「僕のこと?」
 沙和の口調が重くて、胸の奥が少し波立った。
 短く相槌を打った沙和は、それでもまだためらっているように見えた。
 ふたたび視線を落とし、逡巡するような間を置く。そのあとで、一度軽く唇を噛んでから、
「ひまりちゃんが遊具から落ちて怪我をしたときのこと、私はりっくんに、ちゃんと話したほうがいいと思ってた。なんで、ひまりちゃんが落ちたのか。でも花耶ちゃんは、話さないほうがいいって言って、それで揉めて」
「……なんで、そこで揉めるの」
「りっくんが、原因だったから」
「え」
「あの日、ひまりちゃんが遊具から落ちたのは」
 そこで軽く言葉を切った沙和は、もう一度唇を噛んでから、
「先に帰ったりっくんを、追いかけようとしたからなんだ」

 その言葉は、脳の奥に突き刺さるように響いた。
 つかの間、視界が揺れる。咄嗟に言葉が出なくて、ただ黙って沙和の顔を見つめる僕に、
「ひまりちゃん、私にも花耶ちゃんにも懐いてくれてたし、大丈夫だと思ったんだ。りっくんいなくなっても、私たちがいれば。だけどだめだった。ひまりちゃんが安心して私たちと遊んでくれていたのは、あくまでそこにりっくんがいたからだったんだよ。りっくんがいなくなったって気づいたら、ひまりちゃん取り乱しちゃって。あわててはしごを下りようとして、それで足を滑らせちゃって」

 聞きながら、その光景が驚くほど鮮明に、瞼の裏に浮かんだ。
 そうだ。ひまりは、そういう子だった。
 思い出したのは、去年の夏祭りでほんの数分はぐれた僕を、泣きながら捜すひまりの姿だった。
 道の向こうにいるひまりを見つけ、僕が名前を呼んだとき。振り返って僕を見つけた途端、涙でぐしゃぐしゃの顔でほっとしたように笑った、ひまりの顔。こちらへ駆け寄ってきたひまりの手を握りながら、もう二度と勝手にこの手を離してどこかへ行ったりしないと、あのときの僕は、たしかにそう誓っていたのに。

 あの日はそんなこと、考えもしなかった。
 僕がいなくなればひまりがどんな反応をするのかなんて、あの日だって充分想像はついていた。ついていたから、面倒だと思ったのだ。ひまりが泣いて、それをなだめなければならなくなることが。
 それより僕は、早く逃げたかった。楽しそうに野球をする小学生たちの笑顔を見たくなくて、それだけに必死だった。

「……春野は、僕にそれを、隠そうとしてたってこと?」
「うん。私はちゃんと本当のことりっくんに伝えて、今後、同じようなことがないようにりっくんが気をつけてくれればいいと思った。だけど、それを言ったら花耶ちゃんが」
 そこで少し、沙和は次の言葉を口に出すのをためらうような間を置いて、
「『ひまりちゃんが落ちたのは、倉木くんだけのせいじゃないでしょ』って。『あのときひまりちゃんといっしょにいたのはわたしたちなんだし、わたしたちにも責任はある。沙和ちゃんは、責任をぜんぶ、あの場にいなかった倉木くんのせいにしようとしてるみたいだ』って。そんなこと言われて、私もつい、カッとなっちゃって……それで、喧嘩になっちゃった」
 沙和の口にした春野の言葉が、春野の声になって頭の中に響いた気がした。沙和にそう告げたときの春野の必死な表情も、見てもいないのにはっきりと想像できた。春野がそれを、決して沙和を傷つけたくて言ったわけではないことも、もうわかっていた。

「でもね」
 続けた沙和の表情が、かすかに苦しげに歪む。
「花耶ちゃんにそう言われて、私、たしかにそうだったかもしれないって気づいたんだ。ひまりちゃんが落ちたのは、先に帰っちゃったりっくんが悪いって、りっくんだけの責任だって。そう思いたかったのは本当だった」
 だって、と沙和は絞り出すような調子で、
「あの日、ひまりちゃんを公園に誘ったのは私だし、遊具の上にいるひまりちゃんに、りっくんが帰ったことを伝えたのも私だった。ひまりちゃんが落ちたとき、いちばん近くにいたのも私だった。花耶ちゃんは、ひまりちゃんといっしょに遊具に上ってたから」
 苦いものを吐き出すみたいに、沙和が言葉を継ぐ。
「私が」彼女の声が震えるのに合わせて、アイスティーのカップに添えられていた彼女の指先も、小さく震えた。
「ひまりちゃんに伝えるタイミングを、もっと考えればよかった。ひまりちゃんが落ちたときも、もっと必死に受け止めればよかった。そもそも、私があの日、ひまりちゃんを公園に連れていかなければって。そんなこと考えたら、ひまりちゃんにもりっくんにも申し訳なくなって、あれから私、りっくんと顔合わせるのがつらくなって……」

 僕は言葉をかけるタイミングを失ったまま、茫然と沙和を見ていた。
 なにをしているのだろう、と、足元から真っ黒な後悔が這い上がってきて、息が詰まる。
 どうして今更、僕は沙和からこんな話を聞いているのだろう。
 ひまりの事故のあと、沙和の態度がおかしかったことぐらい、僕はちゃんと気づいていたのに。どうしてあのときはなにも、訊こうとしなかったのだろう。

