3杯で死ぬしさぁ、ほんと、まじで、かなり最悪』




アルコールが回った灰崎くんは、聞いているこっちが悲しくなってしまう過去の話をしていた。






灰崎 在真。21歳、フリーター。


高校時代までバドミントン部に所属していて、インターハイに行くほどの実力の持ち主だったという。けれど、手首を怪我して引退する前に退部。「手がゆるゆる」と言っていたのは、怪我の影響だったみたいだ。

本来ならスポーツ推薦を貰えるはずだった大学には行けなくなり、止むを得ず地元の大学に進学するも、やりたいことが見つかることはなく、時間の無駄だと感じて3年の夏にやめたらしい。


手が痙攣してしまうのでバイトもろくに出来ず、本当にお金がない時はホテル街を彷徨って、年上の女性からお金を貰う。西野さんのバーでバイトするようになってからも、バイトがない日は未だにそういうことをしているらしい。早川くんが見たのは、その時の灰崎くんだったのだと納得した。


そんな生活をしていた灰崎くんが、ある日ベロベロにお酒を飲んで路上で死にかけていたところを 西野さんが拾って介抱したという話だ。そこからの経緯は、西野さんが常に軽いノリがあることもあって、流れるままにここで灰崎くんを雇うことにしたとのことだった。






話を聞いて思ったのは、やっぱり私たちはどこも似ていないということだった。


私には、インターハイに行った経験も、怪我で挫折をしたことも、大学を辞める勇気を持ったこともない。冒険しない平凡な道を、つまらないつまらないと言いながら歩いてきただけの人間だもの。灰崎くんと似たもの同士だなんて、灰崎くんに失礼だ。



『おれ本当なんで生きてんのか分かんないよ、なんの価値もない。おれ、毎日命の無駄使いしてるんだ』



命の無駄使い。灰崎くんはそう言って自分で自分を侮辱する。苦しかった。日野さんも私も、灰崎くんにかけるべき正しい言葉が分からず、そこにはただどんよりと重い雰囲気が漂っていたのを覚えている。



「トモちゃん、タクシー呼ぶから一人で帰れる?灰崎帰れそうにないから、俺ん家連れて帰るけど。それとも、トモちゃんも一緒に来る?」


先程のことを思い返していた私に、灰崎くんを担いだ西野さんが言う。「え?」と声を零せば「どっちでもいいよ」と返された。どっちでも良いって、一緒に来るって、どういうこと。



「ああ、でも、灰崎はカクテル言葉詳しいよ」


そう言われ、言葉を飲み込んだ。後で調べようと思ってはいた。けれど、自分で調べるのと 人から意味を聞くのとでは、耳への溶け込み方が違う。灰崎に教えて貰えるのならその方が良いと、私は思ってしまった。……けれど でも、本当に良いのだろうか。私なんかが灰崎くんに踏み込んで──…、


「トモちゃん」


名前を呼ばれ、顔を上げる。




「知りたがることは なにも悪いことじゃねえぞ。それに言ったろ?もっと正直に生きなって」


───正直に生きることが、命を大切に扱っていることになるのなら。