《ひまりちゃんが、はやく元気になりますように》


 丸っこい字で大きく書かれた、その下。思い出して書き加えたかのように、少し窮屈そうにもう一文、収まっている。


《倉木くんのお母さんも、ずっと元気でいてくれますように》


 どうして春野がこれを書いたのか、その理由も、僕はすぐに思い当たった。
 あの日、この場で彼女と交わした会話が脳裏によみがえる。

『なに願った?』
『……家族の健康』
『おお、いいね!』

 思い至った途端、鼓動が耳元で大きく響いた。息が詰まる。
 帰り、送っていこうかと提案した僕を、春野は断った。『まだやることがあるから』と言って、神社に残っていた。
 ……彼女は、あのあと、これを書いたのだろうか。僕の願いを聞いて。

 僕は手を伸ばし、その絵馬に触れる。そうして震える指先で文面をなぞったとき、ふと、その隣の絵馬が視界の端に映った。
 同じ、丸っこい文字。驚いて今度はそちらの絵馬に目をやり、そこで気づいた。
 春野が書いたらしい絵馬は、一枚ではなかった。
 その隣も、そのまた隣にも、同じ文字で、そして同じ名前の登場する願い事が並んでいた。


《倉木くんが、また野球を始められますように》


《昔の倉木くんみたいに、明るく笑えるようになりますように》


《漫画もたくさん読んで、友達ともたくさん遊びにいけるようになりますように》


《ずっと病気なんてせず、健康でいてくれますように》


 唇が震えた。絵馬に触れる手も、足も、全身が震えて、奥歯が音を立てた。
 書かれているのは、あきれるほどに、僕のことばかりだった。
 恋愛成就の神社だというのに、恋愛のれの字もない。
 同じ日に続けて書いたのだろう。一枚書いたあとで、また新たな願い事を思い出したみたいに、何枚も。丁寧に書かれた春野の文字が、並んでいる。


《倉木くんが、これから、幸せになってくれますように》


 最後の絵馬は、それだった。
 ひときわ丁寧に書かれたその願いの後ろ。書こうかどうか迷ったような、ちょっと控えめな文字で、


《それで、ときどき、本当にときどきでいいので、

  わたしのことを、思い出してくれますように》

 
 眺めているうちに、僕は呼吸の仕方を忘れた。うまく息が吸えず、苦しくなって唇を開いたら、喉が震えた。
 息を吸おうとした喉からは、逆に、掠れた嗚咽があふれた。
「いや、何枚書いてんの……」
 笑おうとしたけれど、連続して込み上げる嗚咽に邪魔され、うまくいかなかった。
 火がついたように瞼の裏が熱くなる。
 おかしくて、うれしくて、悲しくて、愛おしくて。笑いたいのに、涙腺が壊れてしまったみたいに涙があふれてきて止まらなかった。

 春野は、たしかにここにいたのだ。
 僕に、会いにきてくれた。
 そう痛烈に実感して、途方に暮れる。

 理解できない、と心底思う。
 どうして僕なんかにここまでしたのか。どうして僕なんかを、ここまで想ってくれていたのか。趣味が悪いというか、正直、バカなんじゃないかとすら思う。
 なにもしてやれなかったのに。逃げてばかりで、傷つけてばかりで。
 僕でなければ、彼女はもっと、幸せだったかもしれないのに。

 ――だけど。
 僕はぐっと拳を握ると、強く目元を拭った。
 顔を上げ、彼女の残してくれた絵馬に、再度目をやる。何度も何度も、その文面を焼きつけるように眺める。

 もう、仕方がない。
 僕だったのだから。
 春野が僕を、選んでくれたのだから。
 これが彼女の願いなら、僕は全力で叶えるしかない。
 もういない彼女に、これから僕が返せるものなんて、きっと、それ以外にない。
 だから。


《倉木くんが、これから、幸せになってくれますように》


 なるよ、春野。
 だからどうか、そこで見ていてほしい。