 ――ああ、そうだった。それも、面倒だと思ったのだ。
 あからさまに僕を避けていた沙和に、僕のほうから近づいていくことが。そうして彼女にあらためて拒絶されて、傷つくことが。

 沙和はずっと優しい子だった。しっかり者で面倒見が良くて、同い年なのに僕よりどこか大人びていて。小さな頃から、僕にとってはまるで姉のような存在だった。
 そんな彼女が、たいした理由もなく僕を避けるようになるわけがないことぐらい、僕はちゃんとわかっていた。わかっていたから、目を背けたかったのだ。その理由を知って、さらに傷つくことが怖かった。

 今はそんなこと、したくなかった。しなくていいと思った。
 ひまりが病気になって、家族のために大好きだった野球をやめて、代わりにやりたくもないバイトを始めて。宿題だとか受験だとか、そんな呑気な悩みしかないクラスメイトたちの中で、ただひとり、僕だけが不幸だと思っていたから。
 そんな僕が、様子のおかしい友人にかまう余裕がなくても、仕方がないだろうと思っていた。今の僕なら、嫌なことや面倒なことから逃げたって、べつにいいはずだと。
 沙和がなにを悩んでいたのかなんて、考えもせずに。

「私、自惚れてたの」
 いっきに込み上げてきた苦い感情に、顔を伏せた僕の耳に、沙和のそんな声が追いかけてきた。
 沙和らしくない、頼りなく掠れた声だった。
「ずっとね、私、自分のことしっかりしてると思ってた。だからりっくんのことも、私がなんとかしなきゃって、なんとかできるって思って」
「僕のこと?」
「ひまりちゃんが病気になって、りっくん野球やめちゃって、腐ってたでしょう」
 遠慮なくはっきりと言い切られ、え、と思わず声が漏れる。
「そんなふうに見えてた?」
「そりゃあもう。毎日暗い顔してさ。前の明るいりっくん知ってたから、私、そういうりっくんを見てるのつらかったよ」
 ……知らなかった。内心はどうあれ、周りには普通に振舞っているつもりだった。振舞えていると思っていた。
「だから私、りっくんを元気づけたかったのに」
 違ったのだ。
 今更知った事実に、胸が詰まる。
 あの日、沙和が僕らを公園に誘ってくれたのは、ずっと、ひまりのためだと思っていた。
「元気づけるどころか、ひまりちゃんに怪我させちゃって、もっと悪いことになっちゃって。ごめんね。私が自惚れて、私ならなんとかできるなんて思っちゃったから。それでひまりちゃん……」
「違うよ」
 声は、考えるより先に喉から転がり出ていた。
「沙和は悪くない」
 沙和が僕に謝らなければならないことなんて、なにもない。あるはずがない。だって、ひまりは。
「今も覚えてるんだ、ひまり。あの日、公園で遊んだこと」
「え……」
「遊具から落ちて怪我をしたことは忘れてるけど。沙和たちと公園で遊んだことは、ひまり、ずっと覚えてるよ。本当に楽しかったんだって、今も言ってる。沙和にも春野にも、また会いたいって」
「……本当に?」
「うん。だから」
 僕は顔を上げると、沙和の目をまっすぐに見た。
「僕は沙和に、本当に感謝してる。あの日からずっと」
 ――そんなことすら、僕は今まで一度も、彼女に伝えていなかった。

 お店を出ると、だいぶ雨脚は弱まってはいたものの、まだ傘が必要なぐらいの雨が降りつづいていた。
「そういえばりっくん、最近久しぶりに花耶ちゃんに会ったって言ってたけど」
 別れ際、また今度ゆっくり会おう、なんて話をしながらお店の前で軽く立ち止まっていたとき、ふと思い出したように沙和が言った。
「今、また花耶ちゃんと仲良くしてるってこと?」
「うん、まあ……ときどき会ったりしてる」
 沙和がどうしてこんなことを訊くのかわからず、曖昧な返答をすると、
「そっかあ。……やっぱり、花耶ちゃんはすごいなあ」
 沙和はふっと目を伏せ、ため息をつくように呟いた。
「なにが?」
「だって今、りっくんがあの頃より明るい顔してるのって、花耶ちゃんのおかげなんでしょう」
「え?」
 急に思いがけないことを言われ、僕は沙和の顔を見た。目を瞬かせながら、聞き返す。
「明るい顔、してる?」
「うん。今日、最初に会ったときから思ってたよ。なんかりっくん、変わったなあって。突然あの日のことを私に訊きにきたのも、花耶ちゃんがきっかけだったんでしょ」
 そこで沙和はちょっと悪戯っぽい笑顔になり、
「階段で喧嘩になったときに思ったんだけどさ、花耶ちゃんって、りっくんのことになるとすごく一生懸命だもんね」
「……ああ、それは知ってる」
 駅のホームでいきなり僕に三十万を突き出してきた、四日前の春野の姿が浮かんだ。
「やっぱり、それぐらい一生懸命な子じゃないと、りっくんの気持ちは動かせなかったんだろうな。私は、つらくなって逃げちゃったから」
 少し寂しそうに笑って、「じゃあね」と沙和は手を振った。

 彼女のオレンジ色の傘が遠ざかるのを見送りながら、そこでようやく、僕は沙和の言わんとしたことを理解した。
 途端、ゆるやかに鼓動が速まっていき、指先がかすかに熱を持つ。

 春野に、会いたいと思った。
 ――彼女にも、伝えなければならないことがある。